メッセージ

「イエスは教えられた」

2017-03-25

マタイ福音書では主イエスの説教が5つのブロックにまとめられています。5~7章は山上の説教、10章は派遣の説教、13章は天国の説教、18章は教会についての説教、24~25章は終末についての説教です。

それぞれの説教の間には主イエスの行為が記されています。ちょうど説教と行為がサンドイッチ状態になって、物語がドラマチックに進んでいるのです。福音書記者は、主イエスが言葉で福音を語り、それに続く行いがそれを実証していることを告げているのです。

山上の説教は、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(5:1~2)から始まり、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(7:28~29)で終わっています。

人々は主イエスの権威ある言葉に驚きました。心が不思議な喜びで満たされ、様々な束縛から解放されるのを感じたのです。

「わたしたちの主イエス・キリスト」

2017-03-06

「ローマの信徒への手紙」はパウロが紀元55~56年頃コリントに滞在中ローマのキリスト者に宛てて書いたものです。手紙と言いながら、その論理の展開などは神学論文のようです。ガラテヤの信徒への手紙が普遍的キリスト教の大憲章とすれば、ローマの信徒への手紙はその憲法だとも言われています。

ローマの信徒への手紙を読んで気づくのは、「わたしたちの主イエス・キリスト」という言葉が繰り返し出て来ることです。たとえば1:4、5:1、11、21をはじめ6、7、8章の最終節に出てきます。ここにはパウロが伝えたい思いがあるのです。

「わたしたちの」とはパウロとローマの兄弟姉妹であり、ユダヤ人と異邦人でもあり、いわば人間全体です。さらに私たち人間と主イエス・キリストの結びつきの強さを示しており、「この方による以外に救いはない」(使徒:12/口語訳)というパウロの強い確信をも表しているのです。

「いつまでも残るだろうか?」

2017-03-06

使徒パウロはⅠコリント13:13で「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と記しました。それはパウロにとってキリスト教信仰の基本的要素でした。Ⅰテサロニケ1:3、ローマ5:1~5でもこの三つの言葉を記しています。

しかし現代人の多くが、パウロのこの考えに果たして同意するでしょうか。信仰は過去の人には必要だったかもしれないが、私たちには不要なもの、現代は希望を持つことすら難しい時代、愛はもっともはかないもの、確かにそれらは美しい、あった方がいいもの、憧れではあっても、生きる力にはならないと言うことでしょう。

そのような考えを前、パウロはすごすごと引き下がるでしょうか。決してそうはなりません。彼は一層力を込めて「私の言う信仰と希望と愛は確かで不動のものだ」と言うに違いありません。その根拠は「神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(ローマ5:5)です。由来が違うのです。人が育てるのではなく、神の愛が育てる信仰であり、希望であり、愛なのですから。

 

救いを受けしはみ恵みなりき

2017-03-06

私はクリスチャン三代目になります。初穂である祖父母がどのようにして主キリストへの信仰に導かれたのか、この信仰がどのようにして家族に伝わったのか、さらに父がどういう仕方で信仰へ、そして牧師へと導かれたのか、また私自身のこと、長男の献身について一連の流れとして考えてみました。

この機会に父の入信と献身の経緯について記した文書を改めて読みました。親がクリスチャンだったから自動的にということではなかったことを知りました。父なりに聖書との真剣な対話を繰り返して入信し、更に献身に導かれたのでした。それは私と長男についても言えることです。神はそれぞれに相応しい仕方で出会い、語りかけ、信仰へ、献身へと導かれたのです。

父の最期の病床での言葉は「ああ、楽しかった」でした。次の讃美歌の歌詞は父の実感だったことでしょう。「いのちのきずなの絶たるる日はあらん、そのとききたらばみくににのぼりて、したしくわが主に告げまつらまほし、『すくいをうけしはみ恵みなりき』と。」(讃美歌518番/54年版)

祈りと喜び

2017-03-06

ルカ福音書11:1に「イエスはある所で祈っておられた」と記されています。特定の場所を記してはいません。それは主イエスがしばしばどこででも祈っておられたからに違いありません。祈りは主イエスの日常だったのです。祈った後の主の表情は澄み渡った青空のようだったのではないでしょうか。

主の姿は弟子たちの心の中に祈りへの憧れを生じさせました。自分も主イエスのように祈りたい、祈りの大きな恵みを経験したいと思ったのでしょう。それで「わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いしたのです。これは私たちの願いでもあります。

神学者P・T・フォーサイスは『祈りの精神』の中で次のように言っています。
・真の祈りは人格の最高の機能である。
・祈りはことばの最高の使用法である。
・最悪の罪は祈らないことである。
・神を真剣に求めない者は神から取り残される。
・祈りは食物と同様に、新鮮な力と健康の感覚を増進させる。

私たちも弟子たちのように祈りを熱心に学び、祈りを愛する者になりたいと願います。

われらバプテスト

2017-02-06

バプテスト教派の特徴の一つは聖書主義です。何を信じ、どう生きるのかを聖書から学ぶのです。

主イエスは聖書についてヨハネ5:39でこう言っておられます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」私たちは聖書を通して主イエス・キリストこそ真の救い主であると信じるのです。

聖書のもう一つの目的は私たちを育てることです。ローマ15:4にこうあります。「かつて書かれた事柄はすべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」

またⅡテモテ3:16にはこうあります。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」聖書こそ私たちキリスト者を美しく調和した人格に育てあげる原動力なのです。

「神の愛を伝えたい」

2017-02-01

人生には親の愛を重苦しいと感じる時期があります。しかしそれを過ぎると、親の愛をかけがえのない宝のように実感するのです。神の愛も同じではないでしょうか。神は存在しない、存在したとしても私には関係ないと言っていた人が、やがて神の愛を有難いと感じる時がくる、そういう変化が起きるのも人生でしょう。

ルカ福音書のテーマはまさに神の愛で、15章には三つのたとえ話で示されています。失われた羊、失われた銀貨、失われた息子の話です。一人が悔い改め、神の愛に立ち戻った時、「大きな喜びが天にある」「神の天使たちの間に喜びがある」(15;7,10)のです。この喜びはやがて地上に届き、隣人、友人、兄弟、教会の喜ぶとなるのです。

W・リュティはこの神の愛を心から伝えたいと言っています。「私たちは手当り次第木によじ登って…感謝と歓喜のゆえに大声で世界に語りかけたい。ちょうどツグミが夕ぐれ時に、過ぎ去った一日への感謝を歌うように」と言っています。私たちも愛する家族や友人、この地域に神の愛を心から伝えたいと願います。

「光に照らされ、光となる」

2017-01-16

ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子先生が昨年12月30日召天されました。享年89才。数年前からすい臓がんを患い、闘病しつつ9月30日まで教壇に立ち続けられました。

昨年3月発行の『文芸春秋』に「二・二六事件―娘の八十年」が掲載されました。青年将校の銃弾に斃れた教育総監渡辺錠太郎氏はお父様。わずか9才の和子さんが壮絶な最期のたった一人の目撃者でした。その和子さんが修道女となり、教育の働きに携わり、若い人の心に希望と喜びの火を灯し続けたのです。

主イエスは「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と言われ、また「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)とも言われました。私たちが生まれながら光なのではなく、主イエスの光を心に灯して頂いて光となったのです。光となった私たちの務めはこの光を人々の前に輝かし、人々が天の父をあがめるようになることです。

一つの光が消えました。今度は私たちが光となるよう求められているのです。

 

「神の国に生きる幸い」

2017-01-16

イエス・キリストはヨハネ黙示録1章17節で次のように言っておられます。

恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。

キリストは歴史の初めに立ち、終りにも立たれます。私たちの一生もこの方の導きと配慮の中にあります。この方の御手からもれる日は一日もありません。主イエスこそが私たちの人生の基礎なのです。

キリストを信じる私たちの人生には何があるでしょうか。パウロはこう言っています。

神の国は聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです(ローマ14:17)

神の国とは神の支配です。神の支配の具体的な姿は義と平和と喜びであるとパウロは教えています。義、それは神に対する罪が赦され、神の子として生きることです。平和、それは人と人との美しい関係です。私たちは憎み合う敵としてではなく、助け合い愛し合うべき兄弟姉妹なのです。喜び、それが私たちの心に常に満ち溢れているものです。

私たちはそのような幸い者とされているのです。感謝のほかありません。

「初めと終わり」

2017-01-16

ヨハネの黙示録1章17節はイエス・キリストのことを次のように記しています。

恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。

私たちは2017年の元旦に立ち、新しい歩みを始めようとしています。心には前途に対する期待と不安が入り混じっています。今私たちがすべきこと、それはこの年の初めと終わりを主イエス・キリストが支配しておられるということを信じることです。

神学者であり優れた説教家でもあるW・リュティは『この日言葉をかの日に伝え』の中で次のように記しています。

キリストは、「初め」である。それゆえに、私は恐れる必要はない。今は私たちの背後にある365日という柱の全体は、彼を基礎としている。彼はこの巨大な建物を支えている土台である。彼だけが、そのような土台であり得る。他の土台がそのような支えになることは、あり得ない。

私たちは主イエスの愛の内にあって御手に導かれつつ一日一日を歩むのです。

« Older Entries Newer Entries »
Copyright(c) 2012 西南学院バプテスト教会 All Rights Reserved.