メッセージ

「手を置いて祝福された」

2017-05-30

マルコ福音書10章には、主イエスが子どもたちを祝福されたことが記されています。子どもたちを主イエスの元に連れてきた親たちの願いは「イエスに触れていただくため」でした。けれども弟子たちは場をわきまえない大人たちを叱りました。ところが主イエスは逆に弟子たちを叱り、幼子を側に招き、しっかりと抱き上げ、手を置いて繰り返し祝福されたのです。主イエスのこの手を子どもたちは生涯忘れなかったことでしょう。

インターネット上に10人の画家による「子供たちを祝福するキリスト」がありますが、私はフリッツ・フォン・ウーデ(1848~1911)の作品が好きです。主イエスの手の優しさが印象的です。

「手は語る」と言います。子どもたちに置かれた主イエスの手は何を語っていたのでしょうか。「あなたは神によって創造された尊い存在だよ」「神はあなたを心から愛しておられます」「あなたは自分を大切しなさい、そしてあなたの隣人もね」ということではないでしょうか。私たちの手も主イエスの手のようでありたいと心から思います。

オルガン奉献礼拝交読文 栄光の讃美

2017-05-23

司式 いと高きところには、神に栄光がありますように、

会衆 地にある神の民に、平和がありますように。

司式 私たちの主なる神、天にいます王、全能の父なる神よ、

会衆 私たちはあなたを崇め、あなたに感謝し、あなたの栄光を讃えて
讃美をささげます。

司式 父なる神の独り子、主イエス・キリストよ、

会衆 主なる神、神の小羊、

司式 あなたは世の罪を取り除かれます。

会衆 主よ、私たちをあわれんでください。

司式 世の罪を取り除かれる主よ、

会衆 私たちをあわれんでください。

司式 ただあなただけが聖なるかた、あなただけがわたしたちの主。

会衆 ただあなただけがいと高き主キリスト。

一同 主よ、今わたしたちは心からの喜びをもってこのオルガンをあな
たに献げます。聖霊と共に、父なる神と共にいます主に、栄光が
ありますよう に。アーメン。

「あなたの父母を敬え」

2017-05-15

神は奴隷であった民を自由の地へと導き出し、生きる指針として十戒をお与えになりました。それは自由の大憲章であり、彼らを育て上げる創造力を持つものでした。十戒の前半四つは神との関係についての掟ですが、後の六つは人との関係についての掟です。

人間関係の最初の掟が「あなたの父母を敬え」です。「私をこの世に生み、育ててくれた父母を神からの賜物として重んじ、尊びたいと思います。若い日には父母を通して主を恐れる道を学び、壮年の日には父母と共に生き、やがて年老いた父母を大事にしなければなりません」(現代キリスト教問答)。

神の家族である教会には別の母もいます。主イエスは「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」(マルコ12:49)と言われました。使徒パウロもルフォスの母についてこう言っています。「彼女はわたしにとっても母なのです」(ローマ16:12)。

私たちの教会にもそのような母たちがいます。教会は母たちの笑顔と働きにどれほど励まされ支えられていることでしょう。

「法―生きる道」

2017-05-15

5月3日は70回目の憲法記念日でした。私は憲法全文と若い憲法学者・木村草太氏の著書『憲法の創造力』『憲法という希望』などを読みながら考える時を持ちました。

「憲法9条は、第二次大戦を直接経験した人々によって、大変な緊張を伴い解釈され論じられてきた。そうした解釈論や議論を、次の世代に受け継いでゆくことは、我々の世代の義務だろう。公正で合理的なルールの創造を促す力、個人が尊重される平和な世界を創造する力は、失われてはならない財産である。我々は、憲法の想像力を受け継ぎ、育んでいかねばならない。」

ところで私たちには十戒という掟が神から与えられています。「そこに記されている内容は、すべての人間の自然と良心と理性に共通した普遍的法であります」(『現代キリスト教問答』)。十戒の精神は憲法のさらに根源にあるものと言えます。神がくださった十戒こそ平和な世界を創造する力です。争いの兆しがある今こそ、私たちは神の掟によって生きる道を見出したいと願います。「

「世の終わりまで、いつも共に」

2017-05-15

イエスの復活は、弟子たちのみならず多方面に動揺をもたらしました。墓を警護していた数人の番兵はこの出来事を祭司長たちに報告しました。祭司長たちは番兵に金を与え、弟子たちがイエスの遺体を盗み出したという噂を流布、事後処理しようとしました。

弟子たちは信仰を消耗させる噂を後にガリラヤに戻ります。愚にもつかない噂にいら立ったり、自分たちの経験の正統性を主張するよりも、もっと大切なことがあったからです。ガリラヤは主イエスが多くの尊い働きを行った場所です。彼らは主イエスが以前に指示しておられた山に登りました。そこはかつて主イエスが山上の説教を語られた場所です。マタイ五章一節以下にあるとおりです。

弟子たちはまさにその場所に戻っているのです。復活の主イエスはそこで弟子たちに会い、信仰と愛によって彼らをもう一度結び合わせ、全世界への福音宣教という大きな使命を託されたのです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。この約束を彼らへの尊い贈り物として。

「主イエスとトマスの再会」

2017-05-15

ヨハネ福音書20:27には復活の主がトマスに言われた言葉が記されています。

それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

十二弟子の一人、トマスは懐疑家です。主イエスの復活を信じることができません。不信を楽しんでいるのではなく、深く悲しんでいるのです。仲間の弟子たちの「私たちは主を見た」という証言は、ますますトマスに疎外感を味わわせます。彼の心に信仰を創り出せるのはただ主イエスのみでした。主は彼が信じることができるよう励ますために出会い、勇気づけてくださったのです。そこに大きな愛があります。

エルンスト・バルラハの作品『再会』は、トマスの前に立ち、今にもくずおれそうなトマスを復活の主イエスの大きな手、十字架の釘跡のある両手がしっかり支えている彫刻です。私たちも日々その御手に支えられていることを心に覚えて感謝しましょう。

「イエス・キリストの復活の意味」

2017-05-15

今日はキリストの復活を祝うイースターです。復活は私たちの理性と真正面から対立することではないでしょうか。しかしそれは現代の私たちに限ったことではなく、弟子たちの時代においても同様だったのです。

使徒言行録17:16以降には、使徒パウロが哲学の町アテネでイエスの十字架と復活について話した時のことが記されています。

「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えに  なったのです。」死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。

受け入れてもらえない話に弟子たちは何故固執し続けたのでしょうか。実はそこにこそ重要な意味があったのです。第一に復活こそが神がおられること、神の力は全能であることを証明するものでした。第二に復活こそがイエスへの神の完全な応答でした。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」という信頼への神の応答であり、「父よ、彼らを赦してください」という祈りへの承認でした。

「聖書は少し難しいが、役に立つ」

2017-05-15

評論家立花隆氏の『ぼくの血となり肉となった500冊』という本があります。その中に「ぼくの血肉のうちのひとつに『聖書』が入っているのは間違いないでしょうね。ぼくは聖書を、それこそ中学生ぐらいのときからものすごく熱心に読んでいるんです」とありました。

フリージャーナリスト池上彰氏の『世界を変えた10冊』という本には、第一章が『アンネの日記』、第二章には『聖書』が入っています。聖書は世界を変える力を持つと同時に、私たちの人生にも良い影響を与える書物なのです。

私も教会学校小学科で聖書を学ぶようになり、そこに登場する様々な人物の話に勇気づけられ、希望を与えられて育ちました。そして初めて聖書全巻を読んだのは18才の時でした。

あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだ  れから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。…聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(Ⅱテモテ3:16~17)(踊)

 

「一を知って」

2017-03-25

高浜虚子に次のような俳句があります。「一を知って二を知らぬなり卒業す」

「一を知って十を知る」「一を知って万を知る」という言葉もあります。そうであればいいなとも思いますが、一つ学んで一つ知る、それに続く二、三はまだ知らないというほうが謙遜であり、また学ぶ楽しみもあるのではないでしょうか。学問の知識もそう、人生の知恵もそうだと思います。

私は聖書を神学的に学ぶようになっておよそ45年経ちますが、最近ますます自分の知らないことの多さに驚き、同時に聖書の深さ広さ高さに感動しています。もっと学びたいと思います。「なるほど」「そうだったのか」という驚きを日々積み重ねています。

使徒パウロはローマ1:1~12で福音の奥義を知る喜びについてこう言っています。「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」

パウロの謙遜と熱意に感動します。

「イエスは教えられた」

2017-03-25

マタイ福音書では主イエスの説教が5つのブロックにまとめられています。5~7章は山上の説教、10章は派遣の説教、13章は天国の説教、18章は教会についての説教、24~25章は終末についての説教です。

それぞれの説教の間には主イエスの行為が記されています。ちょうど説教と行為がサンドイッチ状態になって、物語がドラマチックに進んでいるのです。福音書記者は、主イエスが言葉で福音を語り、それに続く行いがそれを実証していることを告げているのです。

山上の説教は、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(5:1~2)から始まり、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(7:28~29)で終わっています。

人々は主イエスの権威ある言葉に驚きました。心が不思議な喜びで満たされ、様々な束縛から解放されるのを感じたのです。

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