ニュースレター

2023年6月4日説教全文「祈り~神の召しを確認すること」牧師:西脇慎一

説教のダウンロードはこちらから(PDFファイル)

〇聖書個所 マルコによる福音書1章35~39節

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

〇説教「 祈ること。神の召しを確認すること 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。新しい週の初めの日、こうして皆さんと共に礼拝できる恵みを心より感謝します。今日も初めて教会に来てくださった方、久しぶりの方もおられます。心より歓迎申し上げます。皆さまにはそれぞれ教会に来ることになったきっかけがあると思いますが、その心の内にある祈りに主なる神さまが応えて下さいますように祈ると共に、今週も皆さんの一週間の歩みの上に主の恵みと守りをお祈りいたします。

先週九州北部の梅雨入りが発表されましたが、早速、台風2号が日本列島にやってきました。沖縄や四国や近畿、また東海地方で大雨による河川の氾濫や暴風による被害がありました。被害に遭われた方々のいのちと生活の守りを祈ります。私たちの礼拝には、沖縄や関西からもオンラインを通して参加してくださっている方々がおられます。皆さまのご健康と日々の生活が守られますようにお祈りしています。雨は恵みであり、私たちの生活に欠かせないものでありますが、毎年のように大雨の被害が報道されます。毎年のように異常気象と言いますが、例年という枠組みが当てはまらない時代に入ってきているようにも思います。私たちには何が起こるかわかりませんが、主なる神への信仰は、そのような中を歩む私たちを力づけ守るものです。イエス・キリストの伴いと守りが皆さまの心と歩みを守り支え、強めますようにお祈りしています。

先週はペンテコステ、聖霊降臨の記念日でした。イエス・キリストはこの聖霊降臨についてこのように語られました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この言葉のように、聖霊を受けた弟子たちはまるで人が変わったかのように恐れから解放され、力強く、大胆に福音宣教にしていきました。そのことからペンテコステは「教会の誕生日」とも呼ばれています。聖霊とは、真理のみ霊であり、弁護者として神の言葉を私たちに語るものであります。

先週の礼拝説教では、このペンテコステの出来事を共に思い起こしながら、神の御言葉の実現であるイエス・キリストの福音宣教の働きに心を留めました。マルコ福音書1:21-34では、汚れた霊の追い出し、悪霊の追い出し、病者の癒しという奇跡が行われていましたが、それは「権威ある教え」によって起きた出来事だとお話ししました。「権威ある教え」とは、律法学者のような律法の教えや高名なラビの解説書を朗読して、そのままを鵜呑みにすることなのではなく、イエスの言葉を聞いたものが「もっともだ。わたしもそのように思う」というように、自発的に共感するような言葉であり、相手側の権力や立場がものを言わせるわけではなく、自分の内に湧き上がる敬意であります。
そのような権威ある教えが汚れた霊や悪霊を追い出したということはどういうことでしょうか。それは、イエス・キリストの言葉、真理の言葉によって、彼らは自由にされたということです。汚れた霊や悪霊というものは人々の心に入り込み、或いはとりつき、その歩みを支配するものです。例えば会堂で語られていた教えが人の心を支配し、人々の心を暗くさせたり、病気にさせたりするような影響があったのでしょう。本来、律法は神の愛であり、神を信じ他者と共に生きて行くために大切な教えでしたが、それが人の生き方を規定するようなルールになると、人を裁く基準となり、背負いきれない重荷となってしまうことがあります。会堂に汚れた霊に取りつかれた人がいたということは、象徴的ですが、そのような場所にこそ、その教えに従えない人、罪びと、汚れという概念が生まれるのです。しかし、だからこそ言えるのは、イエス・キリストの真理の御言葉は、人々を囚われから解放し、自由を与えるものだということです。

今日の箇所は、その出来事に続くお話しです。イエス・キリストは朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れた所へ出ていき、祈りの時を過ごしておられました。イエス・キリストが一人で祈る時を持っていたということはたびたび聖書に登場していますし、一人で祈ることの重要性を教えている箇所もあります。マタイ6:5-8ではこう教えています。
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だからこう祈りなさい」。(マタイ6:5-8)

このようにして有名な「主の祈り」を教え始められるわけです。「主の祈り」については今日は取り上げませんが、イエスのこの言葉からわかることは、祈りの中で最も大切なことは、祈りとは自らの心を神に向け、神と対話することだということです。祈りとは儀式的なものでも、ましてや誰かに見せるパフォーマンスのようなものでもありません。極めて個人的で内的な自分自身の出来事であり、自分の心のありのままを神に向ける時だということです。実に私たちは祈る時、明確な言葉を持って祈ると言うことができないことがあります。「助けてください。救ってください。平安をお与えください」という感情的な思いしか出てこないこともあります。まさに無我夢中で祈るということも少なくないと思います。しかし、そのような時でも私たちが覚えたいことは、言葉にならないうめきのような思いをも、ありのままに向けて良い神がいると言うこと。その祈りを聴いてくれる神がいると言うことなのです。

そしてその神は、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存じであるとイエスは言います。でもそうなのであれば、神はなぜ、私たちが必要なものを知りながらお与えくださらないのかと思うこともあるかもしれません。しかし、こう言うことなのでしょう。つまり、神さまはあなたが自分自身として神に心を向けて祈り始める時を待っていると言うことです。祈りとは神との対話であり、神に向かう時であります。神は私たちの心が神の方に向くことを待っているのです。
もちろん残念ながら、必ずしも私たちが祈ったことが全てその通りになるとは限りません。私たちは神が祈りを聴いてくださらないと思い、失意を感じたり、やきもきしたりすることもありますが、それが神の答えであることもあります。大切なことは、マルコ11:24にある通り、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と信じて歩んでいくことです。その信仰生活の傍らに、イエス・キリストが聖書の言葉を通して共におられるのです。祈りとは、この神の伴いを信じて歩み続けて行く継続的な信仰の営みのことであるのです。

私はイエス・キリストが今日の箇所で一人で祈ったと言うことは、非常に興味深いことだと読んでいます。というのは、今日の箇所は、イエス・キリストが福音宣教の初めの出来事を終えた後に、すぐに持たれた一人での祈りの時であったからです。イエス・キリストは福音宣教の初めの出来事として、会堂で教え、多くの汚れた霊や悪霊を追い出し、病の人を癒しました。まさに人々の求めの最前線に直面したわけです。恐らく、イエス・キリストはここで神の召し、あるいは自分の求められている働きを再確認することになったのではないかと思います。神さまがメシアとして期待していることは、人々に寄り添い、その言葉と教えを通して人々を解放していくことだ。人々を律法の外に追いやって、自分たちが正しいとすることや、王宮に入って偉くふんぞり返ることではなく、最も助けを求めている人々と共に生きて行くこと。そこに神の国が訪れるということを改めて考えたのではないでしょうか。

またそこには、本来神の言葉を宣べ伝えるべき会堂と言う場所が、そうはなっていなかったという憤りというか悲しさというものもあったかもしれません。イエスはどれくらいの時間祈っておられたのかはわかりません。しかし、その時は豊かな時となったようです。弟子たちがイエスを探しに来たとき、このように言われます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。この言葉から、イエス・キリストがこの祈りの時を通して、自分に対する神の召し、あるいは自分の使命というものを再確認し、その決意を新たにしたということがうかがい知れます。

先ほども申し訳ましたが、祈りの時は神と向かい合うことです。私たちの願いを祈り求めることもあると思いますが、今の自分に対する神の御心を求めるということもあるでしょう。私たちは時々に応じて原点に立ち返ることが大切です。そうでなければ、私たちの働きと、その目的はブレてしまうことがあるからです。そのために大切なことは、祈りの中で神からの語り掛けを聴くということが大切です。
ちいろば先生として知られる榎本保郎牧師は、アシュラム運動という祈りの推進を始めました。アシュラムは毎朝15分の黙想の時を持つ生活を続けることです。5分聖書を読み、5分祈り、5分黙想の時間を持つ。これで人生が変わると言いました。御言葉に聞き、自分の思いを神に打ち明け、委ね、神からの語り掛けを待つ。これが一日の始まりにあると一日の歩みの土台となることであるからです。
実は神戸教会にいた時、このアシュラムの祈りをお話ししたら、ある教会員に思いが与えられ、「先生、私は一年、このアシュラムの祈りを実践してみます」と言い出されました。毎週お会いするたびに、「お祈りはどうですか?」とお声かけすると、最初の方は、その時間の確保がとても大変だったと言っておられました。でも私に言ってしまった手前、なんとかやめることなく続けて来られたそうです。祈りの時を一人で行うことの大変さを感じます。しかし次第にその時間が大切になっていったそうです。そうしたら、毎朝祈るその姿を間近で見ていたご主人も変わって来て、逆にご主人に「おい、今日はしないのか」と励まされることもあったと言っておられました。実は、その方はずっとご主人と共に礼拝に行きたいという願いを持っていた方でした。この祈りは人に見せるために行われたものではありませんが、しかし結果として、今は共に礼拝に通っておられるそうです。すごいことだと思います。祈りを通して何が変わったかと言うと、恐らく御自身であったと思います。でも、自分が変えられたことですべてが変わっていったのではないかと思います。祈りを何かの手段にしているときにはなかなか変わらないかもしれません。しかし祈りを歩みの土台に置くときに、すべてが変わっていくのです。

黙想の祈りを大切にしているキリスト教のグループは他にもあります。例えば、フランスにはテゼ共同体という修道会があります。彼らは、祈り語ることよりも、聖書を黙想することを礼拝の中心にしています。短いフレーズの讃美歌を繰り返し歌い、沈黙の中で黙想し祈る。このテゼ共同体は神を信じるものだけでなく、信じない者も含めて、世界中から多くの若者が生きる意味と希望を求めて集っている場となっています。時に私たちは聴きます。祈ったって何も変わりはしない。祈りは無力だ。果たして本当にそうでしょうか。祈りは神と向かい合うことを通して、自分自身が変えられることであります。そして自分が変わっていく時に、或いは自分の立ち位置が確認できる時に、私たちの周りが変わっていくのです。

私たちの生きる社会は、流れが非常に早く、時に流れに乗り遅れたり、置いて行かれたりすることがあります。時には心を切り離していかなければついていけなくなることもあります。しかし大切なのは、私たちが私たちらしく生きることであります。聖書の言葉、神の御言葉は、私たちにそのことを改めて教えるものでありますし、祈りはそのような神の言葉を私たちが受け取るときとなります。

今日の聖書個所の最後にイエス・キリストはこう言います。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。このように語られているイエス・キリストの神の言葉は、今も聖霊の導きを通して働き、私たちの心の内に語られているのです。

私たちが礼拝に来ているのは、まさに自分の使命を確認し、神の言葉に希望を受け、励ましを受け、自分たちの場所に派遣されるためであります。皆さまの心の中にある祈りをどうぞ神に委ね、新しい一週間を歩みだして参りましょう。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ11:28-30)

関連記事

TOP