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2023年7月16日説教全文「子よ、あなたの罪は赦される」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マルコによる福音書 2章1~12節1

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

〇説教「 子よ、あなたの罪は赦される 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。先週は九州北部を始めとする日本海側一帯で大雨が起こりました。福岡では特に久留米や朝倉の方で道路冠水、河川の氾濫、土砂災害が起こりました。早良区においても飯倉でがれきが崩れるというニュースがありました。不安の中でお過ごしの方々も多かったのではないかと思います。異常気象が毎年のように続いています。恐らくはこれからも、これまでは考えられなかったようなことが起きるのでしょう。週報4面に書かせていただきましたが、日曜日に警報が出ている場合などは、教会で礼拝を守ることも大事ですが、いのちの守りが優先です。神さまはそんなことで怒るような方ではありません。どうぞオンラインなどで礼拝をお守りいただきたいと思います。地球環境の保全と私たちのいのちの守りのために祈り、知恵を求めて参りましょう。
本日は、今年度私たちが通読しているマルコによる福音書からお話をします。聖書個所を続けて読んでいくことは、イエス・キリストの教えと出来事を改めて考えるためにとても大切なことです。特に今日の聖書箇所「中風患者の癒し」の出来事は、私たちにとって非常に興味深く面白い箇所だと思います。主な登場人物は、イエス・キリストの他に中風患者と4人の男性、そしてその場に何故か同席していた律法学者です。律法学者というと厳格な律法主義者でイエス・キリストの論敵として知られていますが、ここでは彼らはイエス・キリストの話を聞くためにやってきていたと思われますので、どちらかと言えばまだ考え方の柔軟な学者だったのではないかと思います。

流れを確認していきましょう。中風という病気にかかった人を4人の男たちが連れてきました。中風とは英語聖書ではパラライズと書かれますが、ギリシャ語の元々の言葉は身体不随という意味がある言葉です。現在の医学では、脳血管障害などによって身体に残る身体麻痺のことだと言われているようです。彼は4人の男性たちに連れられてやってきました。自分自身がイエスさまのところに来たかったので連れてきてもらったのか、それとも4人の男性たちが彼をイエスさまのところに連れて来たかったのかは不明です。ただ、彼らはイエスさまのところにやってきたのです。恐らくは中風患者の癒しを求めてやってきたのだと思います。ところがその家は満員状態で、入ることができませんでした。聖書には「大勢の人が集まっていたので戸口の辺りまで隙間がないほどであった」とありますので、とても密な状態であったことが想像できます。何故こんな現象が起きていたかと言うと、マルコ1章でイエスさまが様々な病の方々、重い皮膚病などを患っている方々の癒しなどを行い、噂になっていたからです。イエスさまの言葉を聞いてみたいと思った人々が殺到したのでしょう。

彼らは、どうしたらイエスさまに会えるか考えたことでしょう。一つの方法としては待つということです。しかし彼らはそれは選びませんでした。もしかして一刻を争うような状態があったのかもしれません。彼らは別の方法を取りました。それが家の屋根に上り、その屋根を剥がして中風患者を釣り降ろすと言うことでした。
発想がぶっ飛んでいると思いませんか。人がぎっちりつまっている家の屋根を突然壊して入るのです。その状況は想像するだけで、とても奇妙な光景だったと思います。例えば今この礼拝堂の屋根が突然壊されて担架に乗った人が釣り降ろされてきたら、どう思うでしょうか。びっくりどころの話ではありません。短絡的すぎると思いますし、自分たちの都合だけしか考えられていないように思えます。さすがのイエスさまも驚かれたというか呆気にとられるというか苦笑いだったのではないかと思うのです。ところがイエスさまは、そんな無茶にも見える男たちの行いに信仰を感じ、彼らが連れてきた中風患者に「罪の赦し」を宣言したのです。イエスさまの柔軟性はすごいと思います。わたしなら家を壊すなんて何を考えているのか、待っていることさえできないのかと叱ってしまいそうです。

ところで、このやりとりに若干の違和感を感じます。何故イエスさまは罪の赦しを宣言したのでしょうか。多分このような状況だったら、イエスさまがここで宣言するべきは、病気の癒しであるはずです。それが期待されていたとも思います。しかしイエスさまはそうはされませんでした。罪の赦しを宣言すると言うことは、その人に罪があることを認めることです。イエスさまは彼に何の罪を感じ、それを赦したのでしょうか。不思議な部分ならまだまだあります。イエスさまが信仰を感じたのは、4人の男たちであって、中風患者でもないということです。なのに、中風患者自身の信仰が問われないまま罪の赦しが宣言されているのです。私たちは、奇跡というものはその人の信仰において起きると思っています。イエスさまは人々の不信仰を嘆きこう言っています。「信じる者には何でもできる」(マルコ9:23)「あなたの信仰があなたを救った」。ところが、ここではイエスさまは中風患者の信仰は問わず、4人の男性の信仰を見てそのように言っています。信仰が無くても奇跡は起きるのでしょうか。信仰とは何か、私たちは問われます。
ちなみに、ここで「信仰」というものが問われる人がもう一人いました。それが律法学者です。彼は心の内に思います。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」。これは私たちの心にも出てくる正常な問いかけだと思います。神お一人以外に罪を赦すことは出来ない。それ以外の存在が行う罪の赦しは傲慢であり神への冒涜である。これは、神を大切にしていればしているだけ強まってくる思いであります。言い換えてみれば、神がこの人に罪を感じているからこそ、彼はこうなっているのだ。病は罪があるからなのだ。神の裁きを人が勝手に曲げてはいけないのだ。この律法学者は、先ほどイエス・キリストの言葉を聞きに来るぐらい柔軟な人だったのではないかと言いましたが、しかしそういう人でもなかなか逃れることのできないのが、「純粋な信仰が生み出す罪びとへの差別」であります。

イエスはその律法学者の思いを知って、言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。

「罪の赦しを宣言すること」と「起きて床を担いで帰りなさい」と言うこと、どちらが易しいか。皆さんはどちらと思いますか。実は神学者の中でも両方の意見があります。実は私は西南神学部の卒業論文ではこの箇所から罪の赦しと癒しを取り上げています。当時私はこう思っていました。「この律法学者が言うように、罪を赦すことができるのは神お一人である。神の子であるイエスさまだから宣言できたのだ。だから罪を赦す方が難しい」。ところが、聖書の流れを見てみると、罪を赦す権威を持っていることを示すために、イエスさまは彼に「起きて、床を担いで歩け」と言われています。つまり文脈的には、こちらのほうが難しいということになります。それだとどういうことか。つまり恐らく、これは神がこの人の罪を赦した結果として、病から解放され、彼は歩むことができるようになったということ。現実に体の麻痺によって歩けない人が歩けるようになるのは、神がこの人の罪を赦した事実によって起きた癒しだ。だから「罪は赦される」と発言することよりも、実際に床を担いで歩けと言うほうが難しいのだという結論でした。

当時私は、ここに着目しどちらが易しいかということに着目していましたが、今はこの譬え話をまた違う風に読んでいます。イエスの宣言に込められた意味が大切だと思うのです。そこにはイエスが見て取ったように四人の信仰がありました。先ほど申し上げましたが、イエスさまが罪の赦しを宣言されたことから考えると、この中風患者は罪があったということになります。この「罪」という言葉は、聖書ではハマルティア、的外れという意味です。何から的を外して生きているのか、それは神ではなく他のもので自分を満たそうとすることです。ちなみにこの「罪」と言う言葉は、単数形ではなく複数形で書かれているので、彼は的外れにもろもろの罪を犯して生きてきたのです。もしかして、中風、今でいう脳血管障害というものが起きたのは、そのような彼自身の生活習慣や様々な行いによって起きてきたように思われていたのかもしれません。少なくとも病にかかった本人自身はそのように思い、またそのような状況になってしまったことを悔いていたかもしれません。自分は神に裁かれたそのように思い込んでいても仕方ありません。

しかし、そんな当人をイエスさまのところに連れてきて、しかも屋根を剥がして自分のところまで降ろしてくる、誰も思いつかないようなことをしてまで彼を何とかしたいと思う四人の男たちが周りにはいたのです。つまり、それは彼らの関係の中において、その病人の諸々の罪はすでに赦されていたのです。ですから、イエスさまは言われます。「子よ、あなたの罪は赦される」。この言葉は、単一の動作だけではなく、進行形や継続中の動作も表す言葉ですので、次のように言い換えることができます。「子よ、あなたの罪は赦されている。あなたは赦され続けているのだ」。つまり、イエスさまが四人の男たちの中に感じた信仰とは、四人がこの一人の人を想う気持ちであり、それがイエスさまのところに来れば癒してもらえるに違いないという期待に繋がっていたのではないでしょうか。だからこそ、イエスさまはそれを「罪の赦し」として宣言されたのではないかとわたしには思えるのです。

その結果、彼は癒され、そして再び起き上がる力を得ました。先ほど問いかけのように言いましたが、信仰が無くても奇跡は起きるのか。はい。起きるのです。それは自分のために祈り支えてくれている人がいるということ。この関係性が既に奇跡なのです。わたしは一人ではない。私のために祈ってくれる者、屋根を剥がすことさえ厭わずにしてくれる人がいるという現実が、私たちの力になるのではないでしょうか。

聖書個所を二つ読みます。「一人よりも二人が良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れればひとりがその友が助け起こす」(コヘレト4:9-10)。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19-20)。

もう一つ言うと、奇跡は誰が起こすのか、それは人ではありません。神の業です。使徒パウロも言います。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマ4:5)。つまり信仰とは、私たちが先に与えられるものなのではなく、イエス・キリストとの出会いの中で生まれてくるものである。そして、そのイエス・キリストの父なる神の愛は御許に来るものすべての人に開かれているのです。私たちはそれを共に喜びたいと思うのです。

今日登場した律法学者たちですが、彼らはイエス・キリストの言葉に神への冒涜を感じました。ところが彼らはそのイエス・キリストの言葉によって癒された人々を見た時、「人々は皆驚き、このようなことは見たことがないといって神を賛美した」という結末に繋がっています。つまり、目の前で起きた出来事に自分たちが悔い改めさせられ、変えられていったと言うことなのではないかと思います。

私たちは今日の聖書箇所から共に神を賛美する者へ変えられて行きたいと思います。イエス・キリストという方の愛の広がりには信じる者、信じない者という制限はありません。イエス・キリストは私たちの心の屋根を剥がしてくださる方です。イエスさまは御許に来る者の祈りに耳を傾けて下さり、そこで私たちが思わない奇跡をさえ起こしてくださる方であるのです。私たちには色々な祈りの思いがあります。友への祈りがあります。イエスさまに安心して委ねて参りましょう。

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