ニュースレター

2023年10月29日説教全文「神の国の譬え~からし種のように」牧師:西脇慎一

説教のダウンロードはこちらから(PDFファイル)

〇マルコによる福音書 4章24-32節

また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」。 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」。 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。

〇説教「神の国の譬え~からし種のように」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。朝夕の気温が下がってきましたが、日中はまだ暑さを感じる不思議な陽気が続いています。インフルエンザ等の流行もあるようですが、今週も皆さまのご健康が守られ、日々の歩みの上に主の祝福と守りがありますようにお祈りしています。

今日、選ばせていただいた聖書箇所は、新共同訳聖書では「秤の譬え」、「成長する種の譬え」「からし種の譬え」という三つの小見出しに分かれている箇所です。イエス・キリストはよく譬え話の名人と言われますが、神の国について譬え話を用いて話されています。神の国というと、なにやら天国のようなところを想像されるかもしれません。しかし、今日の箇所を見ると神の国は神の言葉の内にあるということが分かります。今日はこの三つの譬え話を一つのお話しとしてまとめてお話しします。

イエス・キリストは私たちにはそれぞれ自分の量る秤というものがあると言います。この秤は簡単に言えば、私たちそれぞれの判断の基準のことでしょう。イエス・キリストは「何を聴いているのか、注意しなさい」と言われていますので、ここで問われているのは、私たちは神の言葉をどのように聴いているかということです。わたしたちの秤というものは自分たちの心の状態によって均衡を保ったり、バランスを失ったりすることがあります。神の言葉を喜んで聞きたいと思う時もあれば聞けない時だってあるのです。これは人間である以上、仕方のないことだと思います。しかしイエス・キリストはそれによって「持っている者は与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言われます。大変厳しい言葉のように思います。しかし確かに、神の言葉の豊かさはそれに忠実に向かい合うものに豊かになる一方で、聞こうとも学ぼうともしないでそのままにしておくと、いつしかさび付いてします。それによって何が起きるかというと、聖書に期待もしなくなり、信仰さえ失ってしまうと言うことが、私たちの教会生活においてたびたび起きます。これは私たちにも経験があるので、耳に痛い言葉に聞こえるのだと思います。ですから、イエスがこの譬え話でまず語ろうとしていることは、神の言葉をしっかりと受け止ることで、より豊かな意味合いをもたらすことになるということなのでしょう。今日はまずこの譬え話から、まさにそのように神の御言葉に立った人を共に考えてみたいと思います。
実は、今日の西南学院バプテスト教会の礼拝は、10月31日を迎える週にちなみ「宗教改革記念日礼拝」として守っています。10月31日と言えば、世間ではハロウィンとして知名度が高くなり、しかもそれがキリスト教の記念日と言われることもありますが、そうではありません。ハロウィンはケルト民族の死者の祭りです。ハロウィンがキリスト教の行事のように受け取られるようになった理由は、キリスト教がケルト民族に伝わったときに、その民俗風習に土着化したからです。カトリック教会ではその翌日11月1日を「諸聖人の日」として記念しているため、その前夜に死者の魂が帰って来るという、さながら「西洋のお盆」のようになっています。土着化は福音宣教を容易にする一つの考え方です。しかしながらその精神性は伝統文化とはっきりと切り分けられなくてはなりません。キリスト教においては、イエス・キリストの十字架と復活によって死は滅ぼされ、死者は全て神の御許にて永遠の安息を得ているのであり、そこに私たちの希望があることを改めて受け取りたいと思います。

キリスト教会としては、この日をむしろ「宗教改革記念日」として覚えたいのです。1517年10月31日、マルチン・ルターが「95箇条の提題」をヴィッテンベルグ城教会の門に公布したことから宗教改革は始まりました。しかしながら、ルターにとってこの行為は、宗教改革を起こすために行ったのではなく、あくまで聖書の教えと教会の伝統と伝承に対する理性的で知的な問いかけでありました。簡単に言えば、教会の教えつまり伝統的な文化となっていた教えと聖書の教えとでは、どちらに権威があり正しいのかということです。具体的には「免罪符」の問題です。献金を払い、札を買えば罪は赦されるのか。当然教会の教えは聖書に根拠付けられていなければなりません。しかしながら、聖書にそんな根拠があるのかと言うと、そうではありませんでした。にもかかわらず教会はそれを進めていたのです。ルターの問いかけは、これまでなんとなくおかしいよねと思いつつも、暗黙の了解であった教会の共通認識を公にするアンタッチャブルな事柄でしたので、ルターは教会に背く背信者として認識され、破門されることになります。

ルターは破門が言い渡される裁判の席で、自らの教説の撤回を迫られた時、こう語りました。「自分が間違っていることを納得させられない限り、それらが真理であることを否定することは出来ません」。「私の良心は神の言葉の囚人です。わたしは撤回できませんし、その意志もありません。なぜなら、良心に背くことは正しくないし、危険なことだからです。神よ。わたしを助けたまえ。アーメン」。彼は教会や世間からの脅迫や迫害、無理解に負けず、孤独の中にも聖書から自らに与えられた御言葉の確信に立ちました。この時に造られたのが、本日応答賛美として歌う讃美歌377番「神はわが砦」です。世の支配者が吠えたけるなかで、しかしながら神はわが砦として我を守りたもう。この賛美歌は勇ましい歌詞ではありますが、まさに神に寄りすがるより他はないという信仰告白の讃美です。
自らに与えられている確信に立つこと。これは難しいことです。私たちは時々、周りの外圧に負けてしまって諦めてしまったり、しんどくなりそうなときには考えることを止めてしまうこと、どうせ変わらないのだからと他の人たちのいいように任せてしまったりするときがあります。しかし私たちが、この時に心に留めたいのは、やはり私たちは神の言葉に生かされているのですから、この真理を求め、その確信に立って生きることの大切さです。その結果、ルターの聖書信仰と言う真理を探究する姿に多くの人が賛同することで宗教改革がスタートしていったのです。
つまり、信仰的な生き方というものは、どんな迫害が待っていたとしても自分に与えられた確信を捨てることなく、自らの良心に、神が与えられた真実に誠実に生きることであるのです。
反対に興味深く思うのは、教会においても、長らく続く閉鎖的な環境では、聖書に対する知的で理性的なアプローチが失われてしまうことがあることです。「これはこう言うことだ」というような固定化された教えは新たな命をあたえることはできません。時に真理に立たないきわめて横暴な権力によって真実が捻じ曲げられてしまったり、慣れ親しんだやり方が脅かされることを恐れて邪魔者を排除しようとする力が働くこともあるのです。これはユダヤ教がイエスを十字架に磔にした時とまったく同じ構造です。教会にもそのようなことが起きるのです。しかし、私たちが心に留めたいのは、宗教改革が、真理を探求していくプロセスによって、神の御言葉を聴くその秤に従って、教会は変えられ、人は生かされていくということを証明しているということです。
なぜならば、このルターの宗教改革によって、カトリック教会の側にも内側から変革が起こりました。対抗宗教改革と言われることもありますが、カトリックの宗教改革です。恐らくその内部でも変わらなければいけないという胎動が起きていたと言えるでしょう。一つの変化が色々なものの新しい変化を促していくということなのです。

宗教改革のキーワードは「源泉に還れ」ですが、源泉とは聖書のことです。しかし当時使われていたラテン語聖書ではなく、ヘブライ語、ギリシャ語で書かれた聖書に還るということです。つまり、当時使い古されていたような聖書の言葉や教えに立つのではなく、原典に立ち返って自分自身として神の言葉を求めていくこと。果たして「聖書を通して神が言おうとしていることは何なのか」という真理を求め、それに生きていくことが信仰なのだということを教えられます。そのためにルターが密かに進めていたことが「ドイツ語訳聖書の翻訳」でした。それまでラテン語で書かれており、聖職者しか読むことができない聖書でしたが、一般人でも読むことができるようになったことで、神の言葉と教会の行いの乖離が明るみに出たのです。そういう意味で、宗教改革は改めて聖書を読む運動であるのです。私たちもまた、この時改めて聖書を読み、イエス・キリストの福音を受け取り、信仰を深めて参りたいと思うのです。

しかしながら、もう一つのことを次の譬え話から考えてみたいと思うのです。イエス・キリストは「何を聴いているかに注意しなさい」と招く一方で、それができない人々へもしっかりと福音を伝えています。つまり「成長する種の譬え」は私たちが知らない間に成長する種のことです。ですから神の言葉というものは、私たちが自分の事柄としてそれを理解していなかったとしても、私たちの知らないところで着実に根を伸ばし、芽を出して成長するということを語っているのです。この二つの譬え話は両極端のことを言っているように思えます。方やしっかりと注意して御言葉に向かい合いなさい。そうすれば豊かになると言い、しかしながらそうは出来なかったとしても、神の蒔かれた種は、私たちがそれを知らないままにひとりでに実を結ばせるのだと言うのです。この言葉はまっすぐに神の言葉に向かい合えない、あるいは向かい合ってこなかった私たちへの慰めになります。
前回のメッセージの箇所で、私たちは四つの土地に蒔かれた種の話を確認しました。私たちは良い畑ではなく、道端のようなところ、石だらけの畑、いばらが生い茂っている畑かもしれません。しかし、神はそんな私たちを諦めずにしっかりと福音の種を蒔き、それが実を結ぶように待ち続けているのです。その種は、私たち自身が蒔かれたことを忘れてしまっても、諦めてしまっても、私たちの心の奥底でしっかりと、神の時を待っているのです。
三つ目の譬え話は「からしだね」についてです。からし種とは、最も小さな種を現わす言葉ですが、「蒔くと成長してどんな野菜より大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張る」とあります。福音が蒔かれた時、その種は本当に吹けば飛ぶように小さいものです。どこに植えられたかもわからなくなる時もあります。しかしその福音の種は、知らず知らずに成長し、大きく実を結ぶようになるのです。鳥が巣をつくるとはそこに平和が与えられ、憩いを得るということです。マルチンルターのようにはとてもできないと思う私たちには、この福音にこそ希望があるのではないでしょうか。

実は今日の礼拝に参加された方の中に、まさにこの若いときに福音の種が蒔かれ、それが知らない間に成長してきた方がいます。その方は、若いときに西戸崎の米軍キャンプ「キャンプハカタ」のとある家でお手伝いをしていました。その米兵の家族は教会に通っていたので、連れられて一緒に教会に通ったのでしょう。この西南学院教会にもかつて一度来たことがあるようなとおっしゃっていました。しかしながら、近所の人たちからは「アメリカかぶれ」と揶揄されたそうです。その後、結婚をされ、四人の娘さんが与えられました。お仕事や家庭のことで忙しかったのでしょう。また早くにお父さまを亡くされたこともあり、長男として先祖を守るため、家の宗教を守ることになりました。ところが末娘の方がアメリカに渡って、ご結婚され、クリスチャンになりました。その方もおそらく昔のことを思い出したのでしょう。自分もまたアメリカのお嬢さんを訪ねた時に、何十年かぶりに現地の教会に通い始めたそうです。そこで親しい交わりに加えられ、彼はイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けました。博多に帰って来てからも家の近くの教会に自転車で通っておられたようです。今はご高齢になり、自分一人で教会に行くことは出来なくなりました。実はすでに医師から余命宣告もなされています。ご家族が最期の時を考える中で、アメリカのお嬢さんから知人経由で私に連絡がありました。是非父の元に行ってお祈りしてもらえないかということでした。私が初めてその方のご自宅でお会いした時、その方はとても嬉しそうに私のことを歓迎してくださいました。一緒に讃美歌を歌ったり、聖書を読んでお祈りをしました。実はその方が日本で唯一知っている讃美歌が今日最初に歌った「いつくしみ深き」でした。このメッセージを準備する中で、是非今日共に礼拝で歌いたいと思い、急遽、奏楽者に頼んで変えてもらいました。
実はその方は、ご自分が若い時に教会に行っていたということを、これまで家族の誰にも話したことはなかったようです。しかし、今回終わりの時のことを考える中で、自分の葬儀はキリスト教で執り行ってほしい、神さまに見守られて天の国に召されたいと言われ、その後初めてご家族に、先ほど私がお話をしたご自分の若い時のキリスト教との出会いをお話しされたのです。その話を聞いて私もびっくりしましたが、恐らくご家族はとてもびっくりされたと思います。ご家族はお父さんの意志を尊重することを確認し、お父さんのたっての願いで、今日この西南学院バプテスト教会の礼拝にご家族共に出席しておられます。恐らくオンラインでアメリカのお嬢さんも礼拝を共に守っていることでしょう。
私は、本当に不思議な神さまの導きを感じています。今日のこの日にこの聖書箇所が示されたということも不思議なことです。はっきり言えることは、それは人にできる計画ではなく、神さまの計画が成ったと言うことですし、神さまがしっかりと若い時に蒔いた福音の種を見守り続けていてくださったということに他ならないと思うのです。神の恵みと守りに感謝し、共に祈って参りましょう。

関連記事

TOP