信仰生活ABC

問24:イエスの史実、その十字架の死はキリスト教にとって不可欠であり、それがないとキリスト教、新約聖書も二千年の教会の歴史もありませんね。

答:そうです。このことはどんなに強調しても、し過ぎるということはありません。

イエスの十字架の死、それは初代のクリスチャンたちにとっては大きな躓きでした。ルカ福音書24章にはエルサレムからエマオというところに向かっている二人の弟子のことが記されていますが、そこには弟子たちの戸惑いがよく現れています。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」

十字架刑とはローマ帝国が実施した極刑です。ローマは帝国に対する反乱者に対してこれを行ったのです。それはローマに対する抵抗がいかに無意味であるかを示すためでした。十字架はローマ人にとっては無力さの象徴でした。
知恵や美を愛したギリシャ人には、十字架は愚かさの象徴でした。
ユダヤ人には十字架は神の呪いでした。
そんな十字架にかけられてイエスは死んだのです。愛を語り愛に生きたこの方がなぜ? できればイエスの十字架の話は避けて通りたいと思ったことでしょう。できるだけ早く忘れたいと思ったことでしょう。

しかしやがてこの十字架の死に込められた意味を知るに及んで、弟子たちはむしろこれを大切にし、このことを熱心に伝えるようになっていったのです。使徒パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」(Ⅰコリント1:18)、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(同1:23)と述べています。彼は十字架の死にイエスの信仰と愛、そしてイエスの復活という出来事の中に神の全能の力、そしてローマ帝国に対する否、イエスの信仰と愛に対する承認を見たのです。

私は少し急ぎたようです。混乱してしまった方もあるかもしれません。これからしばらくはイエス・キリストのことについてお話しすることになりますので、ご安心ください。いずれにしろ今日の箇所では、イエスの十字架はまぎれもない史実であることをご理解ください。

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