天地創造、アダムとエバの楽園追放に続いて、創世記は二人の息子の血なまぐさい物語を記している。古代の神話といわれているが、きょうだい、親子、友達など親しい人を殺める事件は今も絶えることなく続いている。聖書は決して昔話ではない。
カインがアベルに手をかけたのは、神がアベルとその献げ物に「目を留められたが」、カインとその献げ物には「目を留められなかった」からだという。自分こそ祝福を受けるにふさわしいと信じていたであろうカインは、顔を伏せて憤り、アベルを妬み、憎んだ。高ぶる感情は殺意となった。
現代の殺人事件も、その多くは相手への妬み、自分こそ正しいといった思い上がりが根にある。国と国との戦争も例外ではないだろう。私たちはみなカインであり、アベルにもなる。加害と被害は相対している。
長崎の「原爆詩人」と呼ばれた山田かん氏(1930~2003)は、こう書いている。「悲しくも憤りにやり場のない思いに耐えながらあの八月を思いかえす時、父と子と聖霊への祈りにこの世の悲惨を赦し求めること。それは浦上の祈りを超えて世界への真実の生を訴えていることにならないであろうか」(原爆とキリシタン 1975年)
(田川大介)