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2024年10月27日説教全文「目を覚ましていなさい~真理を見つめる目 」

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〇マルコによる福音書 13章32~37節

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。

〇説教「 目を覚ましていなさい~真理を見つめる目 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。心地の良い秋の日が続いています。今週も皆さんの心と体のご健康が守られますように。日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

本日の礼拝は、「宗教改革記念日」として礼拝を守ります。今よりおよそ500年前、1517年10月31日、当時カトリックの修道士であったマルチン・ルターが「95箇条の提題」を発表したことが宗教改革運動の始まりとなりました。その後ヨーロッパの至る所で、様々な特徴を持つプロテスタント諸教派が誕生することになったのです。私たちバプテスト教会もその内の一つであり、イングランドで起きた宗教改革運動の中から誕生しました。ルターからおよそ100年後、1612年のことです。今日はその点については触れませんが、私たちはこの礼拝の中で、改めてこの宗教改革の精神というものを「目を覚ましていなさい~真理を見つめる目」と題したメッセージから受け取っていきたいと思います。
本日の聖書は、マルコ13章「イエス・キリストの小黙示録」と呼ばれる個所です。私たちは先々週と先週の礼拝の中で、今日の個所の前段の部分を続けて読んできました。すなわち小黙示録とは、イエス・キリストがこの世の終わりの時に起きることを明らかにした言葉のことです。私たちは黙示録と聞くとなにやら怖いイメージを持ちますが、イエス・キリストがこれを語られたのは、私たちに不安を与えるためではありません。むしろ神殿が崩れる時、天地が滅びる時は来るかもしれないが、神のことばは決して滅びないということ。つまり、見えるものにではなく見えないものに心を留めて歩むことの大切さを伝えようとしているのではないかということをお話しさせていただきました。

また、これは繰り返し私たちが心に受け止める必要があることです。カルト宗教やキリスト教の中でも極端に過激なグループは、こう言う「裁きが来るぞ」的な個所を好みます。そして世の終わりを強調して人々の恐怖心を煽り、「救われるためにはこうしなければいけない。ああしなければならない」。「こうこういうことはしてはいけない」という風にマインドコントロールをして、人々の純粋な信仰を弄ぼうとします。しかし、大切なのはそこではありません。イエスもそうは言っていません。むしろ私たちが心に留めたいことはヨハネ3:16-17にある次の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。
神は、世を裁くためではなく、世を愛されたから救い主を与えられた。その証拠が神の独り子であるイエス・キリストである。これは神の愛によるものである。そしてそれは私たちが救いに相応しい者であるからとか、掟を守ったからとかそういう行いとは関わりなく、神の一方的で無条件の愛の故なのです。ですから、私たちは世の終わりの時も恐れることはありません。何故ならば、神が我々と共にいてくださるからなのです。そう信じて生きること、これが私たちの歩みを支える力になるのです。

それでは、今日の箇所に入ります。冒頭にある「その日その時は誰も知らない」。と言う言葉。これは世の終わりの時がいつ来るかということです。父だけがご存じであると言うのは、神のみぞ知る出来事であるということです。では、その時まで私たちはどのようにしていきることが望まれているか、ということをイエスは今日の箇所で語っています。聖書箇所をもう一度読んでまいりましょう。
「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。

つまり、家の主人が帰ってくるのを待つ門番のように、眠ったりさぼったりするのではなく、目を覚まして起きていなさいと言うのです。もっとわかりやすく言うと、その日がいつ来ても良いようにずっと起きていなさいと言うことでしょうか。文字通りこれを受け取るならば、これは相当困難なことだと思われます。何故なら、これは365日24時間、いつも目を覚まして生きていくことが求められているからです。相当にしんどいことを言っています。休んではならない。もしかして休んだときにその時がやってくるかもしれないからというのです。こう言われると、いつくるか世の終わりよりも、神さまがブラック企業のパワハラ上司のようにリアルに思えて、はるかに怖くなります。

そして実に使徒パウロを始め、初代教会のメンバーは、確かに自分たちが生きているときに終わりの日がやってくることを信じていました。そして自分に与えられている力や時間や命を用いて、全力でイエス・キリストの神の国を伝えるために福音宣教に出かけて行ったことは事実です。しかしながら、その時が、待てども待てどもやってこない。そういう状況の中で、人々もいつになったら来るのか、もしかしてすぐには来ないのではないかと考えるようになりました。やはりずっと緊張して生きることは私たちには難しいことなのです。ということは、やはりそうであってはいけない。いつか来るから身も心も引き締めておくようにと言うことを伝えようとしているのでしょうか。どうもよくわかりません。
私は、やはりここで心を留めるべきは、終わりの時を恐れるのではなく、あるいは終わりの時はまだまだやってこないさと過信して、有限の生を漫然に生きるのではなく、やはりしっかりと意識して自分の生を生きて行きなさいということだと思うのです。しかしながら、それはずっと緊張して生きて行きなさいということではありません。先ほど申し上げたように、いつ来るかわからない日の到来を注意して生きることは、大変なことです。むしろそういう風に信じれば信じるほど、予兆みたいなものに過敏に反応してしまい、裁きが来るとかそういう言葉を余計に踊らされてしまうのではないかとも思います。では、どうしたらよいのでしょうか。
実は私は今日の言葉は、イエスが私たち一人一人で行うものではないと言っているように考えています。僕たちにも門番にも休息が必要だからです。24時間働き続けることは不可能です。休息が必要です。その休息を得る時には、必ず誰か他の門番が必要になります。そもそも家を守る仕事は、一人ですべてを行うのではなく、チームで行うものであるのです。何故ならば実は「目を覚ましていなさい」という言葉、これは「あなたがたは目を覚ましていなさい」という二人称の複数形の言葉になっているからです。ですから、目を覚ましているということもチームで行うことなのです。自分だけではなく、仲間と共に、自分たちの持ち時間、自分たちの活動領域を守って生きることを繋ぐこと。これが家を守り、家に平和がやってくる形なのです。そうでなければ、門番が疲弊し倒れてしまい、逆に家の安全は守ることができないのです。
また、ここでの問題点は、「主人がいつ帰ってくるかわからないこと」ではなく、「今日は帰ってこないだろうと思って生きること」が問題だということです。どーせ今日は帰ってこないだろう。だから、今日は少しくらいさぼったっていいやー。手を抜いても明日やれば大丈夫さー。そう思って生きているうちに、気が付いたら全く何もやってこないできていなくなっていた。怠惰な生活をしているところに、主人が帰ってくると言うこともあるのです。そういうことを戒めなさい。何故ならば、神はやはりあなたのいのちがあなたの働きの中で輝いていくことを願っているからなのです。

人の心を鈍くさせる状況というものがあります。それが「神不在」の世の中、「人間中心」、「自分中心」という考え方です。もちろん人間が中心でも、しっかりした社会は形成されます。しかし、人間が神になってしまう時、本当に大切な事柄が抜け落ちてしまうことがあります。やはり神という存在が大切だ。実は私は、それこそ、宗教改革の時に取り戻した精神であったのではないかと考えています。

先ほど申し上げた通り、宗教改革はマルチン・ルターによって起きた運動です。しかし、結果として宗教改革が起こったわけであって、ルターはそもそもそれを狙っていたのではありません。その発端は、あくまで聖書の教えと教会の伝統対して理性的で知的な問いかけであったのです。つまり、この時の課題を簡単に言えば、教会の教えと聖書の教えとでは、どちらに権威があるのかということ。そして赦しを行うのは誰なのかということでした。
具体的には「贖宥状(免罪符)」の問題です。当時の教会はサン・ピエトロ大聖堂の建築のためにお金を必要としていました。そこで、免罪符が販売されたのです。「これを買えば罪は赦される」ということを、教会が認めていたのです。教会の教えというものは、聖書に根拠付けられていなければなりません。それでは、聖書にそんな根拠があるのかと言うと、そうではありませんでした。にもかかわらず教会はそれを進めていたのです。ルターの問いかけは、聖書に根拠がない免罪符は果たして本当に効力があるのか。その場合、罪を赦す権威を持っているのは神なのか、それともローマ教皇なのかという問題でした。実は免罪符に対して疑問に思う人は多かったようです。しかし「なんとなくおかしいよね」と思いつつも、人々は敢えて口にせず、教会の教えの通りに受け止めてきたのです。しかしルターはそのようないわば暗黙の了解となっていた事柄、しかし神や聖書をないがしろにしていたことを公明正大に批判したわけです。これはいわば、彼が空気になびかず目を覚まして生きていた結果に他なりません。しかしこれによって教皇は大慌てになり、ルターは背信者として認識され、破門されることになります。
ルターは破門が言い渡される裁判の席で、自らの教説の撤回を迫られた時、こう語りました。「自分が間違っていることを納得させられない限り、それらが真理であることを否定することは出来ません」。「私の良心は神の言葉の囚人です。わたしは撤回できませんし、その意志もありません。なぜなら、良心に背くことは正しくないし、危険なことだからです。神よ。わたしを助けたまえ。アーメン」。彼は教会や世間からの脅迫や迫害、無理解に負けず、孤独の中にも聖書から自らに与えられた御言葉の確信に立ちました。この時に作られたのが、さきほど歌った讃美歌377番「神はわが砦」です。世の支配者が吠えたけるなかで、神はわが砦として我を守りたもう。この賛美歌は勇ましい歌詞ではありますが、むしろ神に寄りすがるより他はないという状況の中で、神に救いの確信を表明する信仰告白の讃美です。
自らに与えられている確信に立つこと。これは難しいことです。私たちは時々、周りの外圧に負けてしまって諦めてしまったり、しんどくなりそうなときには考えることを止めてしまうこと、どうせ変わらないのだからと他の人たちのいいように任せてしまったりするときがあります。しかしそうであってはいけません。私たちはやはり神の言葉に生かされているのですから、この真理を求め、その確信に立って生きることが大切です。ルターがそのように生きた結果、「信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ」と言う聖書信仰、そして真理を探究する姿に多くの人が賛同することで宗教改革が進んだのです。
つまり、信仰的な生き方というものは、どんな迫害が待っていたとしてもそれを恐れずに、自分に与えられた確信を捨てることなく、自らの良心に、神が与えられた真実に誠実に生きることであるのです。
反対に興味深く思うのは、教会においても、長らく続く閉鎖的な環境では、神を信じるという環境にあったとしても聖書に対する知的で理性的なアプローチが失われてしまうことがあることです。「これはこう言うことだ」というような固定化された教えは新たな命をあたえることはできません。時にかつてあったように、真理に立たないきわめて横暴な権力によって真実が捻じ曲げられてしまったり、慣れ親しんだやり方が脅かされることを恐れて邪魔者を排除しようとする力が働くこともあるのです。これはユダヤ人がイエスを十字架に磔にした時とまったく同じ構造です。教会にもそのようなことが起きるのです。ですから皆さんもまた注意してください。目を覚ましていましょう。果たして本当に神が何を言おうとしているのか、聖書は何を記しているのか、是非、牧師が語る言葉をそのまま信じるのではなく、吟味していただきたいと思います。
もう一つ私たちが心に留めたいことは、真理を探求していくことは、教会を変えると共に、人々の命を生かしていくものだということです。実はこのルターの宗教改革はカトリック教会にも影響を与え、内側から変革が起こりました。対抗宗教改革と言われることもありますが、カトリックの宗教改革です。恐らくその内部でも変わらなければいけないという胎動が起きていたと言えるでしょう。一つの変化が色々なものの新しい変化を促していくということなのです。
「西南よ、キリストに忠実なれ」私はこの言葉もまた、安易にキリストを信じると言うことよりもより深い意味だと考えています。つまりキリストの生きられたように神を信じ、真理を求めて生きて行くこと。神の御心を見出していくことです。次に歌う応答賛美「起きよエルサレム」は、暗闇の中に閉ざされた町に福音が訪れる喜びの歌です。私たちは、苦難があるかもしれません。混沌とした世の中です。しかし神は必ず私たちに救いを与えてくださいます。ですから、その時まで共に目を覚まし、聖書の真理を求めて参りましょう。お祈りしましょう。

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