奴隷であった一人の少女(2019年5月)

 今回は列王記下5:1~27を通してナアマンと一人の少女について学びたいと思います。ナアマンは「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた」人物でした。その名の意味は「喜び」「心地よい」です。しかし彼の身に生じた重い皮膚病が彼の人生を喜べない、不快なものにしていました。誰の人生にもそういうものがあるものです。

 ナアマンの妻の奴隷はイスラエルの少女でした。ナアマンが戦利品として連れてきたのです。いつの時代もそうですが、戦争は祖国を奪い、家族を崩壊させます。この戦さでこの少女の家族は皆亡くなったのかもしれません。少女の心はナアマンとその家族、アラム人に対する憎しみと呪いでいっぱいだったかもしれません。

しかし軍司令官としてのナアマンではなく、一人の人間としてのナアマンの悲しみ、不安、恐れを見るようになり、いつしか彼と彼の家族のためにも祈るようになっていったのかもしれません。祈りは愛を育て、祈りは語るべき時を備えます。そしてついにその時が来たのです。「少女は女主人に言った。『御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに』」。

 女主人はただちにナアマンに、ナアマンは王に、王はイスラエルの王に書状を認めます。善は急げです。しかしこの手紙をもらったイスラエルの王は、これは言いがかりであり、イスラエルを滅ぼすための口実だと誤解します。しかし預言者エリシャは、これは神が栄光を受ける時であり、彼を自分のもとに送るよう指示します。

 ナアマンの使いがエリシャのもとに来た時、エリシャはヨルダン川に七度身を浸すように告げます。それを聞いたナアマンは馬鹿にされたと誤解します。どうして人はこうも誤解するのでしょうか。しかしナアマンの良さは家臣たちの説得「試してみましょう」に耳を貸すところです。彼はエリシャの言葉に従い、その言葉を信じてヨルダン川に七度繰り返し繰り返し身を浸します。身を沈めるごとに彼の信仰は深まったことでしょう。その結果彼の体はまるで幼子の美しい肌のように癒されたのでした。彼はイスラエルの神に対して信仰を表明します。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」。(その後もエピソードは続くのですが、紙面が足りないので省略します)

 子供の頃、教会学校でこの紙芝居をみました。大きく描かれたナアマンと、小さく描かれた少女が対照的でした。そして小さな少女の心の中にある大きな信仰に感動します。また救いの所在を知るからこそ、大切な人にそれを伝えようとする少女の愛と勇気にも感動します。

 まもなく初夏伝道集会が始まります。伝道委員会を中心に準備が着々と進んでいます。この集まりのことを愛する家族や友人に知らせたいと思います。「この集会にいらっしゃれば、きっと本当の希望の在処を知ることができるでしょう」と。