〇マルコによる福音書 4章1~9節
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」といわれた。
〇説教「福音の種は蒔き続けられている」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。急激に気温が下がって参りました。いよいよ秋に入ってきたことを実感します。今週も皆さまのご健康が守られ、日々の歩みの上に主の祝福と守りがありますようにお祈りしています。
わたしたちは礼拝において主の御言葉を頂くために集まっていますので、早速聖書の箇所に入りたいのですが、一つだけお話しさせていただきたいことがあります。実は今日選ばせていただいた聖書箇所は、マルコによる福音書を続けて読んでいくという趣旨の元、選んだ箇所でありますが、前に一度、この西南学院教会の礼拝においてお話ししたことがあります。いつのことか覚えている方はおられますでしょうか。実は私がこの西南学院教会に赴任する前に、いわゆる「お見合い説教」という顔合わせで礼拝にお招きを頂いたときに、この箇所からお話をさせていただいたのです。今よりちょうど一年半前の2022年3月13日のことでした。牧師をしていますと、同じ聖書個所からお話しすることはままある話なのですが、今回はやや間隔が短いですし、しかも今はその時の説教動画もインターネットにアップされていますので、どうしようかと迷いました。しかし前回お話しした時は、教会のことをほとんどわかっていない時期でしたが、今は皆さんとお話をし、皆さんのこと、教会のことを以前よりはわかってきています。ですので、この譬え話の解釈が皆さまに届きやすいのではないかと思い、改めてこの説教をさせていただきます。
今日の箇所は、新共同訳聖書では「種を蒔く人の譬え」と小見出しが付けられているイエス・キリストの「譬え話」です。イエス・キリストは譬え話の名人と言われますが、何故譬えを用いて話されたのでしょうか。その理由についてマルコ4章12節には「見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できず、立ち帰って赦されることがないため」と書かれています。こう言われてしまうと、「弟子たちには真理を明かすけど、他の人には教えないよ」と言っているように思えますし、それならば譬え話をする理由さえないように思われます。ですから、私は譬え話で語る意味があると思います。つまり譬え話というものは、自分の頭で色々と考えるものです。答えを言われたら考えることさえせずにすっと通り過ぎてしまうことがありますが、譬え話であれば、「いったい何のことを言っているのか」と考えると思います。イエスさまはもしかして「聞いても立ち返らないためである」と言いながらも、群衆にとってしっかりと「福音の種」が彼らの心に届くようにあえて譬え話をされたのではないでしょうか。
イエスの「種蒔き人の譬え」はこう言ったものでした。もう一度振り返ってみます。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして「耳のある者は聞きなさい」。つまり「この譬え話を聞いたあなたがたはこの意味をよくよく考えてみなさい」と言われるのです。
皆さんはこれまでこの話をどのように読んでこられましたでしょうか。私はクリスチャンホーム育ちで子どもの時から教会に通っていましたので、幼いときから礼拝でも教会学校でもこの譬え話を聞いていました。そこで語られていたことは、この譬え話の答えはマルコ4章13節以降に書かれているよということでした。今日はその部分はお読みいただきませんでしたが、そこにはイエスさまによる譬え話の解釈が書かれています。
内容はこうです。つまり、「蒔かれた種とは御国の言葉、福音そのものである。そして種が蒔かれた土地というのはあなたがたの心である。道端とは、落ちた種が根付かず、悪い者が来て取ってしまうところのことである。悪いものとは悪意を持つ者のことですから、福音を聞いても受け入れようとせず、はねのけてしまう人のことだと言えるでしょう。石だらけの土地とは、石が艱難や迫害を表すので、それに躓いてしまう人のことだと言えるでしょう。確かにどっしり根差していないとすぐに信仰は成長することなく、すぐに枯れてしまいます。茨の土地では根は降ろしますが、成長していく段階で、世の思い煩いや富の誘惑が茨として出てきて覆いかぶさってしまい、それ以上大きくなることはできないということです。それに比べて、良い土地とは御言葉を聞いて悟る人のことであり、30倍、60倍、100倍の実りを得る」というわけです。
ですから私がこの話から受け取ってきたことは、福音をはじいたり迫害や誘惑に負けるのではなく、良い畑のように福音をしっかり受け止める心を作ってイエスさまの話を聞くことが大切だということでした。でもその一方で、この解釈はある意味で言えばとてもわかりやすい内容であり、イエスさまがよくよく考えてみなさいと付け加えて言われるほどのことなのか疑問に思っていました。確かに言いたいことはわかるのです。イエスさまの御言葉は心を開いて受け止めるべきである。疑うよりも信じる方が幸いです。でもそのように思う一方で、では本当に私が良い畑になっているか。つまずきの石一つもなく純粋にイエスさまの言葉を信じられてきたかと問われるならば、それに「はい」ということはとても難しいと思います。
確かに福音を聞いてそれをどのように信じて行くか、生きていくかということは重要なことです。まさにそれが信仰が問われるということであるからです。そして私たちはもちろんできることならば、イエスさまの言葉をしっかり受け入れて、信仰に根を張ってがっちりした土台に立って、誘惑なんかにブレることなくまっすぐ生きていきたいと思うものであります。またそれによって豊かな実りを得たいとも思います。しかし、残念ながら私たちの心というものは色々な状況に左右されるものです。心が落ち着いているときはイエスさまの言葉を純粋に受け入れることができるけれど、いつもそんな状況ばかりではありません。むしろイエスさまの言葉を聞いたって、はねのけてしまうことや、聞いても自分自身で根付かせないようにしてしまうことさえあります。いろいろな誘惑や試みにやられてしまうことだってやはりあるわけです。
皆さんはどうでしょうか。この譬え話の説明を聞いて自分はどんな土地だったかと考えると思います。「よかった。私は良い土地だった」と思う方はどれくらいおられるでしょうか。純粋に信じて恵みを受けている方もおられる一方で、神の救いを求めていてもなかなか信仰を持つところまでにはいかない道端や石だらけの状況の方もおられると思います。または教会から離れてしまった家族のことを想う方もおられるでしょう。あるいは若い時にキリスト教に触れ信仰を持ったけれど、長い間離れていた。私は、茨の中に落ちた種であったのかとか思う方もおられるかもしれません。
そのように、私たちの歩みには色々あります。私は本当に良い土地であったのだろうか、教会生活は何とか続けてきたけれど普段の生活は困難ばかりだった。自分の人生は石だらけだったとか、誘惑ばかりだったと思うことがあるのではないかと思います。わたしもそうです。神さまを信じていても、なかなかうまくいくことばかりではないのが人生の四季です。もちろん神さまの存在に慰めを受け希望も頂いてなんとかやってきたとは思います。それが「良い土地の証拠だ」と言われればそれはそうも思うわけですが、しかしわたしの畑には今も石もあり茨も生い茂っています。そんな私にとっては、むしろ良い土地とはどんな人なのかが気になります。どんなに恵まれている人だろうかと思うわけです。信仰深く、人にやさしく、何の不安もなく、なんでも祝福されているような人でしょうか。そんな人は本当にうらやましく思います。それでは、イエスさまはわたしたちにもそんな風になりなさいと言っておられるのでしょうか。
そう出来たらよいとは思います。しかし、そういわれてもそうはなれないというのが私たちの現実なのではないかと思うのです。ですから私はこのイエスさまの言葉に疑問を感じるのです。もしイエスさまが、「良い土地」を引き合いに出して「あなたがたは良い土地になりなさい」と語っておられるのだとしたら、他の3つの土地はどうなのでしょうか。悪意を持っている人々、艱難や迫害の中でイエスさまを信じられない人々、世の思い煩いや誘惑があってイエスさまから離れていってしまった人々については、「残念だけれども福音の種が届かなかったんだ。彼らは実を結ぶことができない。彼らは不幸だ」と言っていることになってしまうのではないでしょうか。でも、そもそももし仮に私たちが石だらけの土地や茨の土地であったとしたら、その畑に種を蒔く前に、その土地から石や茨を取り除くことが種を蒔く人の責任としてあるのではないでしょうか。わたしたちが信仰を持つことが難しい原因は、やはり信仰が持てないような状況、教会に繋がっていけない困難があるということなのです。
私はむしろこの譬え話が福音であるのだとしたら、本当にこの種を必要としているのは、何の手入れも必要ないような良い心の持ち主ではなくて、むしろ道端のような、石だらけで茨が生い茂っているような心の人だと思うのです。
そのように考えて改めてこの箇所を読んでみるのです。そうすると、この種蒔き人の行動に不思議さを感じるようになりました。なんでこの種蒔き人は、種が色々なところに飛んでいくように巻いているのでしょうか。もし皆さんが種を蒔くとして、最初に考えることは恐らくどうしたら効率的に効果的に収穫を得ることができるかということだと思います。種だって無制限にあるわけじゃないですから、一粒の種も無駄にしようとは思わないはずです。でもこの種蒔き人は適当にぱぁーっと種を蒔いているようにしか思えないのです。ちなみにこの聖句を元にミレーやゴッホという有名な画家が「種を蒔く人」という絵画を描きました。それらの絵を見ると、畑の畝沿いに歩いて種をパラパラと落としていくような感じのように見えます。確かにぱぁ~っと蒔くよりも効率的なやり方だと思います。多分、イエスさまの当時も普通の農夫はしっかり考えて種を蒔いていたことでしょう。
しかしこのように考えると、イエスさまの譬え話に出てくる種蒔き人は普通ではありません。彼はどこに飛んでいくかも関係なく、種を蒔き続けているのです。ですから、私にはこの種蒔き人があえて色々な土地にも福音が届くように種をまき続けているようにしか思えないのです。つまりこの種蒔き人は、効率的にたくさんの収穫を得るために良い畑のところにばかり力を注ぐのではなく、道端や石だらけのところや茨の中にいる人たちを見捨てることなく、むしろ諦めないで、必死に生きている人々に福音を届けているのではないでしょうか。神は、まさにそのようなわたしたちがいるからこそ、福音の種を色々な心の状況の人々に蒔き続けてくださっているのではないでしょうか。その実はいつ結ぶかはわかりません。しかし私たちの中にはしっかり蒔かれた種が届いている。だから今このように私たちは結ばれているのではないでしょうか。
私は実にイエス・キリストはそのような方々に会いに行かれた方なのだと思います。そしてイエスさまのところにやってきた群衆たちと言うのは、まさにそういう困難の中にいた人たちではなかったのかと思うのです。だからこそ、イエスはどんな人にもまんべんなく福音の種を蒔き続けている神の姿を譬え話に乗せたのではないかと思うのです。
私はイエスさまは道端に咲いた花を愛された方であることに目を留めたいのです。「野の花を見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6:28-29)。この花は名もない小さな花だと言われますが、私は最近道路の側溝などに咲いた小さな、しかしそのしぶとさにほとほと敬服する雑草の花のことなのではないかと感じています。その花々の美しさは、色づきの美しさではなく、しぶとく負けないたくましい生命力です。神は私たち一人一人が様々な厳しい環境の中でも生きていけるように御言葉を下さるのです。それが、神が私たち一人一人を愛し、私たちに伴っていてくださるということだと感じるのです。
このように聖書を読むと、この「福音の種とは何か」を考える必要があります。それは神さまを信じることができる状況にいる純粋で幸運な人が救われるというような福音ではなく、そのような様々な状況の中で生きている人々に対して、神は常に目を留めて頑張れと励ましとあなたはよくやっている。あなたは一人ではない。私が共にいるのだとエールを送ってくださっているということなのではないでしょうか。そしてこの種蒔き人が願っている私たちが結ぶ実というものは、私たちは確かに困難な状況があるけれども、この福音という決して枯れることがないイエスさまのいのちの水を受けてそれぞれの花を咲かせるということだと思うのです。それがわたしたちがイエスさまの言葉に繋がることによって起きることなのです。イエスの福音に心より感謝したいと思います。共に祈ってまいりましょう。