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2024年7月21日説教全文「祈るものは既にすべて得られたと信じなさい」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 11章20~25節

翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」。そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。

〇説教「 祈るものは既にすべて得られたと信じなさい 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。先週は大雨の日曜日でしたが、ようやく梅雨が明け、本格的な夏となりました。年々、全国的に気温が上昇しています。皆さまのご健康が守られ、今週の歩みの上に主の恵みと導きがありますようにお祈りします。

今日はメッセージに入る前に、少しだけお話ししたいことがあります。先日13日(土)アメリカのペンシルベニア州で選挙活動中の前大統領の大統領候補者が狙撃されるというニュースがありました。狙撃犯はその場で射殺されたため、犯行動機は現在のところ解明されていません。目下捜査中な事柄については発言を慎まなければならないと思います。またこれは政治的立場から発言したいわけではありません。私たちが共有したいことは、どんな理由があったとしても暴力を持って人の命を奪うことは許されないということに改めて心を留める必要があります。神は、モーセに与えた十戒の中でこう教えています。「殺してはならない」 (出エジ20:13) 。イエス・キリストもこう言っています。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣によって滅びる」(マタイ26:52)。
このように教えたイエスは、人間によって十字架に磔にされました。まさに暴力と罪の極みです。そこには深い神の計画があったと聖書は語りますが、事実上人間が彼を十字架に即けたのです。しかしイエスはそのような人の罪を赦し、復活の命へと導かれました。私たちはそのイエスの赦しを受け救われている者として、もう二度と同じ過ちを繰り返さないように福音に生かされる必要があるのです。もちろん人間関係には様々な不和が起こり得るわけですが、これは人が人として生きる上で、最も基本的で守らなければならない教えだと改めて心に留めたいのです。

人間社会を健全に安全に生きて行けるように回しているのは、政治という力です。それは個人の力を自治をする組織に委ねることから始まっています。しかしながら、それは多くの場合、持てる者が持たざる者に力を行使する構造が一般的になっているように感じます。その中で例外なのが、今回のケースのように持たざる者が暴力をふるうことです。私たちはこのニュースに触れた時、2022年7月8日に起きた元首相の銃撃事件を思い返したのではないかと思います。その犯人については、新聞やテレビの報道によってその背後に抱えていた闇が明らかになりました。もちろん、そのような問題があるからしょうがないと言いたいわけではありません。しかし、本来はそういう様々な抑圧や苦しみから人を救うものが大切なことであり、神が願っていることなのではないかと感じるのです。

もう一つ考えたいことがあります。今回の事件を受けて、アメリカの福音派と呼ばれるキリスト教のファンダメンタルなグループ、いわゆる聖書は一言一句誤りがないと考える人々の中には、暗殺から守られた者を「神が祝福している」など、まるで「メシア」のように神格化しているというニュース記事がありました。果たしてそれはどうなのでしょうか。本当に聖書的なのでしょうか。

銃撃から逃れられたのは、神の祝福があり神が守ったからだとしたら、その銃撃によって殺されてしまった参加者の一人については神が守っていなかった。祝福されていなかったということになってしまうのでしょうか。私たちにも色々と思ってもみない出来事、不幸な出来事というものが起こります。それは神が守ってくれていないから起きることなのでしょうか。成功は祝福で失敗は裁きだ。守られたら神がいるからで、守られなかったら神がその人にいなかったのだ。時々、私たちはそのように安直に考えてしまいます。しかし聖書が言おうとしている神の祝福、あるいは神の伴いとは、本当にそういうものなのでしょうか。それには断じて違うと言わなければなりません。実は、神のルールを守り、正しく生きた時に神様が祝福を与えてくださるという考え方はむしろ、律法主義者の考え方です。それはイエスが教えられたことではありません。それは神の祝福や恵みを安易に考えることであり、無垢で無邪気な考え方であり、時に人を裁く剣になるものです。それは神の無条件の愛に対する大いなる誤解であり、かつ神の御心を無視した成功報酬的な偶像礼拝に近いものです。神の愛とはそんなお粗末で陳腐なものではないのです。
イエスはむしろこう教えています。「父は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」 (マタイ5:45) 。つまり、神の恵みは等しくすべての者に注がれていると言うことです。これが神の愛なのです。そしてイエスはまさにそのように生きられました。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9:13)神の子と呼ばれたイエスがなしたこととは、正しい人、まっすぐな人、幸せな人たちをさらに称賛するためではなく、むしろそうはなっていない現状に打ちひしがれ、なやみ、立ち上がることさえできない人たちを慰め、神が共にいるという希望を示し、言葉と行いを通して力を与えることであったのです。神の祝福とは、まさにイエス・キリストを通して、小さくされた者たちを守るために与えられた恵みであるからです。

だから私たちはこういう神の恵みが安直に語られる時代の中でこそ、神の子と呼ばれたイエス・キリストが果たして何を語ったのか、どう生きたのかと言うことに目を留めることが大切です。それは、いわゆる「キリスト教ってこういうものだよね」という通説のようなものを受け入れるのではなく、あるいは誤って語られる価値観に乗ってしまうのではなく、実際に自分自身の出来事としてイエスの言葉に向かい合っていくことが重要です。そうしないと私たちの信仰審は簡単に流されてしまうのです。

今日私たちはそのようなことを考えつつ、聖書箇所を読んでみたいと思います。ポイントは「祈り」です。私たちは「祈り」についてどう考えているでしょうか。これは今までお話ししてきたことととても重なります。「神さまに祈っているのに、神さまは私の願いを叶えてくれない」と思うことがあります。それは私たちの信仰が足りないからなのでしょうか。祈りが聞かれる人は祝福されている。祈りが聞かれないのは祝福されていないからだと思ったりしてしまうことがあります。でもそれは、実は祈りを「自分の願望実現のための装置」と考えていることに他なりません。
祈りとは本来そういうものではありません。祈ることさえできないような不信仰で無力な私たちに、神が寄り添ってくださるからこそ私たちは「祈り」へと導かれるのです。祈りとは、私たちの心の内実を神さまに打ち明け、神さまが聞いてくださったことを信頼して、歩み続けることです。その時に私たちの心に与えられるのが、「希望と平和」なのです。
本日の聖書個所は、イエス・キリストがエルサレム神殿でいわゆる「宮清め」を行った後のお話しです。20節には、いちじくの木が根元から枯れているのを見られました。唐突な出来事のように思いますが、実はこの箇所の前段として12-14節にこういう言葉があります。

「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた」。
この後に神殿に行って「宮清め」を行い、その翌朝また同じ木を見てみると枯れてしまっていたと言うのです。これはなんとなく文脈的に考えるならば、イエスが呪ったことによって枯れてしまったという風に読み取れます。イエスはその後に「少しも疑わずに自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる」と言っていますので、このいちじくの木はイエスの信仰によって、枯れてしまったのだろうと思うわけです。ということで、この箇所が第一義的に伝えたいことは、信じて祈る力の大切さに他なりません。そのように祈れば、「山をも動かすことができる」と言っていますので、どストレートに信じて疑わないことの強さを教えようとしているように感じます。

しかしながら果たして祈ったことが必ずその通りになると言うのは、少々怖い気がします。譬えばそれが自分本位な祈りであったらどうなのでしょうか。まさに今日の箇所が現わしているのは、いちじくの木を枯らすと言うことです。実はいちじくの木とは象徴であって、本来的にはユダヤ人、あるいはユダヤ教を表すわけです。とすると、彼らが枯れてしまうことがイエスの願いであったと言うことなのでしょうか。こういうことも許されているのだとしたら、神を信じていさえすれば、神が少々わがままな自分の願いでも叶えてくださるということになってしまいます。しかしこういう信仰は、言い換えれば自分勝手で傲慢で頑迷な信仰を生み出すことになってしまうことにはならないでしょうか。

これを少し違う角度から考えてみたいと思います。それは私たちの祈りとして求められているのは、人を呪うことでも人を枯らすことでもないということです。私は不思議に思うのです。何故、イエスはいちじくの木を枯らしておいて、祈れば何でも適うみたいなことを言うのでしょうか。ちょっと怖くないですか。信じて祈れば木を枯らせることができると言うのです。でも、祈れば何でも適うのであれば、このいちじくの木がしっかりとした実を実らせることができるように祈ったらよいのにと思うのです。むしろそちらの方が私たちの考えるイエス・キリストらしいと思います。いちじくの木が枯れてしまったほうが良いというのであれば、何故神はその木を植えたのだろうかとも思ってしまうわけです。そもそも何故彼らは枯れてしまうことになったのでしょうか。それは一時のイエスの祈りによるものなのでしょうか。わたしはそうではないのではないかと思うのです。むしろ、イエスの祈りは結果であって、そもそもその木が既に木の体を為していなかったからとも言えるのではないでしょうか。
木が実を結ばない、あるいは枯れるという状況を考えてみると、第一に水不足や栄養不足ということが考えられます。つまりその木は、既に私たちに栄養を与える大元の土台である神の御心から遠く離れ切ってしまっていたことがその原因にはあるのではないでしょうか。

だからこそ、「自分の言う通りになると信じるならば」と言う前に「神を信じなさい」と語ったのではないでしょうか。「自分の言う通りになること」より「神を信じること」が重要なのです。神を信じるということが自分の言うこと、信仰告白になるからです。それは自分の言う通りになる神を信じるということではなく、神に全てを委ね、神の御心を生きるからこそ、神が私たちに最善の道を備えてくださることを信じて歩むと言うことであるからです。そうした時に、私たちは、神は私たちの願いをかなえてくださる存在ではなく、むしろ神は私たちの必要を既にご存知なので、私たちに必要なものをお与えくださる関係が分かるのです。イエスは言います。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。ですから、イエスがここで言おうとしていることの本質というものは、私たちの祈りが叶うというよりも、神の思いが為されることを信じることなのです。

だから私たちは神と言う存在から離れたら実を結ぶことも、栄養を隅々に行き渡らせることもできずにやがて枯れ果ててしまうというのではないでしょうか。まして、私たちの目の前に「山」がそびえ立つときに、それは顕著に表れます。
私たちは「山を動かしてください」と祈ります。しかし山はびくともしません。そういう時、私たちは自分の思い通りにならないことに怒りを覚えるでしょうか。神が私たちの祈りを聞いてくださらないと腹を立てるでしょうか。しかし神に祈りを献げ歩み出す時、たしかに「山が動いた」と感じることがあるのです。それは、状況は何も変わらない中にあってもなお、神の平安が私たちを包み込むと言うことがあるからです。パウロはこう言います。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリ10:13)。

この言葉は、試練を回避する道を備えていてくださると言うことではありません。むしろ試練には様々な時に直面することがありますし、それは私たちにとって歓迎できるような事柄ではないことがしょっちゅうだと思います。しかし、神はその困難や試練を最後まで私たちが歩み抜くことができるように共にいて支え守ってくださる方であるのです。

ですから今日の箇所で私たちが受け止めたいこと。それは神を私たちの願望をかなえるための道具にするのではなく、むしろ神を信頼し祈り心を明け渡すことです。困難の中においてもなお神が私たちの道を守ってくださること。この関係性の中に神は私たちに共におられるからです。
私はこのいちじくの木はまた神にあって復活の時があったのではないかと思います。何故ならば木が切り落とされた切り株からひこばえが生えるように、神の希望はいついかなるときも絶えないからです。共にお祈りしましょう。

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