「十字架と復活が意味するもの」
今朝私たちは、十字架上に死んだ主イエスの復活を記念して礼拝を守っています。
十字架の死を当時の人々はどう理解したのでしょうか。パウロは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」と述べています。きっとギリシャ人には醜悪なもの、ローマンには無力、ユダヤ人には神の呪いとしか思えなかったはずです。イエスの弟子たちも当初はそう思っていたはずですが、やがてこの十字架の死こそ神の究極の知恵、神の救いだと理解するに至ったのです。
では復活はどうでしょうか。当時においてもそれはありえないこととして嘲笑されたのです。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒17:32)。現代人も同様でしょう。
主イエスの弟子たちも最初は同様だったはずです。しかしやがてこの復活に重大な奥義、即ち最後まで神に信頼して生き抜いたイエスへの神の完全な答え、同時に死をさえ克服する神の力の発現を見たのです。