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2023年4月23日説教全文「イエス・キリストの福音の初め」 牧師:西脇慎一

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〇聖書箇所 マルコによる福音書 1章1-8節

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

〇説教「 イエス・キリストの福音の初め 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。私たちは今、キリスト教の暦でいう「復活節」の時を歩んでいます。イエス・キリストが十字架の死から復活され、弟子たちと40日の時を共に過ごしたという記念の時です。その40日の間に復活の主イエス・キリストが弟子たちに語られたことについて、使徒言行録1章にはこのように記されています。

「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒1:3)

この箇所はダイジェスト的にざっくりとまとめられていて、その具体的な内容については不明なのですが、一つだけわかることは「神の国について話されていた」ということです。神の国とは、イエス・キリストがガリラヤにおいてたとえ話などを通してたびたび話されていた事柄ですから、イエス・キリストの福音宣教の内容そのものであるとも言えます。ちなみにイエス・キリストの福音宣教の第一声はマルコ1:15によると「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。

弟子たちはいつもイエス・キリストと共にいたはずですので、神の国のことは繰り返し繰り返し聞いていたことでしょう。それなのに何故、イエス・キリストは神の国について改めて弟子たちに語ったのでしょうか。もしかしてイエス・キリストの死を目撃した弟子たちにとって、神の国の希望というものが失われてしまったかのように感じられていたのかもしれません。何故ならば、弟子たちはイエス・キリストがエルサレムに入って王位を得ることを信じていましたので、よもやまさか十字架に架けられる結末を迎えるなんて思ってもみなかったであろうからです。イエスさまの神の国は実現しなかったと落胆していたとしても不思議ではありません。もしそうであるなら、イエスさまが改めてここで神の国について語ったことは大切なことだったと思います。つまりそれは、神の国というものが地上の王国の事柄ではないということ。そして、今も変わらずにイエス・キリストによって実現している事柄であるということ。その希望は暴力によって失われてしまうものではなく、むしろ復活と言う神によって証明された出来事であり、私たちの希望であり続けているということを伝えていると思うからです。私たちはそのイエス・キリストの語られた神の国の希望を、「ガリラヤであなたがたに会える」という復活の告知の言葉の通り、改めてマルコ福音書からイエス・キリストの福音に心を留めて参りましょう。
マルコによる福音書1章1節は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まります。イエス・キリストの福音の初めは何か。それは預言者イザヤによる預言の実現だと言います。つまり、イエス・キリストの福音というものは旧約聖書から続く神の愛そのものであると言うことです。
旧約聖書と新約聖書、ここには連続性があります。それは「神の子」という言葉の表現にもある通り、これは神の出来事であるということです。神による人間への福音、Goodnews、私たちが聞いて嬉しくなったり、心が慰められたり、平安に満たされるような、或いは心がワクワクするような良き知らせであるのです。それがイエス・キリストであり、イエス・キリストがガリラヤで語られた言葉なのです。それでは、イエス・キリストにおいて表された福音とは、いったい何であったのでしょうか。

興味深いことに、マルコ福音書はイエス・キリストの福音の初めにすぐにイエス・キリストの物語を書き始めていません。イエス・キリストの物語から始めても良かったはずなのに、その前に記されているのが、洗礼者ヨハネの記事でした。洗礼者ヨハネについては特にルカ福音書にその誕生の予告から事細かに記されていますが、マルコ福音書では、彼は預言の成就であるということが特に強調されて記されています。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」この言葉が実現したのが、洗礼者ヨハネであったというわけです。つまり、ヨハネの存在は、イエス・キリストの福音の道備えであり、彼の語る罪の赦しを得させるバプテスマへの招きは、イエス・キリストの福音の前段階ということなのです。

それでは、ヨハネが語っていたことは何だったのでしょうか。マタイ3:1-2にはこのようにあります。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒野で宣べ伝え『悔い改めよ。天の国は近づいた。』と言った。」実はマタイ福音書ではイエス・キリストは同じ言葉を使って「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という福音の第一声を語っています。ギリシャ語を見ても同じ言葉で語られています。こう見るとイエスさまがヨハネの真似をしているような、或いはヨハネもイエスさまと同じ福音宣教をしているようにも思えます。しかし同じ言葉を使ったとしても、そこに込められている内容は同じではないということがあります。私たちも経験したことがあると思います。同じ言葉であったとしても、その言葉に込められる思いが異なると違うメッセージが響くと言うことがあります。イエスさまとヨハネにはその違いがあったのではないかとわたしは思うのです。

それではその言葉に込められていた思いはどう違っていたのでしょうか。4節以降を見てみると、ヨハネの働きの一部が分かります。彼は罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。そしてユダヤ全地方とエルサレムの住民は皆ヨハネの元に来て罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けたと言うのです。「住民が皆」と書いてあるところを見ると、何やらすごいと言うか、ユダヤ人が総懴悔したというような状況を想像することができますが、恐らくは誇張されている表現のように思います。しかし、少なからずここに集まってきた人々は、ヨハネの言葉を聞いて罪の赦しを得たいと思い、あるいは新しく歩み出したいと言うことを願って、自覚的に主体的にやってきたことでしょう。これは非常に大切なことだと思います。
実は私たちバプテスト教会が大切にする自覚的な信仰告白とバプテスマの関係性はこのヨハネのバプテスマに重なる部分があります。つまり、バプテスト教会は無自覚な幼児洗礼ではなく、自覚的な信仰告白を大切にしている。そしてその信仰告白に基づいてバプテスマを受ける。こうして主体的に信仰生活を新しく始めていくということが私たちの大切にしていることであります。

しかし、それは一方ではやはり限界性があることだとも思います。というのは、それは救いというものが、すべての者の者ではなく、悔い改めて洗礼を受けた者たちだけのものと考えてしまいがちになってしまうからです。もちろん自覚的な信仰は大切なことです。自分の信じたとおりに私たちは生きて行くものであるからです。だからヨハネの宣べ伝えた悔い改めのバプテスマも、とても大切なことです。個人のできることとして立ち帰り、方向転換をして歩み出すということだからです。しかし、それは「罪を悔い改めた者」と「罪を悔い改めていない者」の区別を生み、「救われる者」と「救われない者」とを「バプテスマ」によって区別してしまうことになるからです。それは意味は異なりますが、律法学者・ファリサイ人が罪びとを差別していたのと同じ構造になってしまうのではないかと思うのです。ですから7節以降でヨハネ自身が語っているのだと思います。「わたしよりも優れた方が後から来られる」。これは私のバプテスマは事前準備であり、イエスさまの福音とは違うのだ。つまりヨハネのバプテスマ、主体的で自覚的な信仰より大切なことがある。それがイエス・キリストの福音なのだと言うことなのではないかと思うのです。

それではイエス・キリストの福音とは何か。それは信じてバプテスマを受けるより先に与えられる救いの恵みであり、すべての者に、信じる信じないを問わず、無条件に差し出されている神の愛であります。ヨハネのバプテスマは限定的です。悔い改めたいと思った人しか救われないからです。そしてヨハネは言います。「悔い改めに相応しい実を結べ。」(ルカ3:8)自覚的に生きると言う意味であればこれは当然の言葉です。悔い改めた証拠が必要になるからです。しかし残念ながらそれができないのが私たちなのではないでしょうか。悔い改めの祈りをしても再び罪を犯し、また悔い改めるその毎日です。自覚的という言葉が意味を持たなくなるくらい空虚に響くときもあるのが私たちの信仰生活「わかっちゃいるんだけど、できないよね」と言うことなのではないかと思うのです。私たちの信仰は残念ながら完ぺきではなく、自分の信仰によって救われることはできないのです。

イエス・キリストの福音とは何か。パウロはイエス・キリストの福音についてこう語ります。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:5)働きが無くてもと言うのは、悔い改めに相応しい実を結ぶことができなくてもということです。つまり、イエスの福音は私たちが悔い改める前に差し出される救いであり赦しであるのです。イエス・キリストは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている姿を見て、深く憐れまれる方でありました。飼い主のいない羊とは、おろおろと戸惑うばかりか、パニックになって手も付けられないような精神状態の私たちであります。悔い改めるどころかどうしていいかもわからない状態です。

しかし、イエス・キリストはそんな私たちのために深く憐れみ、まさに自らの事柄として共に苦しまれる方であるのです。私たちができるのは、そんな私たちにさえイエス・キリストは愛を向けられていること。これを信じることだけなのです。「信じる」ということは、天国に入るために信じるとかそういうことではなく、イエス・キリストはどんな時も私たちに愛を注いでくださる方であると言うことを心で受け止めた時に、まさに心にわき溢れる力であり、勇気であり、希望なのです。

イエス・キリストはそんなわたしたちに出会うためにガリラヤを巡り歩かれ、御言葉を語られました。ヨハネの働きとイエスさまの働きと何が大きく異なるかと言えば、ヨハネは悔い改めたものがヨルダン川へ来るのを待ち、バプテスマを授けましたが、イエスさまはガリラヤの町々を回って、罪びとと呼ばれるような方々、貧しさの中にある方々、悩みや苦しみの中に会った方々、病の中、悪霊に取りつかれていたように思われていた方々に出会って行き、共に生きられたということです。

恐らくそのような方々は、自覚的にヨルダン川に来ることなんてとてもできないような方々だったではないかと思います。つまり、イエス・キリストの福音とは、まさに立ち尽くすことしかできないような私たち、悔い改めることさえできない私たちに向けられ語られた言葉、「疲れた者、重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)に象徴されるような言葉だったのではないかと思うのです。

「神の国は近づいてきている。」それは、私たちが悔い改めた結果訪れる福音と言うことなのでしょうか。イエス・キリストの福音は恐らくそうではないのでしょう。恐らく自分たちの信仰で、その行いで救われることができなかったその立ち返りの仕方ではなく、むしろ神の側が私たちすべての者を救うために、イエス・キリストをお遣わしになり、私たちと共に生きられることで実現する「神の国」を差し出すことを福音として受け止めて信じて立ち返り(方向転換)しなさい。」と言うことなのではないかと思うのです。

聖霊のバプテスマとはなにか。これは説明が難しいことです。しかし今日今の段階で私の言葉として一言で表すのであれば、聖霊は真理のみ霊とも呼ばれ、弁護者とも呼ばれます。そして真理とは隠された真実ではなく、公にだれでもそうだとわかる本当のことを表すので、つまり神が人々を愛したがゆえにイエス・キリストを送られた事実。私たちのことを無条件に愛し私たちを満たす神の言葉に触れられると言うことなのではないかと思うのです。私たちは自分で信じることができなくても神に触れられた時、神の言葉に出会って行く時にすべてが始まっていくのではないかと思うのです。

私たちには自覚的信仰の前に、差し出されている神の言葉との出会いがある。その神の出会いに応えていくときに、福音が私たちに働きかけるのです。全てにおいて先立つ神の恵み。主の伴い、導き、守りがある。ここからすべてが始まります。この言葉を信じて歩み出して参りたいと思いますが、まずこのイエス・キリストに心を留めること、この言葉を考えることから始めていきませんか。続けて共に礼拝を守っていきましょう。

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