メッセージ

「しかし、お言葉ですから」

2018-04-10

ルカ福音書5章には、一晩労しても何も獲れなかったペトロに、主イエスがもう一度漁をするよう促されたことが記されています。ペトロは「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから…」と答え従いました。結果は大漁でした。

ここには信仰生活にとって大切なことが記されています。私たちはしばしば「お言葉ですが…」と言います。しかし本当の祝福は「お言葉ですから…」という姿勢から始まるのです。

エデンの園でサタンはエバに「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(創世記3:1)と疑問を呈しました。アダムとエバはそれに同意し、木の実を取って食べたのです。主イエスは荒野でサタンの誘惑を受けました。しかし主イエスは、三つの誘惑にそれぞれ「・・・と聖書に書いてある」(マタイ4:4、6、10)とお答えになり、サタンを退けられました。

K・バルトは「御言葉に反対する一切に抗して・決定的に・ひたすら・徹底的に神の約束と教示に固着する」ことの大切さを教えています。神の言葉に従う者でありたいと思います。

「群衆がかわいそうだ」

2018-04-10

マタイ福音書15:29以下を見ると、ガリラヤ湖畔の小高い丘は病む人の癒し場です。

イエスは…ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登って座っておられた。大勢の群衆が…多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。

またこの小高い丘は空腹の人々への給食の場でもありました。そこには男だけで四千人、女性と子どもを加えると、どれほどの人数になったでしょうか。主イエスは彼らをご覧になってこう言われるのです

群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。

そして七つのパンと小さい魚少しで彼らを満腹させるという奇跡を起こされたのです。私は、如何にしてそれが起こったのかということより、病む人空腹の人に対しこんなあたたかい心を持った方がいる、それが主イエスなのだということのほうに魅かれます。主イエスは私の苦しみにも共感なさる方なのです。

「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」

2018-04-10

ルカ福音書3章にはバプテスマのヨハネのことが記されています。彼はイエス・キリストの先駆者であり、救いへの道備えをした人です。

荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。

神の救いへの道が山や谷、複雑に曲がった道などによって妨げられている、それを整えるのです。その時人々は昇る朝日の如き神の救いを仰ぎ見ることができるのです。

私たちの心にも妨げとなっている山や谷、七曲のような道がないでしょうか。信仰に入ると何か不幸な経験をしたのだと思われないだろうか。弱い人間だと思われないだろうか。これからの人間関係が気まずいものにならないだろうか。人生が窮屈なものにならないだろうか。ヨハネは多くの不要な不安を取り除き、輝く神の救いに対してあなたを整えるのです。

「福音宣教と執事」

2018-04-10

使徒言行録を読んで印象的なのは、主イエスを信じる人々が次々に起こされたことです。聖霊降臨後のペトロの宣教を聞いて「三千人ほどが仲間に加わった」(使徒言行録2:41)とあり、ペトロが足の不自由な人を癒したことをきっかけに入信した人は男性だけで「五千人ほどになった」(同4:4)と記されています。

この大きな数を合理的に説明する人もいますし、全く無視する人もいます。しかし私はこの記述を大切したいと思っています。使徒言行録著者の意図は、救いを求める人がペトロたちの想像よりも多くいたこと、聖霊が伝道への意欲を与えたこと、結果の大きさは弟子たちの戦略や努力によるものではなく聖霊によるものだったことを強調しているのです。

現代の教会においても同様です。教会の最も大切な務めは福音宣教です。本日礼拝後の総会で私たちは執事を選出します。執事は福音を多くの人の心に届けるための職務です。ステファノたちが執事として選出された後の記述です。「神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」(使徒言行録6:7)。

「聖書協会共同訳について」

2018-04-10

日本聖書協会は2018年12月に「聖書協会共同訳」を出版予定です。今回の特徴は「礼拝にふさわしい聖書」ということです。

多くの人はきっと「ようやく新共同訳に慣れてきたのに」と思うでしょう。しかし日本語聖書の翻訳の歴史を見ると、『明治元訳』(1887年)、『大正改訳』(1917年)、『口語訳』(1955年)、『新共同訳』(1987年)と、ほぼ30年毎に翻訳されています。

同時に、聖書学、翻訳学など学問研究の進展、日本語や日本社会の変化などもあるのです。

同志社大学神学部の石川立先生は新しい翻訳の目的は「聖書を耕す」ということだと説明します。聖書は読み慣れると新鮮な出会いがなくなってしまう恐れがあるとも言われます。まるで踏み固められた土地の状態になってしまうのです。そんな土地には美しい花や豊かな作物は実りません。新しい翻訳は柔らかく耕された畑のようであり、そこには新たな発見があるというのです。かつては新共同訳もそうでした。

出版してすぐに私たちの教会に採用とはいかないでしょう。実際に試用しながらていねいに考えていければと思っています。

「祈りの心を育てよう」

2018-01-15

将棋棋士加藤一二三氏は熱心なカトリックの信徒です。著書『老いと勝負と信仰』の中で祈りについて次のように記しています。

合理的なことを求めがちな今の世の中にあっては、祈るなんて古臭いものだとお感じになるかもしれませんが、アビラの聖テレジアは祈りを「神との親しい友としての交わり」、聖アウグスティヌスは「祈りは魂の呼吸」と述べています。…魂に新しいエネルギーを入れる、人間らしく生きていくには祈りは必要なのです。

斎藤剛毅先生翻訳のP・T・フォーサイス『祈りの精神』は50年近く多くの人に愛読されてきました。私もこれまで何度読み返し、祈りを導かれてきました。それが昨年暮れに文字も大きく装い新たに出版されました。今後さらに多くの人の祈りを励ますことでしょう。

また最近、『ポケットの中の祈り』(いのちのことば社)が出版されました。二六名の有名無名の人々の祈りが掲載されています。これも祈りへの励ましになることでしょう。
今年はお互いの祈りの心を育てましょう。教会に讃美と祈りの言葉が溢れますように。

「明日への祈り」

2018-01-15

父なる神よ、進歩のない生活を送ることがないようにしてください。
経験から学んで、同じ過ちを繰り返さず、同じ誘惑に陥らず、同じ過ちによって自分や人々の生活を損なうことがないようにしてください。常に上を見上げ、常に前に進み、年毎に私たちの生活が御旨に近づくものとなるようにしてください。

この年、勤勉に学ぶ心を与えられ、わたしたちの心に人々とあなたのために用いる知識を備えることができるように、 規律ある生活を与えられ、日々私たちの性格が信頼されるものとなり、 決断力ある強い心が与えられ、正しい道を選んだ時、その道から決して逸れることなく、他の道に誘われることを退ける力を常に保ち、 忠実な友情を与えられ、私たちを信頼する人々を欺かず、真実を捨てず、 真実の愛を与えられ、私たちを愛する人々に悲しみや嘆きを与えることがないようにしてください。

そしてこの一年を通して、主の足跡に従って生きる者としてください。(W・バークレー)

「年末主日の祈り」

2018-01-15

父なる神よ、過ぎ去った日々を思い起こします。
幸福な日々を与えられ、新しいことを学び、新しい友を与えられ、古き友と親しみました。今、思い起こし、喜びに満ちて感謝を捧げます。

困難なことに直面し、苦しみ、しかしそれによって賢くなり、失敗や失望を一つ一つ味わって謙遜な心になり、危険に出会って私たちがあなたをどれほど必要とするかを教えられました。今、思い起こし、喜びに満ちて感謝を捧げます。

仕事に失敗し、誘惑におちいり、人々を傷つけ、 欺き、失望させ、今になって後悔していることを語り、行ないました。今思い起こし、悲しみをもって懺悔します。

この一年が心躍らせ、興奮に満ちた成功の年であった者に、感謝の思いを与えてください。 悲しい思いで一年を終ろうとしている者には、挫けない勇気と慰めを与えてください。 この一年、特別なことが起こらなかった者には、 全ての祝福が日々のわざの中にあることを教え励ましてください。

それぞれに与えられた人生の教訓を通して、さらに尊ぶべきことに思いを高めることができるようにしてください。(W・バークレー)

「ひれ伏して拝み」

2018-01-15

キリスト降誕物語はマタイ福音書とルカ福音書に記されています。ルカ福音書ではベツレヘムの羊飼いたちが幼子のもとに、マタイでは東方の博士たちが来訪します。ルカはこの幼子キリストの救いは社会の底辺にまで及ぶことを告げ、マタイは異邦人にまで及ぶことを告げているのです。まさにこの幼子キリストこそ全世界に救いをもたらすお方なのです。

マタイ2:11にはこう記されています。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、   宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

「ひれ伏す」という言葉が心に響きます。それは「這いつくばる」ということであり、体が地面につくほど伏して拝むのです。彼らは今自分たちの目の前にいる幼子に対してひれ伏したのです。クリスマスページェントで園児や小学生が演じる博士たちの姿はまさにそれです。

今年のクリスマス、私たちもそのような思いをもって幼子キリストを礼拝し、私たち自身を献げたいと思います。幼子キリストに栄光あれ!クリスマスおめでとうございます。

「主の天使が近づき」

2018-01-15

12月7日、沖縄宜野湾市の緑が丘保育園の屋根に米軍のヘリの部品が落下しました。この保育園はかつて当教会で研修された神谷武宏牧師が園長をしています。あと50センチずれていたら園庭で遊んでいた園児を直撃したかもしれません。それなのに神谷牧師のもとには「自作自演だろう」との誹謗中傷の電話やメールが数十件寄せられたとのことです。それから一週間後には普天間第二小学校に米軍ヘリのドアが落下。「だから辺野古への移設が急務なんだ」と言いますが、ヘリの真下に暮らす人々は基地がなくなることを求めているのです。

それにしてもかつて空は希望のありかでした。悲しい時苦しい時には空に目を向け、いつかきっと良い日が来ると希望を持ったのではないでしょうか。あのベツレヘムの羊飼いたちのもとに天使が空から近づき、救い主の誕生を告げたように、私たちも慰めや励ましの声を心に聞いてきたのではないでしょうか。それなのに今では戦うヘリの部品が落ちて来るとは。あの天使たちの讃美を今こそ聞きたいです。

いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)。

« Older Entries Newer Entries »
Copyright(c) 2012 西南学院バプテスト教会 All Rights Reserved.