使徒パウロは教会を「聖なる神殿」(エフェソ2:21)と呼んでいます。この言葉に出会う時、私はサグラダ・ファミリア贖罪教会の二代目建築家アントニオ・ガウディの次の言葉を思い出すのです。
私はこの《聖堂》を完成させることができないことは、悲しむべきことではない。私は年齢を重 ねていく。代わって、この聖堂を再び始める他の者たちが現れるだろう。このようにして、聖堂はさらに壮麗なものとなろう。例えば、タラゴナの大聖堂は、もし始めた者が完成していたとすれば、あれほど豊かさを持つことはなかったであろう。時代と共に、さまざまな有能な芸術家たちが、自らの作品を残していった。それゆえに全体が美しいのである。…そこにはいろいろな様式があるにもかかわらず、統一性は失われていない。そこで働いた芸術家たちはこの統一性ということを頭に入れていたのである。《サグラダ・ファミリア》においては、摂理がいいようにしてくださるであろう。
私たちの教会も聖霊の働きによってやがて美しい輝きを放つ貴い作品になることでしょう。(踊)