「いかに幸いなことか」
詩編には「いかに幸いなことか」という言葉が実に24回も出てきます。代表的なものを挙げてみます。まず詩編1:1~2です。いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。詩編128:1にも出てきます
詩編には「いかに幸いなことか」という言葉が実に24回も出てきます。代表的なものを挙げてみます。まず詩編1:1~2です。いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。詩編128:1にも出てきます
マルコ福音書14章以下は「受難物語」と言われ、主イエスの十字架の出来事が語られています。ですからある人はマルコ福音書のことを「長い序文をもった受難物語」と言っています。受難物語の基本的な流れはマタイとルカ両福音書とも同じです。主イエスの十字架刑が執行されたのはエルサレム、その地にいたキリスト者た
主イエスはユダヤの宗教指導者カイアファ、ローマ総督ピラト、そして扇動された多くの群衆によって十字架に架けられました。人々の目には主イエスの死は神の呪い、無力、愚かなものに思えました。しかし主イエスの口から洩れた言葉は「父よ、彼らをお赦しください」であり、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でし
マルコ福音書一章三五節に次のような注目すべき言葉が記されています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」この言葉の前には主イエスの多忙さが記されており、音楽に例えると曲想が変わり、その後再び主イエスの多忙な宣教活動が描かれているのです。福音書記者
詩編127編3節に「見よ、子らは主からいただく嗣業」とあります。旧約聖書学者浅野順一先生は『詩篇―古代へブル人の心』の中で次のように書いておられます。世俗に子は宝とよく言われるが、その宝を詩人は「嗣業」(ナハーラー)と呼 ぶ。嗣業とは神から人への賜物であり、それ故旧約の人々が生命的財産とするもの
今日は約束の聖霊が弟子たちの群に与えられたことを記念する日です。主イエスは昇天される前にこう言われました。エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。(使徒言行録1:4)あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサ
十戒は神が人間に与えた戒めであり、その第五番目に「あなたの父母を敬え」とあります。聖書は一貫して親と子は神の聖なる絆で結ばれていると教えています。神を抜きにしては子どもの本当の大切さは分からないし、親の本当の尊さも分からないでしょう。知的障害児施設ラルシュの指導者だったヘンリー・ナーウェンはこう
ある集まりで一人の人が「キリスト教の将来には希望が持てない、教会員は次第に減り、いくつかの教会は消滅するか合併するだろう」と言うのです。その方はそう思っているのですから、あえて反論するのはやめました。しかし私の心には別の言葉が響いていました。私が「主よ、今日あなたを求める人は少ないのでしょうか」と
詩編148編はすべての被造物に心からの讃美を呼びかけています。「ハレルヤ。天において主を賛美せよ。地において主を賛美せよ。」特に12~13節には次のようにあります。「若者よ、おとめよ、老人よ、幼子よ。主の御名を賛美せよ。」1934四年、アメリカでJ・S・バッハ(1685~1750)の聖書が発見され
ルカ福音書4:16以下には、主イエスがナザレの会堂で教えられたことが記されています。その時主イエスはイザヤ書61:1~2と58:6をお読みになりました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている