メッセージ

「来てみなさい。そうすれば分かる」

2018-05-07

ある集まりで一人の人が「キリスト教の将来には希望が持てない、教会員は次第に減り、いくつかの教会は消滅するか合併するだろう」と言うのです。その方はそう思っているのですから、あえて反論するのはやめました。

しかし私の心には別の言葉が響いていました。私が「主よ、今日あなたを求める人は少ないのでしょうか」と問うと、主は「そうではない。私を求める人はあの時代よりも多い。少ないのは訓練を受けた働き人だ」と言われました。また「主よ、今日多くの人が『将来が見えない、明るい未来が描けない』と言っています。あなたはどのようにご覧になっていますか」とお尋ねすると、主は「ついて来てみなさい。そうすれば分かる」と言われました。

私たちには人間的な判断ではなく、主イエス・キリストのご判断が大切であり必要なのです。私たちはこの主に従っていけばいいのです。主が示される道とは別の道を歩もうとするから暗い場所に迷い込み、力を失ってしまうのです。主は最初の弟子たちに大いなる力をお与えになったように、私たちにも聖霊による力を与えると約束してくださっているのです。

「バッハの聖書」

2018-05-07

詩編148編はすべての被造物に心からの讃美を呼びかけています。「ハレルヤ。天において主を賛美せよ。地において主を賛美せよ。」特に12~13節には次のようにあります。「若者よ、おとめよ、老人よ、幼子よ。主の御名を賛美せよ。」

1934四年、アメリカでJ・S・バッハ(1685~1750)の聖書が発見されました。それは通称「カロフ聖書」と言われ、1681~1692年にかけてヴィッテンベルグで刊行、ルターがドイツ語に翻訳した聖書に神学者アブラハム・カロフが注解をつけたものです。

バッハはこの聖書を愛読していたようで、至るところに書き込みがあります。例えば歴代誌上25章には「この章は神に喜ばれるあらゆる教会音楽の基である」とあり、歴代誌下5章13節には「敬虔な音楽は常に神が恵みをもって臨んでくださる」と書き込まれています。

私たち は神の慈しみを讃美する群れです。「神への賛美はいかに喜ばしく、…いかに美しく快いことか」(詩編147:1)

「聖書の言葉を耳にする」

2018-05-07

ルカ福音書4:16以下には、主イエスがナザレの会堂で教えられたことが記されています。その時主イエスはイザヤ書61:1~2と58:6をお読みになりました。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

主イエスは最後にこう結ばれました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

原語を直訳すると、「この聖書の言葉は、あなたがたの耳において成就した」となります。どういうことでしょうか。私たちに届けられた神の言葉には大きな力があります。しかし聞いても信じなければそこで終わりです。反対に聞いて信じるなら、まさにそこから驚くべき救いの業が始まっていくのです。本当に幸いなのは神の言葉を聞いて信じる人なのです。

 

「聖書を通読しませんか」

2018-05-07

18才の頃、私は聖書の与える慰めと励ましを体験し、以来四度通読しました。最初は口語訳、新改訳、文語訳、そして再び口語訳。残念ながら新共同訳はまだ通読に至っていません。今年12月に新しい翻訳「聖書 聖書協会共同訳」が出版の予定で、その前に新共同訳の通読を開始したいと思いました。

実はもう一つの強い理由があります。私たちの教会は1922(大正11)年にC・K・ドージャー宣教師によって創立されました。今年で96年、五年後の2022年には創立100年を迎えます。私はそこに向かう一日一日を聖書の言葉に導かれて歩みたいと願っているのです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)。それによって一人ひとりの信仰は確かになり、教会は堅固になり、100年以降の歩みがさらに飛躍するのではないかと期待しているのです。

このために聖書通読表を取り寄せています。これを利用して聖書通読を始める人が10人、20人、30人と増えていくことを願っています。あなたも一緒に読みませんか。

「ことばの力」

2018-04-10

私の本棚に『ことばの力』という同タイトルの本が3冊あります。詩人大岡信氏、詩人川崎洋氏、そして言語学者外山滋比古氏のものです。ほかにも似た題名の本が多くあります。

大岡氏から学んだことは、洋の東西を問わず「言葉は本来最高の贈り物だった」ということ。川崎氏は父の急死で西南学院大学を中退された方です。「『あいさつ』というのは、その根もとのところは、ことばづかいより、その人の気持ちの持ち方だ」という言葉が心に残っています。外山氏は幼稚園の園長もなされた方ですが、「聞く耳」という文章の中で「こどもの耳をよくするには、ゴミクズのようなことばかり言ってはいけない」と言っています。

詩編119編は聖書の中で最も長い詩です。176節もあり、全節にわたり神のことばの力について印象深く記しています。24節と44節にはこうあります。

あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます。
わたしがあなたの律法を守る者でありますように。常に、そしてとこしえに。

「復活が弟子たちに与えた確信」

2018-04-10

主イエスの復活、それは人間の理性では信じがたいことでしたが、キリストを受け入れた者には神の存在を啓示する最上のしるしとして理解されました。また私たちに対して示された主イエスの愛を、父なる神がよしとなさったことのしるしとして、さらに父なる神に信頼し続けて生きた主イエスの姿の承認でもありました。彼らは主イエスに倣い神への信仰と人々への愛をもって雄々しく生きていったのです。

神学者アリスター・マクグラスの『十字架の謎』でこう述べています。

初期のキリスト者たちは、死者の中からイエスを復活させ、自分たちのだけではなく  全世界の主とした、神の力を記憶していたので、悪の諸力がたとえどれほど強大であ  ろうとも、たとえどれほどひどい損害をなお与えようとも、一切の試みは必ず失敗  するに違いないと、確信していた。それゆえこれらのキリスト者たちは、勝利した神  の義と愛が、最後には自分たちの生と自分たちの周りの世界のいずれにおいても勝  利するであろうという絶対の確信を持って、将来を楽しみに待ったのである。

「十字架が私たちに与えるもの」

2018-04-10

神学者アリスター・マクグラスの『十字架の謎』に次のような言葉があります。

アウグスティヌスが言ったように、「もし、あなたに理解できるなら、それは神ではない」のです。アウグスティヌスの態度は、啓蒙主義の原理だった「もし理解できな  いなら、それは誤っている」と対照的でしょう。十字架は神の、より偉大な真理との  出会いを与えてくれ、人間の言語や概念がその真理を完全に言い表すのに不十分で  あるということを際立たせてくれます。

最初弟子たちはイエスの十字架の死を理解できず戸惑いました。やがて彼らは十字架に表れている主イエスの愛と、語り尽くせない神の真理に気づかされました。ここに信じるに値する大きな愛がある! 神の深い知恵がある! 彼らはこの愛に生かされて立ち上がるのです。

使徒パウロはこの十字架のキリストを誇りとし力強く宣言します。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者  には神の力です。(Ⅰコリント1:18)

私たちも十字架を誇りとする群れです。

「十字架上の七言を黙想する」

2018-04-10

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書によると、主イエスは十字架上で七つの言葉を語られました。福音書が四つあるからこそ私たちは十字架上の主イエスの思いをより深く知ることができるのです。

1、父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

2、はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。

3、婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。…見なさい。あなたの母です。

4、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。

5、渇く。

6、成し遂げられた。

7、父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。

この言葉が常に多くのキリスト者を捉えてきました。加藤常昭先生は『十字架上の七つの言葉』、W・H・ウィリモンは『十字架上の七つの言葉と出会う』を著しました。受難週を間近にして私たちもこの一句一句を黙想し、主イエス・キリストの溢れる深い愛に触れたいと思います。

「主イエスはろばの子に乗って」

2018-04-10

エルサレムは城塞都市でした。ユダヤ全土を支配するローマ総督は軍馬にまたがり、訓練された多くの兵卒を率いてエルサレムに入城しました。ローマに抵抗することの無意味さを示すためでした。

一方、主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入城されたとマタイ福音書21章に記されています。それは旧約の預言「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)に基づく象徴行為でした。主イエスがもたらすものは武力ではなく平和であることを人々に印象づけるためでした。

私たちキリスト者はこの平和の主と共に生きる群れ、平和の主に従う群れです。私たちの前にはいつもこの平和の主イエスがおられ、そこにこそ真の幸福があるのです。

主イエスをお乗せして運ぶ子ろばでありたいと願って生きた故榎本保郎牧師の生涯を、三浦綾子さんが『ちいろば先生物語』として著しました。私たちも主イエスを乗せて福音を運ぶ「ちいろば」でありたいと切に願います。

「同じようにしてやりたいのだ」

2018-04-10

聖書にはしばしば不思議に思う箇所があります。その時は納得しても、しばらく経つと再び疑問が生じる、マタイ20:1~15の「ぶどう園の労働者」もその一つです。

ぶどうの収穫時期、園の主人は夜明けに労働者を雇うために広場に行き、一日1デナリオンの約束で労働者を大勢雇い入れます。主人はさらに9時、12時、3時、5時にも出かけ、さらに労働者たちを雇い入れたのです。夕方になった時、主人は全員に1デナリオンずつ支払います。不満が出たのは当然でした。特に夜明けから働いた者は納得できなかったはずです。「最後に来たこの連中は…」という厳しい言い方にそれが表れています。

しかしこのたとえ話は経済の問題ではなく、神の愛を説明するための話なのです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。神は選びの民イスラエルだけではなく異邦人の私たちにも、若い人々だけでなく年老いた人々にも恵みを与えようと思っておられるのです。救いは神の一方的な恵み、感謝して受けるべき賜物なのです。

 

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