十字架は最も過酷な刑罰でした。ローマ帝国は逃亡奴隷や反逆者に対してこれを執行しました。主イエスの十字架には「これはユダヤ人の王」という札がつけられており、ローマへの反逆者として処刑されたのです。
ローマの哲学者セネカはこう言っています。「一瞬の内に息を引き取るよりも、拷問の責苦の中で衰弱し、徐々に死んでいき、水を一滴ずつ滴らせるように生命を失う方を望む人がいるだろうか。あの呪いの木にはりつけられて、すでに肉体は醜くそこなわれ、ひどく打たれて肩や胸が見るも無惨にはれ上がりながら、これほど多くの苦しみをなお引き延ばすことを望むような人がいるだろうか。――十字架に架かる前に死のうと思えばいくらでも死ぬ機会はあったのに」。
主イエスはそのような十字架に架けられたのです。私たちはそこに何を見るべきでしょうか。第一に人間のどうしようもない罪深さです。自己の利益のためには罪なき者をさえ殺害する残虐さです。第二に主イエスの愛の深さです。自分を嘲る者のために父なる神に赦しを祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください」。第三に父なる神に対する主イエスの信頼の深さです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。父なる神は復活という出来事をもってこの信頼にお答えになったのです。(踊)