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2024年11月24日説教全文「神は人を分け隔てしない」

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〇使徒言行録 10章34~35節

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。

〇説教「 神は人を分け隔てしない 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。11月も下旬に入り、秋の風に寒さが増しています。それもそのはず来週からはいよいよクリスマスシーズン、救い主の到来を待ち望むアドベントが始まります。この時期、神の愛を黙想しつつ、皆さんの心と体のご健康が守られ、すべての人の歩みが平和のうちに守られますようにお祈りしたいと思います。

今日の礼拝は世界祈禱主日礼拝として守ります。さきほど世界祈祷のアピールが行われました。私は日本バプテスト連盟の国外伝道臨時委員の一人として、現在連盟が送り出している働き人をサポートする傍ら、これからの国外伝道の在り方を検討する国外伝道タスクチームの委員長をしておりますので、先ほどの説明にもう少し加えたいことがあります。実は今、連盟ではこれまでの「国外伝道」を「国際宣教」へ方向転換させていくことを検討しています。

国外伝道と言うと、これまでは働き人を国外へ派遣し、支援すること。そしてその働きの報告を聞き、共に祈ることでした。そして実際に、私たちの教会もまた、アメリカ南部バプテスト連盟の宣教師たちのお働きやそれをバックアップする諸教会の祈りと献げ物によって成り立ってきました。会堂に掲げられている聖句「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)。はとても大切な言葉ですし、福音を宣べ伝え、福音を信じたいと思う人々と共に、教会を作っていくことはとても大切なことです。

しかし現在、世界に福音を伝える人を支えることと同時に、その同じ世界に生かされている私たちがどのように福音を理解しているか、どのようにその福音を生きているかということが問われる時代もなってきています。つまり、私たちが置かれている場所で、イエス・キリストが「良きサマリヤ人の譬え」で示されたように、出会った方々と果たして隣人の間柄になっているかと言うことです。時代の変化と共に、かつて国外でしか与えられなかった出会いが、国内でも与えられるようになりました。様々な国籍文化で生きてきた方々が、同じ町、隣近所に住むようになっています。いまや国外国内という区分はなくなり、国際的に世界は広げられ、その世界の中で、わたしたちは共にキリストの福音に生かされていくことが大切なのです。ヨハネ福音書17:18には「私を世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」と言うイエス・キリストの言葉があります。これは私たちがこの世界のただ中にイエスに遣わされた者として、神の愛をどう共に分かち合いながら生きて行くのかを問いかけるのです。

先ほど女性連合の支援団体の紹介もありましたが、まさに世界のそれぞれの場所で共に生きて行くための支援を行っています。国外伝道から国際宣教へ。これは働き人を送り出すだけではなく、自分たちの手で国際宣教に取り組んで行こうということです。共に祈って参りましょう。
先週の礼拝では、宗教改革者ジャン・カルヴァンの予定説をかいつまんでお話ししました。予定説とは、救われる人を神は予定しているという内容ですが、元々は「救い」とはどのように与えられるのか、人間の行いによって与えられるのか、それとも神の選びなのかという議論から始まりました。ジャン・カルヴァンは、救いは善行や多額の献金によって得られるものではない、すべては神の恩寵の出来事であるとして予定説を唱えたのです。ところが、その考え方が拡大飛躍していき、ハイパーカルヴィニズムという考え方になっていきました。それは、既にキリスト教に触れているという神の恵みに選ばれていない者たちに対する福音宣教は一切不必要だという考え方です。当時は違う宗教を信じている人々は、真理を拒絶している方々、あるいは罪を犯し続けている人々と認識され、そういう人々はやがて神の怒りに滅ぼされるに違いないと考えていたそうです。

しかし、そのような風潮に対し、果たして神の御心は何なのか。まだ触れたことのない人に福音を届ける必要性を感じ、そのように動いたのが、近代宣教の父と呼ばれるウィリアム・ケアリに始まるバプテスト宣教会でした。ケアリについて、今日は深く話しませんが、彼の目的な福音を人々に届けることでしたが、彼が実際に行ったことは、インドで慣習として根付いていたサティと呼ばれる寡婦の火あぶりなどを廃止させること、当時東インド会社が行っていた現地の人々への不法な搾取を明らかにすること。アジア初となるキリスト教主義大学を設立すること、サンスクリット語など6か国語の聖書翻訳。また農業協会などの組織を設立することなど、人の生き方に関わる多岐にわたる働きを行いました。キリスト教の福音は、信者を増やすことだけではなく、その地域で生きている方々の生活環境の改善のために、惜しみなく注ぐものであったのです。福音伝道というと、キリスト教布教という意味合いが強く感じられますが、福音宣教は、それよりさらに広い概念であり、人々の命を守る働き、医療や教育、土着の慣習の脱却などがあります。イエスがガリラヤで行っていたことは、まさに貧しい人々罪びとと呼ばれていた人々の友となることでしたので、まさに伝道でありつつ宣教を行うことで、多くの人々の出来事になっていったことが分かります。

ですから、福音宣教とは、決して信じなければ地獄に落ちると言うことでもなければ、天国に行くための切符でもなく、今を苦しみながら生きている人を助け、共に生きて行くための神の言葉であるのです。そういう人々の救いとなったのがイエス・キリストであり、その言葉なのです。私たちは、また今日もこの言葉に励まされ、慰めを得て歩んでいきたいと思います。

本日の聖書が伝えようとしていることも同様です。短い箇所ですので、もう一度お読みします。「そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。
これは短い箇所ですが、色々な情報がつまっています。まず一つ目には、ペトロは神がユダヤ人の神であり、ユダヤの伝統を前提としてキリストの福音を伝えていたと言うことです。しかし、この言葉からは神はそうではなく、神は全ての人の神であり、ユダヤの民族的な文化背景が前提となることがなく、神を畏れることと正しい行いをすることによって神に受け入れられることがわかったというのです。つまり、この箇所はペトロの頭の中にあった正しさから神の正しさへ、方向転換した瞬間であると言えるでしょう。
実は今日の箇所の文脈を簡単にお伝えすると、ペトロのところにイタリア隊と呼ばれた部隊の隊長であるコルネリウスがやってくるという流れがありました。コルネリウスはユダヤ人ではありませんでしたが、神を恐れ神に祈り、民に多くの施しをしていました。しかしユダヤ人であるペトロにとってはただの異邦人であり、深く交わることが律法によって許されていない間柄であったのです。ペトロはその時カイサリアという町にいて、祈っていた時に幻を見るわけです。天が開いて大きな布のような入れ物がつるされて降りてくる幻を見ました。その時「ペトロよ、それを食べなさい」という声が聞こえたのですが、そこに入っていたのは、律法で食べることが許されていない動物であったのです。ぺトロは言います。「とんでもない。わたしは汚れたものは何一つ食べたことがありません」。しかし神は言うのです。「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。こういう幻を3度ほど繰り返し見たペトロは、これはいったい何のことかと思案にくれていると、丁度その時コルネリウスがやって来て、ペトロは「ああなるほどな」と神さまが幻を通して言おうとしていたにと気付いたわけです。その時に言った言葉が今日の箇所です。

つまり、彼はそれまでは広く皆が信じていたように、ユダヤ人は異邦人とは交わってはならないと思っていたけれど、神はそういう視点でいるわけではない。神は分け隔てするような方ではない。むしろすべての人の神なのだということです。

この気づきはとても大きいものです。私たちは無意識に自分たちの前提条件というものを持っています。そして、その前提条件に基づいて、こうしたら救われる、こうしたら救われないという基準を持っているのです。そしてそういう前提条件は、私たちの中に無意識にあるので、気付くことも難しければ、それを悔い改めることなんてとても難しいのです。

旧約聖書にヨナ書がありますが、預言者ヨナは、ユダヤを抑圧していたアッシリアの首都ニネベに行きなさいと神から言われますが、神の思いに逆らって逃げ出しました。神に逆らうことをしていたニネベに行くということは、神は彼らを赦すつもりなのではないかと気づいたからです。そんなことは嫌だ。そんなことはあってはならない。彼らはこのまま罪に満ちたまま滅びるべきだ。ヨナはそんなことを考えていたわけです。しかし神はそんなヨナに、優しく語り掛け、神の愛はニネベの人々にさえ向いていることを伝えるのです。これが神の愛であるのです。

神は全ての人の神であり、人を分け隔てする方ではない。これはペトロの立ち返りの言葉であるのです。今日、わたしたちもまたペトロのように、この言葉から立ち返りを得たいと思います。

やはり気になる言葉が、「正しい行いをする人は神に受け入れられる」と言う言葉だと思います。こう聞くと、やはり私たちは、人間の善行というものを通して、救いが得られるのではないかと思ってしまいます。果たしてそうなのでしょうか。いいえ、もちろん、そういうことではありません。この「正しい」という言葉は、他に「正義」や「公正」と訳すことができる言葉なのですが、神の正義とは何かというと、律法順守や戒律を守ることで示す正しさではありません。むしろこれまで見てきたように、神の愛に生かされることであり、神の愛を行うことであるのです。
神の愛とは、まさにイエス・キリストが生きられたように、罪びとと言われたり、異邦人と言われたり、神の愛の外側にいると思われているような方々に届けられる神の愛なのです。病や貧しさ、様々な思い悩みを抱えながら生きている人々に対して、寄り添い、慰めを語り、聖書の言葉から励ましを受けて、共に生きて行くことが神の愛であるのです。敵意、争い、ねたみ、そねみがあるところに平和があるように共に祈り、混乱や戦争が平和と希望に代えていくことが、神の愛であるのです。わたしたちには難しいと思うかもしれません。しかし、このために共に祈っていくことから始めて行きたいと思うのです。何故ならば、そのためにイエス・キリストはこの世に与えられたからであり、神はこの世界に住む人々が平和に、神の御心の通り、愛に包まれて生きて行くことを願っているからです。

わたしたちはこの説教の終わりに、共にこの祈りに心を合わせたいと思います。聖フランシスコの平和の祈りです。どうぞ心を静め、祈りの言葉にお心を向けてください。

神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。 アーメン

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