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2024年11月17日説教全文「毒麦入りの良い畑 」

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〇マタイによる福音書 13章24~30節

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう』。主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』」。

〇説教「 毒麦入りの良い畑 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。心地の良い秋の日が続いています。今週も皆さんの心と体のご健康が守られますように。そして日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

今日の礼拝は収穫感謝礼拝として守ります。秋の風の心地良さ。豊かな作物の実り、色移り変わる木々を見ると、私たちは神さまの造られた自然の美しさと豊かさに包まれて生かされていることを実感させられます。一方で私たちはその一つの世界の中で互いに争い、限られた資源を奪い合い、むさぼることによって豊かさを消費し続けています。食品廃棄物が社会問題化する一方で、依然として飢餓に苦しむ国々があります。便利で快適な環境を作るために自然を汚染し続けています。

『世界がもし、100人の村だったら』という池田香代子さんが書かれた絵本があります。世界の人口はおよそ2024年度のデータによると81億1900万人ですが、もしそれを100人の村に縮めるとどうなるのかという内容です。例えば、100人のうち、52人が女性で、48人が男性というような内容です。今日のテーマに合う部分を一部引用すると、もし世界が100人の村だったら、村びとの内、20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです。すべての富のうち、6人が59%をもっていてみんなアメリカ合衆国の人です。74人が39%を。20人がたったの2%を分けあっています。すべてのエネルギーのうち 20人が80%を使い 80人が20%を分けあっています。75人は食べ物の蓄えがあり 雨露をしのぐところがあります。でも、あとの25人はそうではありません。また17人はきれいで安全な水を飲めていません」。この絵本は毎年更新されて数字は変わることがありますが、伝えようとしているメッセージは一つです。それは私たちが一つの世界の中でどう生きているか、ということです。そしてこれから先、どうやって生きて行くのかと言うことです。ちなみに、「日本がもし100人の村だったら」と言う絵本もありますので、どうぞ関心のおありの方は調べてみてください。

私たちはこの時に神様の恵みを感謝すると同時に、神さまが創られた世界が守られるように祈らなければなりません。そして、私たちがこの一つの世界の中で、神はどのように生きて行くことを願っているのでしょうか。今日はイエス・キリストの「毒麦の譬え」から福音を受けてまいりましょう。
今日の箇所を短く振り返ります。「ある人が畑に良い種を蒔きました。ところがそこに敵がやって来て「毒麦の種」を蒔いたというのです。皆さんは、毒麦を見たことがあるでしょうか。毒麦は麦と大変よく似ているそうです。西南学院大学は、聖書植物園と題して、キャンパス中に聖書の植物を植えており、その中に毒麦がありますので、是非一度ご覧いただきたいと思います。ちなみに今は時期ではないようで、芽も出ていませんでした。

聖書に戻りますが、毒麦は、主人や僕が寝ている間に蒔かれたため、彼らはそれを知らず大切に育ててきました。ところが芽が出てきたとき、彼らは初めてそのことに気づいたのです。僕がそれを報告すると、主人はそれは「敵の仕業である」と言います。しもべは「毒麦を抜きましょうか」。と言いますが、主人は「良い麦まで一緒に抜く恐れがある。収穫の時まで待とう。そして収穫の時にはまず毒麦を集め、束にして燃やしてしまおう」と言う譬え話です。今日の譬え話は、他の譬え話に比べて設定がやや複雑と言うか、入り込んでいるというか、わかりにくい状況設定があるのでよく考えてみる必要があります。

まず、ある人が畑に良い麦の種を蒔いたことはわかります。畑がどんなところだったかということはわかりませんが、作物が良く実る普通の土地であったのでしょう。そこに良い麦の種を植えたのです。良質な土に良い種を蒔けば、収穫が期待されるところです。ところがそこに敵がやって来て毒麦を蒔くのです。ここで疑問が生じます。敵って誰でしょうか。そして敵のしたかったことは、収穫の邪魔、或いは嫌がらせということで合っているのでしょうか。

というのは、もし収穫させたくないということであれば、蒔かれた種を根こそぎ奪っていけばよいと思うのです。でも、敵はそうはしませんでした。あるいは、敵の目的は毒麦を実らせることだったのでしょうか。自分で育てずに相手に育てさせて収穫しようと思ったのでしょうか。確かにそうすると自分は楽ですし、相手に対しても大切に育ててきた作物が望むものでなかったときのガッカリさを味わわせることはできます。性格悪いとは思いますが、効果的です。

さて一番よくわからないことは、主人は毒麦が入っていることが分かったにも関わらず、早く対処しなかったことです。僕は毒麦を抜きましょうかと言っているので、抜くことは出来たはずです。しもべの提案には、敵の思惑を防ぎたいという思いと、主人の畑の実りを守りたいという二つの純粋な思惑が見えます。何故なら毒麦をそのまま残しておくということは、その畑の限られた栄養素を毒麦にも分けることになってしまうからです。おいしい麦を作るためには、これは必要な間引き作業だと考えられます。ところが、この畑の主人はそれをすることを選びませんでした。その理由は、主人の言葉によると、「間違って良い麦まで抜いてしまう可能性」があるからということでした。つまり主人は良い麦を一本でも守るために、毒麦をも受け止める覚悟があったようです。彼にはその後の算段もあり、最終的には実り切った段階で集めて火の中に燃やしてしまおうと考えています。最終的には毒麦は燃やされ良い麦の収穫が残る。そしてこれが天の国であるというのです。

弟子たちはこの譬え話を聞いて、良くわからなかったのでしょう。実はマタイによる福音書13章36節以降に、弟子たちが譬え話の解き明かしを求める場面があります。イエスはこう言っています。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。そして毒麦を蒔いた敵は悪魔だ」とあります。つまりイエスが良い麦を蒔き、悪魔も毒麦を蒔いた畑は私たちの生きている世界です。そして私たちは麦です。しかし、私たちが良い麦か毒麦かはいまのところわかりませんが、実ったときにそれが分かるようです。そして最終的にはその毒麦は収穫の時にまとめて燃え盛る炉の中投げ込まれ、良い麦だけが残る。これが天の国であるという風に受け取ることができます。

さて、この説明を聞いて何やら怖いなあと思うのは、この「裁き」の説明にかなりボリュームがあるからです。こんなことを聞くと、それでは私はイエスさまが蒔いた良い麦なんだろうか、それとも悪魔が蒔いた毒麦なんだろうかとやっぱり心配してしまいます。毒麦はいくら丹精込めて育てても途中から良い麦に変化することはありません。だとすれば、宗教改革者ジャン・カルヴァンが予定説で唱えたように、神に救われる人は予め神によって決められているということを言いたいのでしょうか。

もしそうであれば、その裁きの後に実現するのが神の国、天の国なんだということをイエス・キリストは伝えようとしているのでしょうか。皆さんはこれをどのように聞かれるでしょうか。私は率直に言って、その裁きの後に成り立つのが神の国であると言われることには、 非情に抵抗があります。

そもそも神の国というのは、正しい人や信仰深い人だけが入れるところなんでしょうか。もし神を信じる正しい人たちだけが天国に入れて、罪人が地獄に行くのだとしたら、それはファリサイ人、律法学者の世界と変わりません。それでは「私は罪人を招くために来た」と言われたイエス・キリストの存在自体が自己矛盾に陥ってしまいます。世の終わりの時に裁きがあるのかどうか、はっきりしたことはわたしにはわかりません。しかし私たちは、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。(ヨハネ3:17)と言う言葉を心に留めたいのです。

実は、今回この聖書の箇所の準備をしているとき、たまたまインターネットで今日の箇所の解説に辿り着きました。そこでは、この箇所が文字通り解釈されていました。つまり「麦は麦であり、毒麦は毒麦である。サタンに蒔かれた者たちの本性は決して変わらない。そしてその人たちは切り捨てられなければなけない。麦が麦として実るためには、神を第一とし、自分たちが神に従うための障害となるもの、例えばそれが、家庭の幸せであってもそれらを捨て去らなければいけない」。

つまり、良い麦として実るためには、天国に入るためには、永遠のいのちを得るためには、この地上のかりそめの家族や家庭の幸せを捨てて神のために生きること。これが救いに選ばれている信仰者の姿だと言い、それが出来ない人はサタンの子であり救われない者なんだと言っているのです。

私はこのサイトを見た時に、大変ショックを受けました。 これは、イエス・キリストの歩まれた道、その教えとははっきり違うことであるからです。実はそのサイトを運営していたのが「全能神」と呼ばれる異端のグループの教会です。その教会は裁きの預言で人々の不安を煽り、救いの基準を自分たちで決め、人々をマインドコントロールします。しかしそれはイエス・キリストの教えではありません。全く異なります。先ほども言いましたがイエスさまは世を救うために、罪人を招くために来られた方であるからです。
私は、この譬え話が天の国の譬えだとしたら、この裁きの後に訪れるものが「天の国」なのではなく、むしろ良い麦の中に毒麦が蒔かれた畑を主人が見守っている。これが天の国なのではないかと感じるわけです。そうでなければ、「天の国は良い麦が蒔かれた畑であり、その麦が実を結ぶようなものである」で終わってしまっていいと思うのです。この毒麦がうんたらのくだりは必要ありません。でもイエスさまはあえて毒麦の話を加えていることを心に留めたいのです。

私はこの箇所についてやっぱり思うのです。この麦にイメージされているのは人です。そうだとしたら、そもそも生まれた時から、神の国を受け継ぐ良い人と悪い人というふたつに区切ることなんてできるわけありません。何故ならば全ての者は神によって尊く造られた存在であるからです。もし仮に良い行いではなく、悪い行いというものを好んでしている、或いは無意識のうちに行っているということがあるのだとしたら、それはその人たちが育ってきた環境によるところが大きいと思います。そしてイエスはそういう中で生きている罪人たちを招くために来られた方であります。そしてむしろ自分たちは正しいと思っている者たちこそ、どうなのだということをイエスさまは言われるのです。

確かに私たちは自分たちが正しい、だから邪魔な毒麦は捨ててしまいましょうという判断をしたくなることがあります。でもイエスはそんなことは望んでいないのです。なぜイエスは毒麦が実るまで待とうと言ったのでしょうか。それは、毒麦と呼ばれる人たちが神の見守る畑と言う環境の中で、いつか神の御許に立ち返ることを、イエスは願っているからなのです。つまりこの麦の譬えに足りない要素はその麦が変わっていく、つまり悔い改め、立ち返りの可能性です。つまり天の国とは、敢えて毒麦が共に育ち、この主人の恵みの元で方向転換していくことを共に喜ぶところだと私は思うのです。

ちなみに先ほどカルヴァンの予定説をお話ししましたが、その考え方はさらに過激化していきまして「救われない人には福音を宣べ伝える必要もない」というハイパーカルヴィニズムという考え方が起きていきました。しかし、その風潮に「それは違う」といったのが、イギリスのバプテストの牧師であり、海外宣教の父と言われたウィリアム・ケアリです。ケアリは1792年「バプテスト宣教会」を立ち上げ、イエスの福音を伝えるために世界に出かけて行きました。そのスピリットは今も私たちに受け継がれて、バプテストの世界宣教に繋がっていきます。来週は世界祈祷主日礼拝が守られますが、その中で思いを確認していきましょう。

さて、私たちはこの譬え話から考えるべきことがあります。それは、このしもべたちのように、私たちの基準で善悪を決めてはならないということです。彼らは主人のことを思って、毒麦を引っこ抜こうとしますが、それは主人の思いに適うことではありませんでした。熱心さのゆえに人を裁くことがあります。しかしそれは、わたしたちは神のためにと思いながらも神のご計画とは違うことをして、自分の思いを満たそうとしているということがあるのです。先ほど「全能神」の話をしましたが、私たちは他人事ではありません。そこまでは行かなくても私たちも同じく神の言葉という秤をもって人を裁いてしまうことがあるのです。それは純粋であればこそ強められていく秤なのです。

しかし、それが私たちの罪であります。人がエデンの園から追放されたきっかけは、「善悪を知る木の実」を食べたことによります。それによって人は自分で善悪を考えるようになりました。しかし果たしてその判断が神の御心と同じかと言われると、やはり異なるのです。むしろそれによって私たちはその思いによってイエス・キリストを十字架に架け、世界を分断してしまっているのです。そもそも私たちが良い麦で敵が毒麦であるという思い込み自体が危険だと思いますし、そうした裁きの心を持つときに私たちこそが毒麦になってしまう可能性があることをしっかり認識しなくてはなりません。

さらに言えば毒麦だって神が「良し」とされた創造物の一つであり、それを邪魔だと思うのは私たちの側の問題です。神の目において良い麦と毒麦はどう違うのかというと、そこには違いがあるということだけなのです。イエス・キリストははそこで毒麦を抜くのではなく良い麦も毒麦も共に生きていけと語るのです。毒麦もある小麦もあるそれが神の見守りの内に共に育つ。それがイエス・キリストの愛であり、神の国、良い畑なのではないでしょうか。
共にお祈りしてまいりましょう。

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