〇マルコによる福音書 12章18~27節
復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」。
〇説教「 神は、生きている者の神なのだ 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。酷暑が続いています。礼拝堂内も暑くなりますので、礼拝の途中でも水分補給をしながら、無理なくお過ごしくださいますようにお願いします。今週も皆さまの心と体のご健康が守られ、日々の営みの上に主の恵みがありますようにお祈りします。
私たちは、マルコによる福音書を続けて読んでいます。今日の聖書個所は、いわゆる「復活問答」と呼ばれる箇所です。普段この箇所は、イースター(復活日)礼拝に先立つレント(受難節)に読まれることが多い箇所ですが、今日わたしたちはこの箇所から「復活」について考えて参りましょう。
今日はまず質問から入りたいと思いますが、皆さんは「復活」について、どのように考えておられるでしょうか?キリスト教と言えば「復活」の宗教ですから、大切なテーマだと受け止めている方は多いと思う一方で、ではそれをどのように信じているか、それがどのように起こったかと問われると、なかなか答えることが難しいことではないかと思います。キリスト教では伝統的に次のように考えられていると思います。「イエスは十字架の死から三日目によみがえった。死は復活に滅ぼされた。これは、イエスが自らの命をかけて隣人を愛し抜いたことを神が義と認められたからだ。だから私たちもイエス・キリストを信じ、バプテスマを受け、従って歩んで行こう。そうすれば私たちも永遠の命に預かることができる」。弟子たちはこのように考え、イエス・キリストの福音宣教に向かっていきました。このようにキリスト教の中心は、イエス・キリストの「復活」という出来事です。使徒パウロは、「キリストが復活しなかったのであれば、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。(Ⅰコリント15:14)と言っているように、まさに復活はキリスト教信仰の根幹に関わる部分であるのです。
しかしながら、じゃあそれを説明するかと問われるならば、やはりとても難しいことのように思います。科学的に考えると証明は出来ません。証明できないことをあったと言うことはなかなかに困難です。このように考えるのは、現代社会に生きているわたしたちだけではなく、聖書の当時の人々も同様であったようです。先ほど言葉を引用しましたが、使徒パウロはイエス・キリストの弟子になった後、3回の宣教旅行に出かけます。その2回目にギリシャのアテネという町に立ち寄った時、パウロは哲学や新しい教えを聞くことを好む人々に説教をしていますが、「死者の復活」のくだりになった途端、「ある者はあざ笑い、「それについてはいずれまた聞かせてもらおう」と言って立ち去った」(使徒17:32)ことが書かれています。それくらいあり得ない、にわかには信じられない出来事、それが復活です。今日はイエスの言葉から「復活がどのようなものか」考えていきましょう。
聖書箇所に入ります。今日は、先ほどお読みいただいた箇所を少し説明を加えながらお話ししたいと思います。「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。
この質問は、ご丁寧に「復活はないと言っている」と説明されているサドカイ派の人々によって行われています。これにはもちろん意図があったはずです。しかしそれは復活と言う事柄について深く知りたいという純粋な思いではなく、あるいは誠実に向かい合おうとしているわけでもなく、むしろ悪意に満ちている問いかけでした。
先週の礼拝では、「ファリサイ派やヘロデ派の人々」がやって来て「皇帝への献金が律法で正しいか正しくないか」と問いかけました。そしてその前には「祭司、律法学者、長老」がやって来ていわゆる「権威」についての問答を繰り広げています。今日の箇所は、イエスがエルサレムに入って3日目の出来事と言われておりますが、イエスがエルサレム神殿で行った「宮清め」というものを受けて、彼らエルサレムにいた宗教的な指導者たちがイエスを陥れてやろうと問答を重ねていたのです。
今日やってきた「サドカイ派」というのは、ユダヤ教の中で神殿体制派であり、世の中の上流階級を占める人々でした。それに対して民衆派というのがいわゆる「ファリサイ派」でした。ファリサイ派は律法を守って生きること、つまり聖書の言葉を間違いなく守ることを大切にしていましたので、復活をも信じていましたが、ファリサイ派は神殿祭儀を行うことで救われると考えていました。ある意味律法を固く守ることよりも、いわば緩やかに解釈して守っていました。そういう意味で復活も信じていなかったようです。
そんな彼らが復活についてイエスに聞いているわけですから、悪意がないわけはありません。彼らの話を簡単にすると、一人の人が妻を娶って子どもなく亡くなった場合、弟がその妻を娶って兄のために子を残すということが言われています。そして7人の兄弟が死に、それぞれがその妻をめとったとしたら、復活の時に妻は誰の妻になるのか、ということです。
この考え方は、レビラート婚と呼ばれていて、その家の血筋を残すため亡くなった兄のために妻が弟と結婚するというものでした。これは旧約聖書申命記25:5以降に記されていることですが彼らはこれを盾に、モーセがこれを教えたのだが、どうなのでしょうか、と問いかけるのです。
彼らが言うその構図をイメージしたことはあるでしょうか。1人の女性を巡る7人の男性の大変な言い争い。まさに骨肉の争い。なんかその情景を想像するだけで、むしろ復活しなかった方が穏やかだったのではないかと思うような大変な状況が目に浮かびます。しかし、これはもちろん彼らだってこれが無茶なことだってわかっていたわけです。それくらい極端な例ですし、当然彼らはイエスがこれには答えられないだろうと想像していたわけです。
しかし、この質問を受けたイエスは、「そんな質問をするあなたがたは思い違いをしている。あなたたちは聖書も神の力も知らないのだ」と切って捨てます。恐らくそのような状況を考えると、イエスは怒ると言うよりもむしろ深くため息をつき、あきれたように言っていたのではないかと思います。
聖書にはこう書かれています。「イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」。
天使のようになるとはどういうことでしょうか。天使と言うのは、英語ではエンジェル、ギリシャ語ではアンゲロス。この言葉の中にロゴスという言葉が入っています。実は、ロゴスとは言葉と言う意味のギリシャ語です。つまり神の言葉を届ける者、その使者が天使になるのです。そして神の言葉を届ける者は、神の言葉の代理人になります。ですから天使のようになると言うのは、神の言葉すなわち福音に生かされるものになると言うことであります。そして神に属する者になるとも言えるでしょう。
実はサドカイ派の人々の考えにはかなり問題点があります。「復活した時にこの女性は誰の妻になるのか」これは根本的に生前の人間関係が死後も復活の時も同じであるという考え方に基づいたものです。当時は家父長制の文化でしたから、妻や女性は夫に属するものであるという考え方がこの根底にあります。ですからこのサドカイ派の人々は、「誰の妻になるのか」、つまり「妻は誰に属するのか」と尋ねるわけです。だから、イエスは、そうではない。それは思い違いだ。彼らが復活する時には、めとることも嫁ぐこともないのだと言うのです。
私たちも時々、天国に入っても永眠された方と結ばれていたい、あるいはもし仮に「生まれ変わってもこの人と結ばれたい」という思いがある方もおられるかもしれません。その思いは本人の思いとしては大変美しいものです。しかしこのレビラート婚はそうではありません。これは制度であり、家を守るための制度であり、本人の意思はまったく反映されていないものであります。またこの質問を悪びれもなく無神経にしているところから考えると、彼らが女性の気持ちなんてまるで考えていないことが分かります。ですから、イエスさまはサドカイ派の人々のことを「あなたたちは大変な思い違いをしている」。と痛烈に非難しているように思えるのです。
聖書も神の力も知らないということはどういうことなのでしょうか。旧約聖書の物語を読むと、アブラハムやモーセも含めて、神は人々を導き、新しい地に導く姿を明らかにしています。つまり、聖書が証言している神の力というものは、解放であり自由を与える力であるのです。だから復活したものは、家に束縛されるのではなく、まして関係性がそのままになるのではなく、むしろ自由と解放をもった、神という存在にのみ属すものになると言っているのではないでしょうか。
もう一つのことです。イエスは続けて言います。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。このポイントは、アブラハムやイサク、ヤコブはモーセの時代にはとっくに亡くなっているということに在ります。それにも関わらず、神は「私はアブラハムの神だった」ではなく今も現在形で「アブラハムの神」だと言うのです。それはつまり、彼らは神の目にあって死んだのではない。彼らは既に復活しているのだ。だから神は生きている者の神なのだとイエスさまは言われているのです。私たちはイエス・キリストの十字架と復活が最初の復活だと思うわけですが、そうではない。実は神の目においては誰一人失われていないということなのです。私は今でもあなたがたの神である。なぜならばその人たちは今も神の御許で生きているからだ。ですから、私たちは生きている時には神の恵みの内に生き、死んだとしても神は新しい命を与え、わたしたちは神にあって生かされているということなのです。つまり、復活は既に神の国において起きているのです。
そしてこの言葉には、その復活における人間関係がどうなるのかという答えが書かれています。神は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言っています。つまり、誰々の妻として復活するのではなく、或いは父の神に属するのではなく、私に属するものとして復活するのだ。私はあなた個人との関係がある神であるのだ。だから復活する者は天使に等しく、神の子だと言っているのです。この返答にサドカイ派の人々驚いたことでしょう。と言うのは彼らは復活を信じていませんでしたが、復活することがあったとしても、自分たちの関係性は何も変わらないと思い込んでいます。
つまりそれは、自分は主人であり、妻は自分に従属するものである。その妻が生きているのは自分の為であり、自分によって妻は生きていると思っていたと感じるからです。ですからイエスはその彼らの心の中にある思いを見つめ、復活する者はあなたに仕えるために生き返るのではなく、その人の個人のいのちを束縛から関係性の束縛から解放させたのです。
ですから、私はこの「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というイエスが引用した言葉に敢えて言葉を付け加えるならば、「わたしはサラの神、リベカの神、レアの神、ラケルの神である」ということにもなるでしょう。彼女たちは家を守り、子どもたちを育てるために非常に苦労した人々です。でも、その苦しみはもう終わるのだ。イエスの言葉は、彼女たちを制度から個人のいのちへと解放する言葉でもあったのです。そしてそれが彼女たちの復活の出来事なのです。
言い換えればこのイエスの復活は、私たちが神の国にて新しい関係性に至るための出来事だと言えると思います。神の言葉によって死者は既に甦り、関係性からは既に自由にされた神の子として復活する。そう、私たちは神の子なのです。
神は私たちを見放すことはありません。私たちは生きていても、死んだ後も同じ神の伴いの内で生かされるのです。これが復活であり、神が共におられる証拠だとイエスは伝えようとしておられるのではないでしょうか。