メッセージ

「宣教という愚かな手段によって」

福音宣教者パウロはこう言っています。
神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。(第Ⅰコリント1:21)

「宣教という愚かな手段」、これはパウロの実感だったのでしょう。心を込めて一生懸命語ったのに理解されないことが度々あった。神ご自身がなさればもっと簡単に、しかもはるかに完全に伝えられるのにどうして私のような者に宣教の務め託されたのだろう?

「お考えになった(エウドケオー)」という言葉は、気に入っている、心にかなっている、好ましいと思う、満足しているという意味があります。神は不完全な私たちの福音宣教を喜び、気に入っておられるのです。

一生懸命にやってもうまくいかないこともあります。それでいい、後は神が調整されます。神学者カール・バルトの言葉です。

教会の宣教の不幸、窮状、言語の混乱、無力さ、見渡す限りの不純な教えの海…。しかし人間的な失敗を主権的な仕方で生かし用いる神の成功、われわれが悪くすることを神はよくしたもう。

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