信仰生活ABC

信仰生活ABC(28)

2017-05-18

問2 それでは祈りとは何ですか。
答 祈りは、私たちの切実な願いと求めを神に告げて、今ここにある私たちに対す る神の意志を示されることであります。ですから、特に宗教的な聖い場所で特に宗教的な事柄についてのみでなく、む しろこの世の中で個人的社会的窮乏の中から、いわゆる世俗的事がらについ て、祈るのです。そこで、この世の中にまきこまれている私たちに、その一つ一つの具体的事が らに対する神の意志が示され神と交わることができるのです。

祈りは、私たちの切実な願いと求めを神に告げて、今ここにある私たちに対する神の意志を示されることであります。この世の中で個人的社会的窮乏の中で、いわゆる世俗的な事がらについて祈るのです。

主イエスは弟子たちに「こう祈りなさい」と言われ、所謂「主の祈り」を教えられました。

天にまします我らの父よ、
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来らせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

ここには神に関する祈りがあると同時に、「日用の糧」「罪」「こころみ」「悪」といった、日常の生活に関する祈りもあります。
主イエスはそれらを次元の低い祈りとはされず、私たちに必要で大切な祈りとされたのです。そしてそのことについて祈ることが許されているのです。

金子勝氏の『悩みいろいろ―人生に効く物語50』(岩波新書)に、ゲーテ『ファウスト』の中の話が出てきます。悪魔のメフィスト―フェレスが「人間どもがくる日もくる日も苦しんでいるのを見ると憂鬱です。意地悪をしてやろうという気がなくなるくらいなんだから」と言いますと、。神は「人間は精を出している限りは迷うものなんだ」とお答えになるのです。

祈りは特に宗教的な聖い場所はもとよりそれ以外の場所でもなされるものです。教会堂は祈りの家と言われます。マルコ11:17「『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである』」。列王記上8:29~30「夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」

しかしそれ以外の場所でも祈ることを許してくださるのです。今日はセンター入試の日ですが、受験生の中にはキリスト者がいるかもしれません。彼らは試験に臨んで短い祈りを捧げているかもしれません。病床にある人はそこで神に祈っているかもしれません。「病床という名の聖所」。食事の準備をする人は台所でも祈りを捧げるでしょう。食卓ももちろん祈りの場となります。感謝の祈りがあれば貧しい食物であっても、豊か卓となるのではないでしょうか。

その一つ一つの具体的事がらに対する神の意志が示され神と交わることができるのです。祈りは私たちの不安や恐れ、直面している問題を瞬時に取り除いてはくれないかもしれません。しかし祈りの中で最初に示されることは、自分が直面している課題に神があたかも自分自身の課題であるかのように共に取り組んでくださることを確認できるのです。そこには協働者を確認できた平安があります。自分一人で課題に取り組まなくてもいいのです。

祈りの中で神は私たちの不安や恐れを一時取り除いてくださるでしょう。この一時が大事では? 重い荷物を下ろすことができないのではなく、一時主イエスのもとに下ろして休息できるのです。この一時の休息の持つ力は大きい。課題を引き続き担う新たな力と勇気が生  じてきます。

山道で汗をぬぐいながらこれから先の道を眺めるような気持になるでしょう。主イエスと共に歩むこの道は必ず解決へと通じていることを確信でき、心に安心が訪れるでしょう。先が見えないことが私たちを不安にするのです。

祈りの中で、主イエスと共に生きる喜びを経験するでしょう。「こどもさんびか」にこんな歌があり、私は大好きです。「ただひとり野原を歩いている時にも、イエス様はわたしの力です城です」こんな讃美歌もあります。「主イエスと共に歩きましょうどこまでも、主イエスと共に歩きましょういつも 、うれしいときもかなしいときも、あるきましょうどこまでも、うれしいときもかなしいときも あるきましょういつも」

あなたも祈ってごらんになってはいかがでしょう? 思ってるようも大きな効果があるものです。主イエスは私たちが祈り始めるのをきっと待っておられると思います。

信仰生活ABC(27)

2017-01-16

問1 それでは私たちの信仰生活は、主の日に礼拝を守り、説教を聞いて礼拝
に出席しておれば、それでよいのですか。
答  いいえ。それだけでは私たちの信仰生活は、多く受け身にとどまること
になります。私たちは祈らねばなりません。祈りによって、私たちの方
から本当に神を求め、事実神を信じていることを表すのです。

信仰生活の心棒としての礼拝
礼拝を軽視する信仰生活はありえない。それは不健康な信仰生活に陥る最短の道です。「去年今年貫く棒のごときもの」高浜虚子。礼拝こそ生涯を貫いている心棒です。
説教を聞くことの大切さ
礼拝は多くの要素で成り立っていますが、基本的要素は招きの時、み言葉の時、応答の時、派遣の時。み言葉の時は主に聖書朗読と説教で成り立っています。聖書朗読は神の言葉が読まれるのですから、もっとも真剣な態度で耳を傾けるべきです。説教はそのみ言葉の説き明かしです。それを聞くことが基本的に大切です。使徒パウロはローマ10:14~17で「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言っています。

応答としての祈り
関西学院大学で神学を講じておられた松村克己先生の著書に『交わりの宗教』があります。神と人との交わり、それによって固くされる人と人との交わりです。この交わりを可能にするものは言葉です。神からの言葉、そして祈りという私たちの言葉。この祈りは私たちが「本当に神を求め、事実神を信じていることを表す」のです。松木治三郎先生も関西学院大学神学部の教授でしたが、「バプテスマを受けることができるかどうか、それはその人が心から祈ることができるかどうかにかかっている」と言われました。真の祈りは神への信頼があってはじめて可能になります。

私は毎朝神に祈るのが喜びです。「天の神様、今朝もこうしてあなたにお話しできることを感謝します。あなたが私の祈りに耳を傾けてくださっていることを心から感謝します」という言葉で始まっています。あなたも祈りをなさってみてください。心に静かな喜びと力が沸き起こってくるのをお感じになるにちがいありません。

ヴァルター・リュティ『あなたの日曜日』に記されている「森の中での主の祈り」はとても印象深いものです。長くなりますが関心のある方はお読みください。

しばらく前、親しくしていた80才ほどの鍛冶屋が亡くなりました。この人は家政婦の婚外子として育ちました。わずかばかりの固いパンをかじり、したた  かに棒でなぐられ、悪態や卑猥な話が絶えず飛び交う環境の中で大きくなりました。もしも信心深い隣の奥さんが、火中から燃える薪を取り出すように、この小さな子を母の虐待から引き出さなかったなら、彼は身も心も駄目になっていたしょう。
しかし婚外子として生まれたこの人は…奇跡的に助けられていきました。年少の頃から神の御言葉に強く魅きつけられ、すぐれた教会員となりました。不思議な神の恵みによって、この人はのちに有能な職人となり、誠実な夫となり、また多くの子供を見事に教育しました。
この人が亡くなって二、三週間後に…息子の一人で、アカデミー会員となっている人物に会いました。…その人は父親の生涯の一こまをそっと教えてくれました。子どもが小さい頃、彼は日曜日の礼拝後などにはみんなをシュヴァルツヴァルトへ連れて行ってくれました。…それは、一週間、働きづめの父親に子どもたちが存分に甘えられる時でした。父親は何でも知っていて、驚くほど博識で、創造の不思議なみわざに子どもたちの心を開かせてくれました。「しかし教わったことはこのような実用的なことだけではありません。私や妹たちがこの散歩で決して忘れられないのは、ある珍しいことなのです。何回か、あるいは全部で六回ぐらいだったかもしれません。…父はある異様なものに触発されて、モミの木の下にじっと立ち、帽子を両手に持って、『わが子たちよ、祈ろうじゃないか』と言うのでした。そして私たちはそこで一緒に主の祈りをさ  さげたのです。」
初老にさしかかったその博士は、それからさらに続けて語りました。「私は研究生活に入った後は次第に教会から離れていきました。しかしシュヴァルツヴ  ァルトのモミの木の下で祈る父の姿を今日改めて思い浮かべると、自分は生涯かけても決して父のようになれそうもありません。それが何かわからないのですが、父が生涯を通して幸いにも持ち続けられたあの本質的なものが自分には欠けているからです。父の苦しみの数か月間、またその臨終の夜をつき添いながら、私は自分の人生について、しばしば幾度も考えざるを得ませんでした。そして、そういうふうに考え続ける時に、思いはいつも常に繰り返して、あのシュヴァルツヴァルトのモミの木の下で経験した不思議な瞬間へ行き着き、そこで立ち尽くすのです。」

博士である息子が鍛冶屋の父親のもとで見た事がら、また自らが感じていた自分に欠けている事がらというのはいったい何でしょうか。暗い少年期に、明るく強くその生涯を照らした日曜日の祝福だと言ってはいけないでしょうか。かつて聞かされた御言葉の祝福にそのような力が込められていて、少年期の思い出がはるかに遠のき、そのなごりがほとんど認められなくなった時も漠然と した形で存在し続け、時としては逆らい難く「異様なものからの触発」のようにそれが作用したのではないでしょうか。神の御言葉の祝福はかくも強烈で、それゆえ、かつてシュヴァルトヴァルクのモミの木の下で六回ほど耳にした、しかも教会の礼拝から遠いところで祈られた主の祈りが、今では教会から離れている息子に何事かを考えさせているのです。そこから流れ出て世界を巡る川の流れに比べれば、泉というものは、なんと隠されていることでしょう。キリスト教会の礼拝というものは、なんと隠され,見栄えのしないものでしょう! しかし御言葉のもとにあるわずかな日曜日の時間に込められた泉の働きは、世界的な広がりを持っていて、その時間的・場所的な豊かさの点では計り知れないものがあります。世界の歴史を作り出すなんと多くの個人や働きが、その「発火点」を、静かな礼拝のひとときの中、すなわち天からの火花が貧しい者や見栄えのしない者たちの教会に天下るその場所に見出していることでしょう!日曜日、神の御言葉のもとに来るようにと教会の鐘が呼びかけます。祝福を千代にまで及ぼす神の御言葉のもとに来るようにと呼びかけます。安息日を駄目にしてはなりません。安息日には祝福があるのです。

信仰生活ABC(26)

2016-05-17

問 それでは、まずイエスの誕生について話してください。
答 イエスは、多分紀元前4年頃、私たちと少しも変わらない一人の幼子として、ユダヤ人の一人として、誕生しました。パウロは「女より、(ユダヤの)律法の下に生まれた」(ガラテヤ4:4)と書いています。

新約聖書の中でイエスの誕生物語を記しているのはマタイ福音書とルカ福音書です。マタイにはマタイの、ルカにはルカの告げたいクリスマスメッセージがあるのですが、クリスマスページェントはこれを上手にアレンジして演じているのです。
ルカ福音書はユダヤとローマの歴史の中にイエスの誕生を位置付けています。それはこの幼子はヘロデ王やローマ皇帝アウグストゥスに匹敵する、否それを凌駕する存在であることを告げようとしているのです。ローマ皇帝の誕生や成長、そして即位は帝国全体にとって喜ばれる出来事と理解されたでしょう。しかしルカは、この幼児イエスの誕生はそれ以上の意味と価値を持っていると私たちに告げているのです。

信仰生活ABC(25)

2016-05-16

しばらくお休みをしていましたが、今日から再び『現代キリスト教問答』の対話を始めたいと思います。

問 しかし福音書は、イエスの生涯、その姿や出来事をいろいろと伝えているではありませんか。
答 はい、そのことはやはり、キリスト教のはじめからきわめて大切なことでありました。そしてその後も福音書から常にイエスを描いてきました。ところが近代になって、福音書からそのイエスを描くことに満足できず、私たちの歴史の現実に生きていたイエスを史的に再建しようと試みました。事実福音書の中にはいわゆる史的イエスの真正な記憶による言葉や物語もあります。しかしどれを真正とするかは、もっとも高度な文献批判的研究によるよりほかはなく、しかもそれは容易に決定できないのです。だから実にさまざまなイエスが描かれてきたわけです。しかし史的イエスの追及は、あらゆる面から、ますます大切になってきました。そして私もイエスを自分の心に描いて、これをいつも大切にしています。
しかし、それは私にとって決して一つの固定した過去のイエスではなく、いつも私と共に、私の内に、生きていてたえず新しく描き直され、今日とさらに明日の私とこの世界を導くいのちの光と力となり、唯一の希望となっています

史的イエスを知りたいという願いはきっとみんな持っているでしょう。しかしまるで昆虫採集のように小さな箱の中に虫ピンで固定されてしまったようなイエスを求めるなら、それはきっと間違いでしょう。イエスは今も生きて私たちに日々関わってくださるお方だからです。私たちはイエスとの出会い、交わりの中で変化させられていくのです。かつてギャロット宣教師が「分かっただけの自分を、分かっただけのキリストに捧げなさい」と言われました。私たちはイエスとの交わりの中で、イエスについての理解が深まり、同時に自分自身の理解も深まり、そして彼と私との人格的な関わりは一層深まっていくのでしょう。

信仰生活ABC(24)

2016-04-02

問 それでは、そのほかにイエスの史実については知る必要はないのですか。
答 はい、そうです。たとえばパウロなども、イエスについて、もっと知っていたかもしれませんが、イエスの誕生とその死のほかはあまり書いていません。また使徒信条でも、イエスの誕生からいきなりポンテオ・ピラトのもとにおける受難と十字架に写っています。

ここで与えられている答えは、ちょっと意外かもしれません。しかしよく考えてみると、誕生と死以上に重要な史実はないのではないでしょうか。

こんな話を読んだことがあります。ある国の王様が学者たちに国の歴史を編纂させたというのです。長年かけて完成したものは膨大な書物になりました。王様は学者たちの労をねぎらいながらも、多忙な自分のために要約版を作成してくれるよう依頼しました。再び長い時間が経ち、学者たちが王様のもとを訪ねた時には、王様は病床にありました。しかし王様はこの歴史書に関心があり、さらに要約を求めました。学者たちが最後に持参したものは、「○○王は○○年に誕生、○○年に亡くなった」「□□王は□□年に誕生、□□年に亡くなった」・・・。それを聞き終わって王様は亡くなったというのです。この話が言おうとしていることは、人生において誕生と死以上に重要な史実はないということです。

イエス・キリストの場合も同じです。しかし各福音書はイエスの生涯や出来事を伝えていますが、これはどう理解すべきでしょうか。このことについては次回お話しすることにしましょう。

信仰生活ABC(23)

2016-03-29

問 イエスの史実、その十字架の死はキリスト教にとって不可欠であり、それがないとキリスト教、新約聖書も二千年の教会の歴史もありませんね。

答 そうです。このことはどんなに強調しても、し過ぎるということはありません。

イエスの十字架の死、それは初代のクリスチャンたちにとっては大きな躓きでした。ルカ福音書24章にはエルサレムからエマオというところに向かっている二人の弟子のことが記されていますが、そこには弟子たちの戸惑いがよく現れています。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」

十字架刑とはローマ帝国が実施した極刑です。ローマは帝国に対する反乱者に対してこれを行ったのです。それはローマに対する抵抗がいかに無意味であるかを示すためでした。十字架はローマ人にとっては無力さの象徴でした。
知恵や美を愛したギリシャ人には、十字架は愚かさの象徴でした。
ユダヤ人には十字架は神の呪いでした。
そんな十字架にかけられてイエスは死んだのです。愛を語り愛に生きたこの方がなぜ? できればイエスの十字架の話は避けて通りたいと思ったことでしょう。できるだけ早く忘れたいと思ったことでしょう。

しかしやがてこの十字架の死に込められた意味を知るに及んで、弟子たちはむしろこれを大切にし、このことを熱心に伝えるようになっていったのです。使徒パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」(Ⅰコリント1:18)、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(同1:23)と述べています。彼は十字架の死にイエスの信仰と愛、そしてイエスの復活という出来事の中に神の全能の力、そしてローマ帝国に対する否、イエスの信仰と愛に対する承認を見たのです。

私は少し急ぎたようです。混乱してしまった方もあるかもしれません。これからしばらくはイエス・キリストのことについてお話しすることになりますので、ご安心ください。いずれにしろ今日の箇所では、イエスの十字架はまぎれもない史実であることをご理解ください。

信仰生活ABC(22)

2016-03-22

問 それでは、はじめにイエスについて話し合いましょう。まずイエスの史実は、確かなのですね。
答 イエスの自筆は一句も残っていませんし、福音書は、イエスの死後、それも過去のイエスを事実としてではなく、今生きて語り働いているかたとして伝えているイエスのことばや物語など、さまざまな資料によって、書いたものです。そしてたとえばマルコは、イエスの伝記ではなく、「イエス・キリストの福音(1:1)を形成しています。だから、キリスト神話などと言われたのですが、キリスト教以外の、当時のローマの歴史書やユダヤ教文献でわずかに言及している所を見ても、イエスの史実存在とローマ法による十字架刑は、疑う余地のない史実であります。

ルカ福音書2章を見ると、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」とあり、またイエスの十字架刑の宣告を当時のユダヤ総督ピラトが行うことが記されています。これらはイエスがまぎれもなく歴史上の人物であることを告げているものです。決して架空の人物ではないのです。

もとより福音書は単なる伝記ではありません。それはイエスを救い主と信じる人々によって書かれたものです。しかしその人物に対する関心や評価や立場を持たないような伝記があるのでしょうか。アルベルト・シュヴァイツァーに関する書物も賛否両論あるのです。否定的な立場の人が書いたものに『シュヴァイツァーを告発する』があり、それによるとシュヴァイツァーは自分を兄とし、アフリカ人を見下して弟と呼ぶ暴君だと書いています。正直ひどい本だと思いました。そもそも完全に客観的な伝記など存在しないでしょう。それぞれの立場を持っているのです。だから福音書がイエスをキリストと信じる人々によって書かれたとしても当然だと思います。しかしそれは全くの作り話ではなく、その中には核となるべき史的な出来事があるのではないでしょうか。

私はそう思っています。そしてイエスを信じた人々が書いた福音書を通して私もまたイエスを私のキリストとして信じることができるのです。イエスの言葉は今ここで生きている私に救いをもたらし、生きる喜びと力を与えてくれている書物なのです。あなたにとってもそうだと思っています。

信仰生活ABC(21)

2016-03-18

問 イエス・キリストという名は何を意味するでしょうか。
答 「イエス(ヨシュア・神は救い)」は、当時のユダヤではありふれた名前です。しかし、「キリスト(メシア、油そそがれた者」は、単なる名前ではなく特別な称号であります。だからイエスとキリストとはもとは別々のものです。しかも両者が結合して、イエス・キリストというひとりの方を指しています。そこにキリスト教の特質があります。単に一つの特質ではなく決定的な特質むしろ躓きか信仰か、あれかーこれかの究極の事柄です。

「イエス・キリスト」という言葉に出会った時、「イエス」は名前で、「キリスト」は苗字と思っておられる方が案外いらっしゃいます。しかし聖書の中には「キリスト・イエス」と記されている箇所もあります。今日の信仰問答が教えているように「イエス」は固有名詞であり、「キリスト」は称号なのです。

当時、ナザレのイエスに出会った人々、彼の教えを聞いた人々、働きを目撃した人々は、彼をいろいろ言葉で理解しようとしました。もっとも多かったのは「ラビ(先生)」であり、続いて多かったのは「預言者」でしょう。しかしイエスの弟子たちは、がリラヤ湖の嵐をイエスが鎮められた時には「いったいこの方はどなたなのだろう」と言い、やがて「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白したのです。そう告白せざるを得ないほど強い印象を受けたのです。今日の教会も同様に告白しているのです。

 

信仰生活ABC(21)

2016-03-15

問 それ(聖書解釈の3つの拠り所)は何ですか。
答 第一に、聖書の中の聖書、その中心であるイエス・キリスト、父・子・聖霊の信仰告白、そこから発展して後の教会で作られた使徒信条。第二に、主の祈り。第三に、十戒とシェマ―。私たちがいかに存在し生きるべきか、すなわち私たちの神との関係・宗教と、私たちの人間との関係・倫理とを語っています。そしてこの三つのうちに、古くして常に新しい私たちの信仰と祈りと生活の核心が全体にわたって言い表されています。

使徒信条は、ちょうど花畑を蜜蜂が飛び回って蜜を集めるように、聖書全体の中から大切なものを要約したものだと言われています。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。…我は聖霊を信ず。…」
主の祈りは、キリストが弟子たちの求めに応じて教えてくださった祈りです。「天にましますわれらの父よ…」。
十戒とは私たちが幸福に生きるために神が与えてくださった十の掟です。「あなたの父と母を敬え」という掟もここにあります。シェマーとは「聞け」という意味です。申命記6:4~9などにあります。「聞けイスラエルよ、私たちの神、ヤハウェは唯一の主である。あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、ヤハウェ・主を愛せよ」。

次回からそれらの三つをめぐって、私たちの今日の状況の中で、話し合いましょう。

 

 

信仰生活ABC(20)

2016-03-14

問 しかし教会も間違って解釈していませんか。
答 はい、しばしば教会も聖書を間違って解釈してきました。それは恐ろしいことですがまた避けられないことでもありました。しかし教会は、古くから聖書の中で、もっとも大切なものとして三つの箇所をとり出して、その解釈の拠り所としてきました。

自分が絶対に正しいと思い込むことは危険です。どんな人でも間違うのです。信仰の世界でも同様です。カトリック教会には「教皇無謬説」という考え方があります。「教皇の至上権を認める立場から信仰と道徳に関して語る教皇の言葉は無謬であるとする説」です。しかしプロテスタントがそうであるように、カトリックも時に間違った解釈をしてきたのが教会の歴史です。しかし感謝なことに、そのような状況の中で繰り返し聖書に戻って問い直し、軌道修正されてきたのです。

三浦綾子さんの『遺された言葉』という本に次のような言葉が出てきます。「ほんとうに自分の行為に責任をもつことが出来る人だけが、心から『ごめんなささい』といえるのではないだろうか。『ごめんなさい』なんと美しく、謙虚で素直な言葉だろう」。個人においても、教会においても「ごめんなさい」がしなやかに口から出てくるようでありたいと思います。

ところで軌道修正のための三つの拠り所とは何でしょうか。使徒信条、主の祈り、そして十戒です。念のため申しますが、バプテストは一人ひとりが、一つ一つの教会が置かれた状況の中で信仰を告白することを大事にします。しかしそのことは使徒信条で告白されている内容を否定するということではありません。もし否定するなら私たちはキリスト教の異端となってしまうでしょう。バプテスト史の研究者の書いたものに、私たちの教会の信仰宣言は「使徒信条を下敷きにして」という言葉があり、とても納得できました。

次回この三つについて少し詳しくお話しようと思います。

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