「手というものは」
阿南慈子(あなみいつこ)さんは三一才の時に難病多発性硬化症を発病、三三才で両眼失明、二○○○年晩秋、四六才の若さで天に召された。病床にあっても口述筆記で沢山の詩やエッセイを発表、多くの人に励ましを送り続けた生涯だった。彼女の詩を一つ。
今度は手が動かなくなった
三十数年間働き続けてくれた手が
今までしてきてくれたこと
きれい好きで家中ぴかぴかに磨き上げていた
お料理も好きで美味しいものたくさん作った
洋裁も得意で子供たちの服いっぱい作った
ギターは簡単なコードだけ少し爪弾いた C Am D7
もっとしたかったこと
胸の前で手を合わせて祈ること
両親の肩を心を込めてもむこと
子供たちの頭をやさしくなでること
人との出会いと別れに篤く握手すること
こうしてみると手というものは
神様への讃美と感謝と祈りのため、そして
人への愛と励ましのためにあることがわかる
私は折あるごとにこの詩を思い起こす。今の時代こういう手が求められている。(踊)