5月25日のみことば

「嘲りのまなざしは人を苦しめる」(箴言10:10前半)

「目は口ほどに物を言い」と言います。目つき、目の表情はいろいろのことを告げます。軽蔑や嘲りを顕わにしているまなざしに遭えば、私たちの心は傷つきます。しかし優しいまなざしに遭えば私たちは癒され元気づけられます。讃美歌21-470の歌詞が私は好きです。「やさしい目が、きよらかな目が、きょうもわたしを見ていてくださる。『まっすぐに歩きなさい』と見ていてくださる」。イエス様のまなざしが今日もあなたに注がれています。

5月26日のみことば

「神に従う人の口は命の源、神に逆らう者の口は不法を隠す」(箴言10:11)

誰に助言を求めるかが大切です。主イエスは最も重要な掟として神への愛と人への愛を教えられました(マルコ12:28~31)。実はこの2つはU字管のように根底でつながっています。神に逆らう者は心の深いところで隣人を愛しておらず、言葉の背後に「不法」「暴虐」を隠しています。しかし神に従う人は心底あなたを愛し、あなたの幸福を願って助言し、あなたのために祈ります。それゆえ彼の助言は「命の源」となるのです。

5月24日のみことば

「完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない」(箴言10:9)

神が私たちに示してくださる道こそ完全な道、その道を一歩一歩進む人にはいつも平安があります。「道を曲げる」とはその道を自分に都合のいいように意図的に反逆的に曲げるなら、祝福があるでしょうか。岩波訳聖書は「知られずには済まない」を「災いに遭う」と訳しています。新生讃美歌437番の繰り返し部分は「歌いつつ歩まんハレルヤハレルヤ」です。今週もそのように歩みたいですね。

5月25日のみことば

「嘲りのまなざしは人を苦しめる」(箴言10:10前半)

「目は口ほどに物を言い」と言います。目つき、目の表情はいろいろのことを告げます。軽蔑や嘲りを顕わにしているまなざしに遭えば、私たちの心は傷つきます。しかし優しいまなざしに遭えば私たちは癒され元気づけられます。讃美歌21-470の歌詞が私は好きです。「やさしい目が、きよらかな目が、きょうもわたしを見ていてくださる。『まっすぐに歩きなさい』と見ていてくださる」。イエス様のまなざしが今日もあなたに注がれています。

5月23日のみことば

「神に従う人の名は祝福され、神に逆らう者の名は朽ちる」(箴言10:7)

「名」は単に名前という以上に、その人自身の人格を表します。神に意図的に逆らう人は「朽ちる」「朽ち果てる」のです。詩編37:36には、横暴を極めた人は「時が立てば彼は消え失せ、探しても見いだすことはできない」と記されています。反対に神に従うことを喜びとする人は、生きている間も恵みで満たされ、召されてからも人々に喜びのうちに記憶され、想起する人々に力と励ましを与えるのです。

5月24日のみことば

「完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない」(箴言10:9)

神が私たちに示してくださる道こそ完全な道、その道を一歩一歩進む人にはいつも平安があります。「道を曲げる」とはその道を自分に都合のいいように意図的に反逆的に曲げるなら、祝福があるでしょうか。岩波訳聖書は「知られずには済まない」を「災いに遭う」と訳しています。新生讃美歌437番の繰り返し部分は「歌いつつ歩まんハレルヤハレルヤ」です。今週もそのように歩みたいですね。

5月22日のみことば

「神に従う人は頭に祝福を受ける。神に逆らう者は口に不法を隠す」(箴言10:6)

神をないがしろにする人の言葉は不法を、即ち嘲り、偽り、非難、中傷を隠しており、聞く者を深く傷つけます。反対に神の言葉はどうでしょう? 「頭に祝福を受ける」と言います。ある聖書学者は「祝福は雨のように注がれる」と訳しています。優しい梅雨が植物を生き生きとさせ、葉の緑を鮮やかなものにするように、神の言葉はその人に豊かな祝福をもたらし、日々を生き生きとしたものにするというのです。今日も神に従う者でありたいと願います。

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