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救いを受けしはみ恵みなりき

私はクリスチャン三代目になります。初穂である祖父母がどのようにして主キリストへの信仰に導かれたのか、この信仰がどのようにして家族に伝わったのか、さらに父がどういう仕方で信仰へ、そして牧師へと導かれたのか、また私自身のこと、長男の献身について一連の流れとして考えてみました。この機会に父の入信と献身

「いつまでも残るだろうか?」

使徒パウロはⅠコリント13:13で「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と記しました。それはパウロにとってキリスト教信仰の基本的要素でした。Ⅰテサロニケ1:3、ローマ5:1~5でもこの三つの言葉を記しています。しかし現代人の多くが、パウロのこの考えに果たして同意するでしょうか。信仰は

「わたしたちの主イエス・キリスト」

「ローマの信徒への手紙」はパウロが紀元55~56年頃コリントに滞在中ローマのキリスト者に宛てて書いたものです。手紙と言いながら、その論理の展開などは神学論文のようです。ガラテヤの信徒への手紙が普遍的キリスト教の大憲章とすれば、ローマの信徒への手紙はその憲法だとも言われています。ローマの信徒への手

われらバプテスト

バプテスト教派の特徴の一つは聖書主義です。何を信じ、どう生きるのかを聖書から学ぶのです。主イエスは聖書についてヨハネ5:39でこう言っておられます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」私たちは聖書を通して主イエス・キ

「神の愛を伝えたい」

人生には親の愛を重苦しいと感じる時期があります。しかしそれを過ぎると、親の愛をかけがえのない宝のように実感するのです。神の愛も同じではないでしょうか。神は存在しない、存在したとしても私には関係ないと言っていた人が、やがて神の愛を有難いと感じる時がくる、そういう変化が起きるのも人生でしょう。ルカ福

「初めと終わり」

ヨハネの黙示録1章17節はイエス・キリストのことを次のように記しています。恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。私たちは2017年の元旦に立ち、新しい歩みを始めようとしています。心には前途に対する期待と不安が入り混じっています。今私たちがすべきこと、それはこの年の

「神の国に生きる幸い」

イエス・キリストはヨハネ黙示録1章17節で次のように言っておられます。恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。キリストは歴史の初めに立ち、終りにも立たれます。私たちの一生もこの方の導きと配慮の中にあります。この方の御手からもれる日は一日もありません。主イエスこそが私

「光に照らされ、光となる」

ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子先生が昨年12月30日召天されました。享年89才。数年前からすい臓がんを患い、闘病しつつ9月30日まで教壇に立ち続けられました。昨年3月発行の『文芸春秋』に「二・二六事件―娘の八十年」が掲載されました。青年将校の銃弾に斃れた教育総監渡辺錠太郎氏はお父様。わずか

「乳飲み子を探し当てた」

マタイの降誕物語には東方の博士たちが登場しますが、ルカでは羊飼いたちが登場します。当時羊飼いたちの社会的評価は低いものでした。夜も家を離れて野原にいるので妻子を守ることができません。しばしば彼らの羊は他人の土地の草を食べるため盗賊扱いされました。しかし彼らは家に残している家族を想い神に祈り、危険や苦

歌う人々

聖書には力強い讃歌が各所に記されています。たとえば出エジプト記15章です。神が紅海でエジプトの戦車隊からイスラエルの民を守られた時、モーセたちは「海の歌」と呼ばれる讃美を捧げ、姉のミリアムも「主に向かって歌え」と声高らかに讃美しました。強大な敵カナン人にイスラエルが勝利した時、デボラは「主をほめ

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