マタイ15:21以下にカナンの女性が娘の癒しを主イエスに懇願する記事があります。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」ところが主の言葉はとても冷たいものでした。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」しかしこの女性はなおもすがります。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」その時主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言って癒されたというのです。
主の冷たい言葉は何を意味するのでしょうか。ある説教者は「主は、ぼろぼろになり、へとへとに疲れています」と言い、絶え間ない人々の求めから離れて休みたかったのだと説明します。私にはそうは思えません。そこには意図があるはずです。主は敢えて異邦のティルスとシドンに行かれたのです。そこに貴い信仰を見いだすためです。そしてこの婦人に一見否定的にみえる言葉を用いて信仰を確かなものに育てようとされたのです。主は私たちの信仰も育てようとしておられます。