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2024年7月14日説教全文「全ての人の祈りの家として」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 11章15~19節

それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである』。/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」。祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

〇説教「 全ての人の祈りの家として 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今日はこの時期一番の大雨の日です。今週中には梅雨明けとなりそうですが、その後は本格的な暑さがやってきます。年々、全国的に気温が上昇しています。皆さまのご健康が守られ、今週の歩みの上に主の恵みと導きがありますようにお祈りしたいと思います。
本日の礼拝は、久しぶりにマルコによる福音書からお話をします。前回マルコからお話ししたのは6月16日の礼拝です。その日の聖書個所は11章1-11節。イエス・キリストが神の都であるエルサレムに入られた出来事、いわゆる棕櫚の主日と呼ばれる日の話をしました。今日の箇所はイエスがその後エルサレム神殿に入られたときのお話です。この箇所は先ほど子どもメッセージでもお話しいただきましたが、「宮清め」と呼ばれます。何故そのように呼ばれるかというと、神殿の境内で売り買いしていた人々をイエスが追い出したことが、神殿を清める出来事として受け止められたからです。
しかしながらこの出来事は、イエスの行いの中で最も感情的な振る舞いをしているように思われる出来事です。人々を追い出し、椅子をひっくり返したとあります。ヨハネによる福音書の並行記事によれば、縄で鞭を作って人々を追い出していますので、ともすれば暴力行為、傷害事件にも思われかねない出来事です。今日はこの箇所からなぜイエスはこのようなことをしたのかということ、そしてその行動の背後にあるイエスの思いを、「『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである』。/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」という言葉から考えていきたいと思います。

実はこの「宮清め」の出来事は、4つの福音書すべてに記載されている出来事ですが、聖書を見てみると、色々な違いがあります。例えば、マタイとルカの福音書では、イエスさまがエルサレム入城後すぐに神殿に参拝し、この出来事が起こったかのように書かれています。私たちの頭の中にも、時系列的にはすぐに行ったかのようにインプットされているのではないでしょうか。しかしながらマルコ福音書をよく読んでみると、実はそうではないことが分かります。11節には「こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた」。つまり、イエスはいったん神殿の様子を見て回った、つまりそこで両替人や鳩を売る者の振る舞いを知っていた上で、何もせずにその日はベタニアという村に出かけて行っているのです。もし宮清めがイエスの感情的な心の騒ぎによって起こったものだとしたら、その光景を見ていたその日にその時に、まさにマタイとルカが書いているように起こっていたでしょう。
しかしながらマルコではそうではありません。いったんそれを見て次の日に宮清めをしたと言うことは、これは計画的で象徴的な行為であったか、それともその一日の内に、そのように思うようになるきっかけ、あるいは理由があったと言うことになります。

私はこれは象徴的な出来事であり、かつイエスがベタニアに向かったということがきっかけであったと考えています。実はマルコ福音書に特有なことに、イエスはベタニアに向かい、そこで夜を明かしています。ところが12節には不思議なことが書かれています。12節「翌日、一行がベタニアを出る時、イエスは空腹を覚えられた」イエスは何故空腹を覚えていたのでしょうか。普通だったら朝ごはんをいっぱい食べて、さあ出掛けようとなるのではないかと思うのです。しかし、そうではありませんでした。実はベタニアという名前には「貧しい者の家」という意味があり、エルサレムから東へ3kmほど離れた場所にあります。ですから光り輝く宗教的シンボル聖地エルサレムのほど近くと比べて陰に潜むスラム、貧民街であったと言えるでしょう。
その町でイエスは空腹を覚えられました。食べるものがなかったのでしょうか。必ずしもそうであったかはわかりません。むしろイエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言っているように、ベタニアでみ言葉が行われていなかったということへの飢え渇きを覚えたと言うことかもしれません。つまりイエスはベタニアの町の貧しく困窮した在り様を見た時に、前日に見たエルサレムの華やかな世界と比べたのではないかと思うのです。まさに光と影のような関係性がある。そして本来であれば神殿は、そのような影に住むような人々に食べ物を与え、そのような境遇から救い、共に生きていくための神の宮でなければいけない。しかしながらそうはなっていなかった。むしろ神殿の境内を賑やかにしているそういう商人たちの姿が、貧しき者たちを遠ざけている。貧しい者が神殿に自由に入れなくなっている要因になっている。商人たちは、強盗のように神殿に乗り込み、我が物顔をしている。このような有様を見て、イエスは心の飢え渇きを覚え、ベタニアの人々のことを深く憐れみ、商人たちを追い出したのではないでしょうか。

この商人たちが暴利をむさぼっていたのかはわかりません。おそらくはそうなのだと思います。本来であれば、その両替商や鳩を売る者たちの存在というものは、様々な地方からエルサレムにやってくる礼拝者への配慮、神殿に献げ物をしやすくするための配慮でありました。過越祭とは、ユダヤの人々にとって最も大切にしているお祭りの一つでした。そうした時には、それぞれの地方から神殿への巡礼者が多いのです。しかしながら彼らも家から動物を連れて来ては大変です。途中で逃げられてしまうかもしれません。そういう煩いから解放するために、通常の金額よりは少し高いかもしれないれど神殿で鳩を販売していたのです。皆さんでもお金に余裕が少しでもあればそういう選び取りをするのではないでしょうか。両替も同じです。神殿に献げられる貨幣は決まっていたので、両替が必要になりました。神殿で捧げるのであれば、そこで両替できれば便利だと思います。

しかしながら、そういう献げもの、あるいは献金というものを富める者も貧しき者も律法に決まっているからと一律にしなければいけないという形になってしまうと、そういう持ち合わせがない人々は神殿に行っても礼拝させてもらえない、行きづらくなってしまうということがあるのです。わたしはそれが、イエスのこの言葉に現れているように私には感じられるのです。
「私の家は全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところがあなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」。これは商人たちに対するイエスの怒りの言葉というよりも、神の御心を求めようとしない形式的な信仰。他者性の欠如、他人に無感覚になっている愛のない神殿体制そのものへの嘆き、あるいは憤りの言葉のように感じられるのです。実にイエスがこのベタニアから出てくるときに呪った「いちじく」が現わしているのは、まさに見せかけは良いけれど内容は伴っていないユダヤ教の体制の問題であると言われるのです。

それでは、イエスが思い描いている神殿と言うのは、どういうものなのでしょうか。キーワードは「私の家は全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」。という言葉だと思います。実はこの言葉はイザヤ書57章7節の引用です。7-8節をお読みします。

「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と」。

このイザヤの預言は、異邦人や宦官など、律法において主の民に加わることができないとされていた人々を、神は加えて集めようとされているという文脈があります。まさに神がイスラエルだけではなく世界の全ての民の神であるという広がりのある言葉です。焼き尽くす献げものといけにえと言うのは端的に言えば神への献げものですが、今日の文脈で言えば、それが祈りであると言えます。

ここでは、祈りとはギリシャ語でプロセウケーという言葉が使われています。エウケーだけでも祈りと言う意味になりますが、プロスという方向性を表す言葉(英語ではtowards)がくっついています。つまりすべての人が祈りに向かっていく家が神の家、神殿であると言えるのです。それでは祈りとは何でしょうか。先ほどの焼き尽くす献げものといけにえという言葉で考えてみましょう。

旧約聖書詩編51編18-19にはこう言う言葉があります。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」。
いけにえ、焼き尽くす献げものと言うのは、「もの」ではなく本来は「自分自身の心」であるのです。ホセア書6章6節にはこう言う言葉もあります。
「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」。

つまり、イエスの祈りの家とは、物が献げられる形式的な礼拝ではなく、私たちが神に向かい合い、その心をまっすぐ神に向け、祈りをささげることなのです。そしてもう一つ言えば、そのように神に心を向けて、祈り願ったものは全てすでにかなえられたと信じ、喜びと感謝を持って歩むこと。これが本来、神が願っている「祈り」であるのではないかと思うのです。先ほどお読みしたイザヤ書の箇所は、神は、そのように神を求めて生きて行こうとしている者を、どんな人々でも招き入れる方であるということが言われているのです。それが「全ての国の人の祈りの家」であるのです。

このイエス・キリストの思いは、私たち自身の事柄としても考えることができます。私たちの献げている礼拝は、本当に自分たちの心を神に注ぎ出し、神に向かって歩み、神の言葉から喜びと感謝をいただく信仰生活を歩んでいるでしょうか。惰性で礼拝には来ていないでしょうか。それはあまりにももったいないことです。私たちの心にある思いを全て神に委ね、神の言葉に信頼して歩み出すこと。これが私たちの礼拝です。そして私たちは、このような生きた神との交わりに招き入れられているということに心を留めたいと思うのです。

またそのために、私たちは、イエスの言葉に問われていかなければ行けません。私たちの教会は、本当にすべての国の人、あらゆる性質を持った人々が共に集うことができる礼拝、教会になっているでしょうか。どこか自分たちだけで良いやと閉鎖的になってしまってはいないでしょうか。或いはどんな人が来ても良いけど、自分には関係ないと思ってはいないでしょうか。私たちは神の御心が為されることを共に祈り求めて参りたいと思います。もちろん、すべての人々に開かれて行きたいと願うわけですが、限界はあります。全てのことができるわけではないでしょう。しかしながら、今ここにきている人々が自分の礼拝ができているか。あるいは教会は自分も隣人も受け入れられていく交わりになっているか。私たちがお互いを受け入れているかということは考えて行かなければなりません。

少し話がそれますが、今私は日本バプテスト連盟の国外伝道タスクチームのリーダーをしています。これはごく簡単に言えば、これからの連盟の国外伝道の在り方を考え、作り上げていく委員会です。今私たちが考えていることは、この聖書個所と同じことです。つまり、今私たちは誰と共に礼拝しているかと言うことです。私たちが生きている社会は、昔は国内国外と分けていましたが、今はそれが分けられないくらい繋がりを持った社会です。私たちの教会にも色々な文化を背景を持った方々が集っていますし、そもそも私たちの教会もまた宣教師を始め多くの方々の影響を受けて成り立っています。様々な出会いによって私たちは変えられてきていますし、これからも変えられて行きます。それはその交わりの只中に働く神の言葉が私たちを動かしていくからです。同じ言語、同じ文化、同じ思想を持っていることは共同体となりやすいですし、楽です。価値観も似てきます。しかしながらそういう共同体は違うものを排除してしまうことが起こるものです。だからこそ、私たちは自分とは異なる質を持つものと共に生きていくことが大切なのです。

この世界は、まさに神の造られた世界であり、私たちはそのような世界の中で神の言葉を受けて共に生きていくことが期待されています。それは、まさにそのような世界の中で隣人になっていくことが求められていることなのです。まさに「神の国は、そこにあるあそこにあると言うものではない。神の国は、あなた方のただ中にあるのだ」という言葉の通りです。それがイエスが歩まれた歩みであり、私たちに託されている福音宣教の使命なのです。この教会が「全ての国の人の祈りの家」となるために、イエス・キリストの御言葉に心を留めて歩み出して参りましょう。

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