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問29: それでは祈りとは何ですか。

答:祈りは、私たちの切実な願いと求めを神に告げて、今ここにある私たちに対す る神の意志を示されることであります。ですから、特に宗教的な聖い場所で特に宗教的な事柄についてのみでなく、む しろこの世の中で個人的社会的窮乏の中から、いわゆる世俗的事がらについ て、祈るのです。そこで、この世の中にまきこまれ

問28:それでは私たちの信仰生活は、主の日に礼拝を守り、説教を聞いて礼拝 に出席しておれば、それでよいのですか。

答:いいえ。それだけでは私たちの信仰生活は、多く受け身にとどまることになります。私たちは祈らねばなりません。祈りによって、私たちの方から本当に神を求め、事実神を信じていることを表すのです。信仰生活の心棒としての礼拝礼拝を軽視する信仰生活はありえない。それは不健康な信仰生活に陥る最短の

問27:それでは、まずイエスの誕生について話してください。

答:イエスは、多分紀元前4年頃、私たちと少しも変わらない一人の幼子として、ユダヤ人の一人として、誕生しました。パウロは「女より、(ユダヤの)律法の下に生まれた」(ガラテヤ4:4)と書いています。新約聖書の中でイエスの誕生物語を記しているのはマタイ福音書とルカ福音書です。マタイにはマタイの、ルカに

問26:しかし福音書は、イエスの生涯、その姿や出来事をいろいろと伝えているではありませんか。

答:はい、そのことはやはり、キリスト教のはじめからきわめて大切なことでありました。そしてその後も福音書から常にイエスを描いてきました。ところが近代になって、福音書からそのイエスを描くことに満足できず、私たちの歴史の現実に生きていたイエスを史的に再建しようと試みました。事実福音書の中にはいわゆる史的イ

問25:それでは、そのほかにイエスの史実については知る必要はないのですか。

答:はい、そうです。たとえばパウロなども、イエスについて、もっと知っていたかもしれませんが、イエスの誕生とその死のほかはあまり書いていません。また使徒信条でも、イエスの誕生からいきなりポンテオ・ピラトのもとにおける受難と十字架に写っています。ここで与えられている答えは、ちょっと意外かもしれません

問24:イエスの史実、その十字架の死はキリスト教にとって不可欠であり、それがないとキリスト教、新約聖書も二千年の教会の歴史もありませんね。

答:そうです。このことはどんなに強調しても、し過ぎるということはありません。イエスの十字架の死、それは初代のクリスチャンたちにとっては大きな躓きでした。ルカ福音書24章にはエルサレムからエマオというところに向かっている二人の弟子のことが記されていますが、そこには弟子たちの戸惑いがよく現れています

問23:それでは、はじめにイエスについて話し合いましょう。まずイエスの史実は、確かなのですね。

答:イエスの自筆は一句も残っていませんし、福音書は、イエスの死後、それも過去のイエスを事実としてではなく、今生きて語り働いているかたとして伝えているイエスのことばや物語など、さまざまな資料によって、書いたものです。そしてたとえばマルコは、イエスの伝記ではなく、「イエス・キリストの福音(1:1)を形成

問22:イエス・キリストという名は何を意味するでしょうか。

答:「イエス(ヨシュア・神は救い)」は、当時のユダヤではありふれた名前です。しかし、「キリスト(メシア、油そそがれた者」は、単なる名前ではなく特別な称号であります。だからイエスとキリストとはもとは別々のものです。しかも両者が結合して、イエス・キリストというひとりの方を指しています。そこにキリスト教の

問21:それ(聖書解釈の3つの拠り所)は何ですか。

答:第一に、聖書の中の聖書、その中心であるイエス・キリスト、父・子・聖霊の信仰告白、そこから発展して後の教会で作られた使徒信条。第二に、主の祈り。第三に、十戒とシェマ―。私たちがいかに存在し生きるべきか、すなわち私たちの神との関係・宗教と、私たちの人間との関係・倫理とを語っています。そしてこの三つの

問20:しかし教会も間違って解釈していませんか。

答:はい、しばしば教会も聖書を間違って解釈してきました。それは恐ろしいことですがまた避けられないことでもありました。しかし教会は、古くから聖書の中で、もっとも大切なものとして三つの箇所をとり出して、その解釈の拠り所としてきました。自分が絶対に正しいと思い込むことは危険です。どんな人でも間違うので

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