〇聖書個所 マタイによる福音書 18章15~20節
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。 言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。 教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であ れ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
〇説教 二人または三人が共に集まるところ
みなさん、おはようございます。 オンラインで礼拝されている方もおはようございます。 三月も中旬 を迎え、先週は西南幼稚園で卒園式が執り行われました。 今週は西南学院大学の卒業式も執り行 われます。 教会もまた年度の終わりを迎えます。 信仰生活の歩みは卒業というものはありませんが、 新しい年度の歩み、すなわち新しい出会いへと導かれてまいります。 みなさまの心と体の健康の守り、 新しい歩みの祝福をお祈りしたいと思います。
今日は卒業礼拝にちなみ、 というわけでもないのですが、 私たちが新しい歩みをして行く時に起こ り得る人間関係のトラブルの対処方法についての聖書箇所です。 「兄弟が自分に罪を犯したらどう するか」 これは私たちの身近な話題でもある一方で、 解決が困難と言う意味では永遠のテーマと言 っても良いかもしれないものです。 人間関係は喜びに繋がることもありますが、ほとほと困り果てるほ どの悩みの種にもなることもあります。 現在起きている世界の争いの発端の最大の理由は人間関係 の相違によるものです。私たちにとっても家族の中で、 教会の中で、 たびたび人間関係のトラブルが 起こります。 特にバプテスト教会は信徒による教会ですから、基本的には密な人間関係、信頼関係 が土台になっています。 だからこそ関係が良い時は最高に楽しく嬉しいのですが、 トラブルが起きる と後々まで響いてほとほと疲れ果てるということもあります。 そういうことは多かれ少なかれ、私たち 全員が経験したことがあるのではないでしょうか。 神を信じる者同士です。 また自分自身神の救い によらなければやっていくことができない罪びとである者です。 にもかかわらず、 同じような立場であ る相手との関係の中でトラブルが起こり相手を排除したり、心傷つき疲れ果てて教会を去っていっ たりするということが起こるのです。 そんな煩わしい関係から抜けて神様だけを求めたいということが あります。私も心情的には大変よくわかります。 しかし、 人間関係に踏み入らなければ本当の恵みに はあずかることができません。 これは葛藤を含むことです。 しかしそういう時、イエス・キリストが今日 の箇所で言おうとしていることが響いてきます。
今日の箇所を読むと、イエスは兄弟が自分に対して罪を犯したらまず二人だけのところで忠告し なさいと言っています。 つまりそれは、その問題から逃げてはいけないということです。そしてその問題 をそのまま放置していてもいけないということでしょう。むしろ向かい合いなさいと言っています。 イエ スはなかなかに厳しいことを言われます。 私なんて逃げ出したくなりますし、 一緒にいて苦しくなる人には近寄らないようにしようと思います。 でもやはりそれでは問題の解決には繋がらないことはわか ります。ですからイエスはその二人が向かい合う中でそれが解決しないのであれば他に二人または 三人で話しなさいと言います。 でもこれは、二人か三人でグルになって相手に自分の言い分を伝え るということではなく、客観的に起きている問題を確認しなさいということなのかと思います。 一人だ けの言い分を聞いていてはいけないということです。 私たちは自分の意見を正しい、 相手を間違って いると思いますが、決してそうではないのかもしれません。むしろ、しっかりその客観的な事実を確認 することが大切だと言うのです。 でももしそれでもだめなら教会の事柄としなさい。 教会として関わっ ても無理であれば、 その人を異邦人か徴税人のように扱いなさいと言うのです。
実は権威主義的な教会にとっては、今日の聖書箇所はそのような問題を起こす人に対しては、 教 会は破門しても良いのだという根拠を与える聖書個所として捉えています。 「繋ぐことと解くことは教 会の権威だ」と言うのです。 しかし果たしてイエス・キリストは本当にそんなことを望んでいるのでしょ うか。私はそうではないと思います。 だから 「異邦人や徴税人と同様に見なしなさい。」 の意味を考え たいと思います。私たちはこういう異邦人とか徴税人と言う言葉を聞くと、 自分たちとは違う存在だ から、もはや相手にしないようにしなさいと言っているように感じると思います。 しかしそれではイエス は異邦人や徴税人にどのように接していたでしょうか。 マタイ福音書には 15章にカナンの女という 異邦人との出会い、 9章にマタイという徴税人との出会いが記されていますので、 少しご紹介したい と思います。
カナンの女との出会いの中は、イエスがティルスとシドンというイスラエルではない町に行ったとき に、悪霊に苦しめられている娘を癒してくださいと言ってくるストーリーがあります。 子どもを愛するイ エスなら優しくは癒してあげたのかと思いきや、イエスはこう言います。 「わたしはイスラエルの家の 失われた羊のところにしか遣わされていない。 子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」と、 とても民族差別的な厳しいことを冷たく言い放っています。 しかし、この女性はめげずにこういうので す。 「主よ、ごもっともです。 しかし子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」 最終的に イエスはこの女性の諦めない信仰を立派だと評価し、彼女の願いをかなえ、子どもを癒すのです。
この物語は、イエスが完全で間違いのない人という考え方ではなかなか理解できないお話です。 しかしもし、 異邦人は癒さないというイエスの言葉が正しいと言うのであれば、イエスがわざわざイス ラエルを離れて、この異邦人の町にやってきたのかという前提からすでに考えられません。しかし、 物 語として読むとよくわかるのです。 実はこの出来事の前にイエスは細かいことばかり気にして突っか かってくるユダヤ人たちに辟易していました。 そこで、この異邦人の町にやって来たのです。 つまり、イ エスは疲れていたのです。疲れていると心はささくれだちます。 そんな時に、 女性がやって来て自分に 救いを求めた。イエスはもしかしてそのことにいら立ちを覚えたのかもしれません。 しかし、この女性 の諦めずかつしなやかに対応する言葉に驚き、イエスの心が変えられていったという読み方です。 異邦人との出会いは自分たちの心のかたくなさを取り壊す出会いであると言えます。
徴税人マタイとの出会いの場面です。徴税人は当時、 ユダヤ人同胞からローマへの税金を納め るために取り立てをしていたため、 身内からとても嫌われていた存在でした。 マタイは、収税所で一 人佇んでいました。そこにイエスが声をかけたのです。 喜んだマタイは、 同じ徴税人や罪びとの仲間 を集めて宴会を開いたのです。ところがそこにファリサイ派の人々がやって来てこう言います。 「何故 あなたたちの先生は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」。 その場の雰囲気を一気に凍り付か せるような言葉です。 しかしイエスは「私が来たのは正しい人を招くためではなく、 罪びとを招くため に来たのだ」と言い、徴税人たちを肯定したうえで、かつファリサイ派といういわゆる正しい人たちが 罪びとを排除しようとしたことに厳しく対応する姿を示しています。
今日のお話に戻りますが、 つまりイエスにとっては異邦人も徴税人も切り捨ててよい存在ではあり ません。むしろ、ファリサイ派や同胞という正しさや同族意識というものが他の違いを持った人々を排 除してしまうということです。 それでは、 異邦人や徴税人のようにみなしさないとはどういう意味でしょ うか。おそらく、イエスが言いたいことは兄弟(同胞)とは扱うなということです。 それはどういうことで しょうか。 恐らくそれは、同じ文化の中で育った者たちとして考えるな。 むしろその相手が大切にして いる自分と違う部分にしっかりと心を留めたうえで、交わっていきなさいということであるのではない でしょうか。 もし仮にイエスが異邦人や徴税人のように見なしなさいと言ったのが、 私たちが考えるよ うに、彼らを切り捨てるということであれば、イエスが言行不一致に陥ってしまうのです。
だからイエスが言おうとしていることは、相手の悔い改めを求めることや相手を変えようとするの ではなく。むしろ自分自身が変わっていくことが大切だということなのではないでしょうか。でももち ろん、それをもって相手の言い分をまるのまま受け止めるということではありません。 それは私たちが 頭では理解できても心が許さないことでしょう。 しかしこう考えたらどうでしょうか。 聖書個所には 「自分の兄弟が私に罪を犯したら」と書いてあります。 実は私はこれまでこの部分を 「兄弟が自分に 対して悪を行うこと」として考えてきました。 悪とは悪意であり敵意であり、攻撃的であります。 これは 認めてよいことではありません。しかし、 罪というのは「ハマルティア」。 つまり、的外れなことです。 誰 にとって的外れか、それは私にとって的外れだと思うことです。 しかしそれは相手にとって大切なこと であるかもしれないのです。
言い換えれば、この両者の対立というのは、相手には相手なりに大切にしたいことがある。 それは もちろん私が自分の立場から見た時に、明らかにおかしい。 間違っているとしか感じられないことか もしれません。でも相手はそれを大切にしているのです。だからそれが対立の原因になるのです。 そ の場合、相手を変えていくことは困難です。 相手を変えようとすればするほどその態度は硬直化する のです。
だからイエスはここで、 その兄弟を異邦人か徴税人のように見なしなさい。 つまり兄弟とは同胞、 自分と同じような文化で育ち、 自分と同じものを大切にする人のことですが、そうは考えないようにし なさいと言っているのです。つまり、自分とは違う文化で育ち、 自分とは違うことを大切にする人とし て受け入れなさいということです。 しかし、ここから始まっていくのがあるのです。
私は大学生時代にカウンセリングの勉強をしましたが、 その時に大切なことを教わりました。 それ は「過去と他人は変えられない。 過去と他人について何を言っても何も変えられることはできない。 わたしが変えられるのは、 自分だけであり、これからのことなのだ」ということです。 過去というのは、 今日の文脈で言えば起こってしまった対立であり問題そのものです。 それは変えることができません。 そして相手を変えることもできません。やり込めて悔い改めを促したところでそれは本当の解決につながるとは思えません。
それでは私たちにできることとは何でしょうか。 それは自分が変わることです。 それは相手の存在 をそのまま受け入れるということです。 かつ向かい合っていくということです。 対立が深まっていくのは 歩み寄りをしない時です。 しかし自分が相手を理解しようとしはじめたときに、相手にも何かが変わ っていくのだと思うのです。ですから自分の見方がまず変えられていくことを喜ぶことが大切だと思うのです。
イエス・キリストは「二人または三人が私の名によって集まる場所に私もいるのである」 と言われ ました。この二人または三人というのを、私はこれまで自分と意見の違う人は蚊帳の外に置いておい て、自分と心を通わせ合うことのできる二~三人で自分と意見の違う者のために祈ることだと考えて いました。しかしそうではないのでしょう。 むしろ、 その二~三人とは、対立関係のただ中にある人々で す。 それぞれに違いを持ち、並び立つことができない困難な関係の間柄の中にイエスがいてくださる ということであるからです。
もちろん私たちは現実的には難しい時があります。 使徒言行録を見れば共に宣教旅行をしたパ ウロとバルナバだって二回目の宣教旅行の前には意見対立し、それぞれ別の道に進んでいきました。 これはある意味で言えば弟子たちであったとしても和解が成っていない現実があることの証拠であ ります。 彼らは一緒に歩むことはできなくなりました。 でも、同じ主の道をそれぞれ別の道で進んでい ったのです。相手を憎さのあまり邪魔してやろうとは思いませんでした。 私たちはいずれにせよ、自分 が考えていることが最も正しいのではない、私たちの間に立たれている神の御手に委ねていく時が 必要なのだと思います。
しかし、私はここに希望を感じます。 何故ならば、 和解の主であるイエス・キリストが私たちと共に いてくれるからです。 イエス・キリストはこの出会いの中で私たちに働いて下さり、共に新たな関係に 預かるように招いてくださるからです。 私たちは自分自身さえ変えることができない者です。 しかしイ エス・キリストはそんな私たちを縛りから解放するために私たちのただ中に来てくださったのです。 イ エス・キリストはこう言われます。 「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」。 私たちは このイエス・キリストと共にこれからのときを歩んでまいりましょう。