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2024年6月2日説教全文「仕えられることより、仕えることを」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 10章35~45節

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」。ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

〇説教「 仕えられることより、仕えることを 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さまの今週の歩みが主の恵みと守りの内に、良き日となりますようにお祈りしています。

本日の西南学院教会の礼拝には、近隣のミッションスクールを始めとする多くの方々が集まってきています。多分皆さんそれぞれの感覚では自分たちが集まったという認識だと思いますが、実は礼拝は神の招きによって始まるものですので、私たちは知らず知らずのうちにそれぞれの場所から神に招かれて今日、この場に集められています。教会の礼拝は、学校の礼拝とは異なり、様々な年代層の方々が集まっています。そしてここには何十年と信仰生活をしてこられた方々と、信仰とはどういうものかということを尋ね求めながら来られている方々、また初めて教会に足を踏み入れられた方もおられます。私たちにはそれぞれの理由や選び取りでこの場に来ていますが、全てが神の招きの内にあります。是非この時を神に向き合う時として大切に守り、神への祈り心と、神の言葉を吟味してまいりましょう。
早速今日の聖書箇所に入ります。今日の場面はマルコ福音書10章35節からのお話ですが、ユダヤの北部ガリラヤという地域で宣教活動していたイエス・キリストがいよいよエルサレムに上っていく旅の途上でのお話です。今日の箇所の次の場面は、いよいよエリコというエルサレムに向かう最後の町に到達し、エルサレムに入る最後の出来事を共に読みます。ですから今日の箇所というのはいわば、ゴールを目前に控えているような状況、恐らく弟子たちにもついにここまで来たかというような喜びと言うか高揚感、そして緊張感というものがあったということをまずお伝えしておきます。

そんな中、イエスのところにゼベダイの子ヤコブとヨハネがやってきました。彼らはイエス・キリストの側近中の側近であり、筆頭弟子のペトロと共に三大弟子に数えられる人物です。元々ガリラヤ湖の漁師であり最初に弟子になった4人の内の二人です。彼らはイエスのもとに進み出てこう言います。
「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。こういう言い方に、かしこまったというか改まった彼らの姿勢が感じられます。イエスもまたただならぬ気配に「なにごとか」と思ったのでしょうか。「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。

この願いと言うのは、とても分かりやすい彼らへの処遇についてのお願いです。実はイエスがエルサレムに向かっていた理由について、弟子たちはイエスがエルサレムに入って王になると信じていました。無理はないと思います。彼らはイエスといつもいました。彼らは、イエスのもとに常に助けを求める人々、癒しを求める人々、生活に困窮している方々、罪びとと言われ苦しんでいる方々が来ていたことを知っています。そしてイエスはそういう人々に対して、癒しを与え、解放を与え、食事と共に御言葉を与え、赦しを与え、共に生きて行こうとされました。弟子たちは彼らがイエスに出会って、救われた姿、喜びに変えられて行った姿を見ているわけです。ですから当然弟子たちもまた周りの人々からお礼を言われていたでしょう。弟子たちもまたそういうイエスの弟子に選ばれ、招かれていたことを誇りに思っていたのではないかと思います。一つ一つの出来事が起きるたびに、「イエスさまはすごい。イエスさまについていけば間違いはない」と信仰を深くしたでしょうし、喜びと感謝に満ちていたのではないかと思うのです。そしてエルサレムでも人々に歓迎されるに違いないと思っていたと思うのです。何故ならこの方こそ、確かに聖書に預言されているメシアであるし、その方がエルサレムに入ったらまさに神の子として迎えられるべきであると信じていたからです。

だから、こういう願いを言ったのでしょう。「あなたがエルサレムに入って、人々から栄光を受け、王位に着かれたら、是非私達二人を右の座と左の座に座らせてください」。つまり、イエスさまに次ぐ権威や栄光を私たちに与えてくださいと言うのです。しかも、それは他の弟子たちを外目に置いといて、特別にわたしたちを取り上げてくださいと言うことです。彼らの言い分には、わたしたちは最初っからあなたに従ってきたのだから他の弟子たちよりも相応しいと思うし、しっかりと報いて労ってください。ちゃんと評価してご褒美をください。そう約束してくれたら私たちはもっと忠実にあなたに仕えます、という思いも込められているかもしれません

もし仮に、皆さんがイエスさまの弟子たちであったらどうでしょうか。「私たちはイエスさまの活動の最初からイエスさまに仕えてきた。一緒に旅をしたし、一緒に色々な出来事を体験した。船旅もしたし、荒れ野を歩き回ったこともある。大変なこともありました。でもそれは全てあなたが行けと言ったからですよね。そうであればやっぱりしっかりと報いてくださいね」。と言いたくなる気持ちはあるのではないでしょうか。これはある意味普通のことだと思います。働きには対価がつきものですし、評価されるとより嬉しくなります。イエスもまた「働く者が食べ物を受けるのは当然である」。(マタイ10:10)と言いますし、イエスの弟子の一人である使徒パウロも「働く者が報酬を受けるのは当然である」とテモテの手紙で書いています。

ヤコブとヨハネが、自分の願い通りになるかどうかはさておいて、彼らが自分たちの処遇についてイエスに求めるのは、そんなに不思議なことではないようにも思えます。ちなみに、マタイ福音書の平行記事(20:20-28)では、実はゼベダイの子の母、つまりヤコブとヨハネのお母さんが登場して、イエスに「あなたが王座に就くときには私の二人の息子を右と左に座らせてください」と言わせています。こうなると少し違う印象になります。これは母の願いという形になるからです。でも、この場合でも彼らはまんざらじゃなかったように、「私の杯を飲めるのか」と聞かれた時「飲めます、できます」。と答えているからです。もちろん、母や父が自分たちの子どもに願うものはあるでしょう。「目をかけてやってくださいよ、先生」という感じにも聞こえるでしょう。その気持ちは無下にはできませんし、子を思う親の尊い気持ちだと言うこともできます。

しかし、ここで根本的に間違っているのは、彼らが「イエスが受ける栄光」というものを全く誤解しているということにあります。イエスは実はここに来るまでに3回、弟子たちにエルサレムで殺されることと復活することを伝えています。しかし、彼らはそれをまったく気にしないようにして、自分たちがもらえる褒賞にばかり目が行っているように思えるのです。

ちなみに、それを誤解しているのは、この二人の弟子たちだけではありません。他の弟子たちも、ヤコブとヨハネがイエスさまにお願いをしたことを聴いて、腹を立てています。多分彼らも心の奥底では抜け駆けをされた、許せん、とかそういうふうに思っていたということなのでしょう。

このように見ると、人間という存在はどうしても名誉欲、権力欲、そしてそのようなものを与える地位やタイトルというものから解放されることは難しいことだと言えるのかもしれませんでも、確かにいますよね。人によってはそういうものに露骨に固執しすぎてまるで執念のように感じられる方もいます。しかしながら、そういうものを願い求めている内は、イエスさまの御心や御言葉というものがまるで分かっていないということを明らかにしているようにしか思えません。さらに言えば、そういう方は、そのような地位が褒賞としてもらえるからこそイエスさまに従ってきたのではないかと言う風にも思ってしまうのです。

実は、そのような弟子たちの浅ましさ、あるいは人間的な思いというものがイエスの思っていたこととどれくらい違ったかと言うことについて、私たちが続けて読んできたマルコ福音書はあからさまに語っています。マルコ9章33節より「誰が一番偉いか」ということばかりを気にしていたり、正しく生きてきた金持ちが天の国にはいれるわけではないということを聴いて驚いていた弟子たちに対して、イエスが繰り返し伝えていることは、「いちばん先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい」ということや「一番偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と言うのです。イエスはそのことを繰り返し繰り返し語っているのに弟子たちはわかっていません。弟子たちが求めているようなことを、イエスは今日の箇所で「それは異邦人の間で支配者と呼ばれる者たちが求めているものだ」、思い違いすんな、とばっさりと断罪しています。

イエスが言っているのは、まさに受けることより与えることが幸いなりということ。それをこそ、イエスの出来事としてこの福音書は語っているのです。私たちは、この言葉をどのように受けるでしょうか。私たちは、この言葉を、自分の事柄として振り返ることが大切です。
フィリピの信徒への手紙2章6-9にはこうあります。「イエスは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。これが神がキリストを通して教えている、私たちの歩む道なのではないでしょうか。

今日の説教題は、「仕えられることより仕えることを」とさせていただきました。巻頭言には少し書かせていただきましたが、このテーマは、アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」から取らせていただきました。
「神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから」。

この歌は、聖フランシスコの「平和の祈り」と呼ばれていますが、元々はフランシスコに遡るものではないようです。しかしながらこの祈りは、多くの方々の心を打つものであります。それはこれがイエス・キリストの歩みそのものであり、私たちが生きていく道だと思うからでしょう。

「平和」というと私たちは一直線に戦争の終結とか紛争の和解とかそういうことを考えてしまいます。しかし「平和(シャローム)」というものは、争いや困難がある中で、神の御言葉に生かされることです。争いが絶えない中だからこそ、この歌詞が私たちに響くのです。そしてその争いというものは、権力争いであり、正しさの競い合いであり、果てのない破壊、富や人命の奪い合いによって行われるものであります。神の国、というものはそういうものによって成り立つものではありません。
徹底的に人に仕えていくときに、人々との関係性の只中に成り立っていくものが、イエス・キリストの神の国です。人に仕えるとは何か。それは人々のことを考え愛を注ぐことから始まる営みであり、その人のために生きることであります。「良きサマリア人の譬え」では、自分のことと、相手のことを天秤にかける人がいる一方で、自分の事柄として相手のことを考えていくことが、「隣人になることだ」とイエスは言います。平和とは、愛によって造られるものです。み言葉を聞いて終わってはなりません。み言葉を聞いて行って生きていくことがより大切なのです。
「仕えられるよりも、仕えること」を求めて生きる。これが、より大切な人間の生き方なのです。そしてそれをいのちさえ惜しまず歩まれ、人の生きるべき道を教えたのがイエスです。このイエスを見て、これからの時を歩んでまいりましょう。

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