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2024年4月14日説教全文「イエスの変容~モーセとエリヤ」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 9章2~8節

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

〇説教「 イエスの変容~モーセとエリヤ 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さんの春の歩みが祝され、心と体のご健康の守りの中で日々を過ごされますようにお祈りしています。

私たちは、イエス・キリストが復活されたことを覚える時期の礼拝を守っています。ヨハネ福音書によると、復活したイエスは40日の間、弟子たちと共に過ごされ、神の国について話されていました。神の国とは、神がおられる場所であり、神の御心がなされ、神の愛が満ちているところです。そしてそれは、神の前に何も誇ることができない私たちに、イエス・キリストによって一方的に差し出されているものであり、私たちの望みに他なりません。弟子たちは、イエスから神の国についての解き明かしを受け、ペンテコステに聖霊を受け、福音宣教に出かけて行くようになりました。これはまさに弟子たちの復活の出来事であり、新しいスタートでした。これを私たちに置き換えるならば、私たちも神の国のみ言葉に聞いて生きていくときに復活という新しい命の出来事が始まっていくのです。私たちも今日、同じように、イエス・キリストの神の国を思い、新しい歩みを始めて参りましょう。

そのために聖書に目を留めていきたいのですが、みなさんはこの箇所を読んで、いったい何をどう受け取るでしょうか。まるで訳が分からないというのが率直なところではないかと思います。聖書は神の言葉と言いますが、実際にはいくら読んでもまったく意味が分からない箇所があります。それは時代性や記述当時の状況や文化的な背景など様々な理由がありますので、仕方ないと思いますが、「突然イエスが光輝く白い姿に変わり、既に亡くなっているはずの出エジプトのリーダー「モーセ」と預言者「エリヤ」が現れて、共に語り合っていた」。なんてどのように受け止めればよいのでしょうか。何を話していたのかも気になりますが、これは私たちの頭の理解を超えた出来事だと思います。もちろん神の出来事だと言えばそれまででしょう。この箇所はいったい何を言おうとしているのでしょうか。

今日は、私がこの箇所を黙想する中で与えられたことを「イエスの変容-モーセとエリヤ-」と題してお話ししたいと思います。変容と言う言葉は普段あまり使わないと思います。ギリシャ語ではメタモルフォーゼの語源になった言葉で、単なる外面の「変化」ではなく、蝶々が青虫からさなぎになって飛び立っていくように、内なる質が変わっていくことを現わしています。つまり、人の子として生まれたイエス・キリストが神の子の性質に戻るというようなイメージだと言えるでしょう。聖書には数多くの奇跡がありますが、その中でも際立って不思議です。というのはイエス・キリストの奇跡は病気の癒しであったり悪霊の追い出しであったり、パンを分かち合いもそうですが、基本的には人との出会いの中で起きる奇跡の業であるからです。
ところがこの「イエスの変容」は人は誰にも関わらない奇跡と言えます。脈絡もよくわかりません。そうであるにもかかわらず、重大事件のように書かれています。ペトロが「仮小屋を作りましょう」などと、とんちんかんなことを言っているのも無理はないと思います。聖書には正直に「彼はどう言えばよいのか、わからなかった。非常に恐れていたからである」と書かれていますが、神的な出来事というものはそのまま見ても理解することは困難なのだと感じます。実際、今日は触れませんが、この出来事が多くの画家のインスピレーションを刺激して、多くの作品が造られています。

しかし仮にここで言おうとしていることが、もし「イエスの神としての性質の自己顕現」であり、先週の箇所であったように、メシア(救い主)に対する「弟子たちの無理解」のコントラストであるとするならば、モーセやエリヤまで出てくる意味が分かりません。やはりこの出来事にはもっと大切なことが隠されているのではないかと思います。聖書を読む時に注意したいことの一つは、不思議な描写によって色々な想像が掻き立てられてしまいますが、本当に大切なことはその出来事に込められている神のメッセージに心を向かわせることです。
実はこの今日の箇所は、イエスさまがエルサレムで苦しみを受けて殺されるという受難予告の後で起きています。しかも9章30節以降には二度目となる受難予告があります。つまり受難予告に挟まれた箇所であるのです。6日の後にとあるのは、つまり最初の予告から7日目の出来事であるということです。その日イエスさまはペトロとヤコブとヨハネを連れて高い山に上られました。山は聖書では神と出会うことができる場所です。その山で唐突にイエスの姿が変わり、福は真っ白に輝き、どんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなったというのです。

本当に不思議なことが起きるものです。でも実は今日は読みませんでしたが、イエスがこの出来事のあと「今見たことを話してはいけない」と弟子たちに命じています。その「今見たこと」という言葉は「幻」を意味する言葉ですので、恐らくは幻の内に見たと言うことなのだと思います。幻であることは大切です。何故なら幻とは神によって見させられる神のメッセージであるからです。では神は何を伝えようとしているのか。それがイエスさまはモーセとエリヤと何やら語り合ったことにあります。モーセとは出エジプトの指導者ですし、律法授与者です。そしてエリヤとは北イスラエル王国で異教の神々と対決することで活躍した預言者ですから、これは旧約聖書登場人物のトップ会談とも呼べるものです。残念ながら何を話していたのかはわかりません。

ところがなんとペトロが突然口を挟みます。本当に空気を読まないと言うか恐れを知らない人だと思いますが、「仮小屋を三つ作りましょう」と言うわけです。仮小屋というのは天幕のことですから、いわゆる礼拝所です。ペトロは恐らく、イエスさまが旧約聖書の大人物であるモーセとエリヤに並んだことを喜び、あなたがたを記念するために礼拝所を作ると言い出したのです。彼は何故そんなことを言ったのでしょうか。彼は「わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」と言っていますので、彼はその場に自分が居合わせることが許されたことで有頂天になっていたのかもしれません。確かに、そんな席に自分が選ばれていれるとしたらそれはこの上なく名誉なことだと思います。

ところが、そんな舞い上がっているようなペトロの言葉をよそにして、雲が彼らを覆い声が聞こえるのです。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。雲とは神の臨在を現わすものです。例えば雲は出エジプトの時には、雲の柱と火の柱となってモーセを導きました。またエリヤの時は、大干ばつが預言されました。これは雲が起こらず雨が降らないということです。その後バアルの預言者との対決を経て再び雨を降らせる預言をした時に、雲が昇って来てイスラエルに激しい雨を降らせました。つまり雲は私たちを導く存在であり、恵みを与える存在であります。その雲から聞こえた声が「これにきけ」というのです。つまりイエスに聞くということです。

やはり、私はここにポイントがあるのだろうと思います。つまり、「変容」という出来事自体は一つの象徴ではありますが、むしろ大切なのはイエスに聞くということなのです。私たちは出来事に心が取られると、これを記念しようとします。ペトロは三つの礼拝所を作ろうと言いました。しかし礼拝所を作るということは、聖地を作ることに他なりません。実はモーセとエリヤに共通していることがあります。それはお墓がないことです。モーセは約束の地を見張らせるネボ山の上で死にましたが、具体的な場所は記されていません。エリヤは火の車に乗って天に帰ったと聖書に書かれています。もし彼らの墓があれば、そこは聖地になっていることでしょう。そしてそこで聖地を巡礼して礼拝をすることが信仰生活のようになってしまうかもしれません。実にイエスさまが変容した山はタボル山と言われており、現在そこには「キリストの変容教会」が立てられており、まさに聖地化しています。しかし果たしてそれが本当に神の御心だったのでしょうか。本当に大切なのはその出来事を記念して礼拝堂を作ることなのではなく、そのイエスさまの言葉そのものに聞いて生きていくということなのだと思うのです。

そのように考えるならば、モーセとエリヤがここに現れた理由は、はっきりしてきます。モーセが律法の象徴であるとしたら、エリヤは預言の象徴です。律法は人が神の民となり正しく生きていくために与えられた神の教えです。そして預言とは神の隠された計画を指し示す言葉であり、人々の生き方を悔い改めに導き、困難の中に生きる人々には勇気と希望を与える言葉です。これらは信仰生活を送る上で大切な教えです。しかしそれらは、時に戒律になりやすいのです。「こういう風に生きなければならない。これを守りなさい。こうしたら神はこうしてくださる」。或いは「あなたがこうなったのはこれこれをしなかったからだ」。律法と預言は力強い言葉であるがゆえに「戒律」となりやすく、形だけになりやすいのです。神の教えと預言がいくら良いものだと言えども、その言葉は意図とは違う形で私たちに響いてしまうことがあります。

しかし神はいまやそんな律法や預言ではなく、イエスに聞けと言うのです。イエスとは福音です。つまり、福音とはモーセの律法やエリヤの預言に勝るものである。その福音とは、わたしたちをそのまま愛し伴い、私たちのいのちを全肯定してくださる福音です。イエスはそんな私に従いなさいと言われます。それは福音に生かされて行きなさいということです。

その福音とは、実に変容の出来事とは正反対に、イエス・キリストが神の子でありながら人の子として私たちのためにお生まれになった受肉の出来事、神が私たちと共におられるという約束そのものによって示されています。これは受難予告の間に挟まれていると言いました。つまり、イエスわたしたちの罪をも受け入れて、私たちを愛しぬくためにご自分の命を与えてくださるただ中に私たちがいるということ。これが私たちに与えられている福音です。私たちはここにこそ心を留めたいのです。
私はこの時イエスの顔が輝いたというのは、イエスだけに使われる特別な言葉なのではないと思います。むしろイエス・キリストの言葉によって生かされていく時に、私たちの表情に希望が与えられ、また生きる力が与えられ、光り輝いていくということなのではないでしょうか。しかも、ここで神が語っている言葉「これは私の愛する子、私の心に適う者」とは、イエスがバプテスマを受けた時の言葉と同じですが、これはイエスさまにだけ語られる言葉なのではなく、イエスをキリスト、私の救い主として信じて告白をして生きるものすべてに神が語られている言葉なのではないかと思うのです。

つまり神は、こう言っているのではないでしょうか。「いまやあなたがたのただ中に、モーセやエリヤよりまさるキリストが生きているのだ。その言葉を信じ、その伴いの中をこれからも歩んでいきなさい。それはあなたがたの命がそのいのちの輝きを大切に生きていくためにあなたに贈られた神の愛そのものなのだ」。神でありながら人の子として生まれたイエスを、また神の子にして崇め奉ってはならないのです。むしろイエスの福音によってイエスと共に生きていくことこそ大切なのです。

私たちはペトロのように律法も預言も福音も同じ神の言葉として同列に扱ってしまうことがあります。聖書なんだからどれも一緒でしょと思うでしょうか。しかし、神はその三者を同列にするのではなく、共に並べたうえで、福音にこそ聞けと言うのです。もちろん律法と預言は旧約聖書の神の言葉です。しかし私たちが、今、最も目を留めたいのは今を生きている私たちに与えられている福音なのです。そして福音こそがは律法を完成させるものであるからです。預言も同様です。預言は神の愛を語るものであるからです。そして実に福音は体験的なものです。イエスはヨハネ5:39で「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書は私について証しするものだ」。と言います。まさにそういうことなのです。つまり今日の箇所で大切なのはイエスさまの神格化ではなく、神であったイエス・キリストが人となって私たちのところにやって来られたことなのです。そしてその福音が一方的に私たちに今与えられているということであり、その福音に生かされていくことがやはり大切なのです。

わたしたちには世で多くの困難があります。一人一人それぞれ固有の困難を抱えています。「この杯を取り除けてください」と祈ることもあります。人に話すことができない悩みや痛みを持っている方もおられることを知っています。でも、そんなとき私たちが心を留めたいのは、イエスはそんな私たちのところにおりてきて下さり、私たちの痛みを知り、共に生きて行こうと招いてくださっているということです。イエスさまは私たちを見放すことはありません。そして私たちはこのイエスを信じる時に、新たな力を頂いていくことができるようになります。

今、私たち共に礼拝を守る方々の中には、新たな思いで信仰生活を始めようとしている方々がおられます。その方々に主の祝福がありますように祈ります。また、それぞれの新しい思いを心に秘めつつこの時を過ごしている方々もおられます。その方々のために祈ります。そして私たち一人一人もこの神の交わりの中で新たな力を頂いています。互いのために祈りつつ、この時を過ごして参りましょう。

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