10月28日のみことば

味わい、見よ。主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(詩編34:9)

料理番組で出来上がった料理を口に運びながら美味しそうな表情で「美味しい!」と語る場面があります。きっと美味しいのでしょうが、本当のことは分かりません。神の恵み深さも同じです。「神様の恵みは素晴らしい」と百回聞いても、本当のことは分からないでしょう。でもたった一回その人自身が神の恵みを体験したら・・・。だから詩人は「味わい、見よ」と言います。今日神が与えてくださる恵みを心いっぱい味わってみましょう。

10月29日のみことば

主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。(詩編34:8)

列王記下7:15~17には、預言者エリシャの僕がある朝目覚めてみると、アラムの軍隊に町が包囲されているのを見て驚き恐れました。エリシャは「恐れてはならない」と言い、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈りました。すると僕の目が開かれ、エリシャと僕を神の軍勢が取り囲んで守っているのが見えたというのです。信仰の目で見る時、私たちの現実はもっと輝くものになります。

10月27日のみことば

喜びをもって生き、長生きして幸いを求めようと望む者は、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ。(詩編34:13 ~15)

同じ一生を過ごすのなら、長生きしたい、喜びに満ちた人生でありたい、幸福でありたいと誰でも願います。では、どうすればいいのでしょうか。詩人は「悪と偽りの言葉を吐くな、隣人に悪ではなく善を行え、互いの関係がいつも平和であるように努めよ」と言います。隣人の不幸を企む人に真の幸福が訪れるはずがない。神はそれを許されません。しかし隣人を励ます言葉を語り、心底隣人の幸せを願う人に対しては神もまた同じようになさるのです。今日そのように生きてみましょうか。

10月28日のみことば

味わい、見よ。主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(詩編34:9)

料理番組で出来上がった料理を口に運びながら美味しそうな表情で「美味しい!」と語る場面があります。きっと美味しいのでしょうが、本当のことは分かりません。神の恵み深さも同じです。「神様の恵みは素晴らしい」と百回聞いても、本当のことは分からないでしょう。でもたった一回その人自身が神の恵みを体験したら・・・。だから詩人は「味わい、見よ」と言います。今日神が与えてくださる恵みを心いっぱい味わってみましょう。

10月26日のみことば

主は、従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。(詩篇34:16)

神の慈愛の目は誰に注がれているのでしょう?神に喜んで従う人にです。それは母親の目が遊んでいる子どもにいつも注がれているのと同じです。神の耳は誰に傾けられているのでしょう? 母親の耳が自分を呼ぶ子の声に傾くのと同じです。神の目はご自分の民を識別し、神の耳はご自分の民の叫びを聞き分けます。どんなに大勢の人がいても、騒がしい状況であってもです。今日は礼拝の日、神は礼拝堂にあなたの姿を探し、あなたの讃美と祈りの声を聞こうとしておられます。

10月27日のみことば

喜びをもって生き、長生きして幸いを求めようと望む者は、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ。(詩編34:13 ~15)

同じ一生を過ごすのなら、長生きしたい、喜びに満ちた人生でありたい、幸福でありたいと誰でも願います。では、どうすればいいのでしょうか。詩人は「悪と偽りの言葉を吐くな、隣人に悪ではなく善を行え、互いの関係がいつも平和であるように努めよ」と言います。隣人の不幸を企む人に真の幸福が訪れるはずがない。神はそれを許されません。しかし隣人を励ます言葉を語り、心底隣人の幸せを願う人に対しては神もまた同じようになさるのです。今日そのように生きてみましょうか。

10月25日のみことば

主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。(詩編34:19)

私たちの人生にはこなごなに「打ち砕かれた」としか言えないような時があります。しかし、詩人はそのような時こそ神は近くにいますと言います。まるで傷口に手を当てて治療する医者のように、神は私たちを癒されるのです。また私たちは後悔することが実に多いです。「あれは私の間違いだった、本当はこうすべきだったのだのに」。しかし神は悔い改める人を救ってくださると言います。神は私たちに繰り返し新しく始める時を与えてくださっているのです。

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