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2022年10月16日説教全文「按手 -働きの委託と祝福、そして協働へ-」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 使徒言行録6章1~7節

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

〇説教「按手 -働きの委託と祝福、そして協働へ-」

今日の聖書個所は、教会の働きのために7名の奉仕者が選出されたという箇所です。教会の役職として牧師のほかに執事を選出する根拠としてもよく知られています。奉仕者という言葉はギリシャ語ではディアコノス、英語ではディーコン、日本語では執事、奉仕者、おもてなしをする者などとして訳しかえることができますが、要は「人に仕える人」を指します。「知恵に満ちた評判の良い人」が選ばれたとありますが、それは権威的な存在や身分ではなく、共に仕える者であるということです。この箇所からよく語られることは、教会の働きは牧師だけが担うのではなく、信徒の中から執事を立てられ、牧師と執事が協力してチームとして共に働くということです。確かに執事は信徒の中から選ばれますし、その方々と共に役員会を形成することによって教会の色々な働きを進められていきます。しかし実は、私はこの箇所は、バプテスト教会における牧師の招聘に非常に似ていると思っています。それは信徒たちが自分たちで人を吟味してその人に働きを委託することが、牧師を選び招聘することと同じであるからです。ちなみに今日この箇所を選んだ理由は、来月11月13日に予定されている私の牧師就任式と関係があります。教会が牧師を呼ぶとはどういうことか、また牧師に委ねられる働きとはいったい何なのかということを今日わたしたちはこの箇所から共に確認したいと思います。

聖書個所に入ります。まずギリシャ語を話すユダヤ人たちからヘブライ語を話すユダヤ人たちに対して苦情が出ました。それは日々の分配のことで仲間のやもめたちが軽んじられていたからだと記されています。この日々の分配とは2節の弟子の言葉からすると「食事の世話」のことであったがわかります。彼らは共にイエスさまを信じる弟子たちでありましたが、残念ながらヘブライ語を話す人とギリシア語を話す人たちの間には溝があったようです。この両者の違いは、言語だけに留まらず、生活文化圏が違うということであり、経済格差があったということです。同じユダヤ人でありながら、その違いのために生じる確執がありました。恐らくヘブライ語を話す正統派のユダヤ人にとっては、ギリシャ語を話す文化背景の豊かなユダヤ人たちはあとから仲間に加わった者であり、一緒にされたくない。先に群れに加わっていた者たちが優先だと思っていたようです。本来ならばイエスさまが言われたように「後のものが先になる」ことを喜ぶのが私たちの教会の本来の姿ですが、こういう人間の心の感情は私たちや教会にも起こることだと思います。後から来た人と同等に扱われることが我慢ならない、或いはこれまでと違う変化が起こるのを好まないということがあるのです。
しかも日々の食事のことですから、「食べ物の恨みは恐ろしい」と言いますが、ここにはもう本当に深刻な亀裂が起こっていたのだと思います。そこで12使徒が事態の解決を図ることになったわけです。そして彼らがその結論として他の弟子たちを呼び集めて言ったのが「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。ということでした。

これはある意味で言えば、建設的な事態解決の方法に思えます。食事の世話のことは、あなたたちの中で評判の良い人を選び、その人にお任せしなさいというのです。自分たちが納得して選んだ相手なら、自分たちを軽んじるというようなことは起こらないはずだし、万事解決でしょうということです。そして実際に7名の方が選ばれて問題は解決し、神の言葉はますます広がっていった。この問題は解決しハッピーエンドになったと聖書は記しています。
でも、果たしてそれで本当に良かったのでしょうか。わたしは実はこれでは何も解決していないのではないかと思うのです。何故ならば私はこの箇所には色々な問題点があると感じているからです。それはまず使徒たちが何故自分たちで食事の世話をしなかったのかということです。他の人にめんどくさいからと丸投げしているように感じるのです。果たして本当に彼らが言うように食事の世話をすることは神の言葉をないがしろにすることに繋がるのでしょうか。「食事の世話」というのは、日常生活の配慮のことです。私はむしろイエス・キリストは人々の日常の悩みに寄り添われた方であると思うのです。有名な5千人の給食。4千人の給食。山上の垂訓。人々の叫びに耳を傾けて祈られた姿。癒しを与えた姿。これは全て日常生活の配慮の中で起きた出来事であります。まさにイエスさまは人々に寄り添い仕える姿を見せ、そしてそこで語った言葉が神の言葉として人々の心に響いたのです。それなのに使徒たちは何故その歩みに倣わなかったのでしょうか。人々に仕えることと切り離された神の御言葉なんてあるのでしょうか。彼らは俗世間から離れて神の言葉を語ることができると思ったのでしょうか。預言者であればエリヤのようにそういう人もいたかもしれません。しかし福音宣教者はそうではないのです。人に寄り添うことがもっとも大切だからです。
ですから、私はもしかしてこの頃の使徒たちは「自分は直接イエス・キリストに招かれた。私たちは他の人たちとは違い特別なのだ。だからそんな面倒なことは他の人に任せて私たちは私たちにしかできない特別な奉仕に専念しよう」というある種の差別意識、言い換えれば「おごり高ぶり」があったのではないかと思うのです。もちろん祈りや御言葉はもちろん大切です。でもそれはイエスさまの歩みを見るならば、日々の出来事の中で立ち上がってくるものであるはずなのです。

でも私がこの使徒たちの姿を見ていて思うのは、牧師もついこうなってしまいがちということです。人に仕えるはずの牧師が「牧師先生」と逆に人々から敬われ、配慮されるようになり、自分たちは御言葉のご用があるから祈りのご用があるからと、本当に必要とされる配慮や伴いということをおろそかにしてしまうということが私自身の経験を振り返ってもあるのです。もちろん説教にも祈りにも時間をかける必要があります。でも活きた言葉というのは牧師室で与えられるものではなく、皆さんとの出会いや出来事の中で立ち上がってくるものであると私は感じるのです。
ですから皆さんにお願いがあります。是非「先生はお忙しそうだから」と遠慮しないでください。むしろ私は一緒にお話をしたり祈ったりしたいと思うのです。むしろ私はそれが教会の働きにとって大切だと思いますし、むしろ福音はそこから始まっていくものだと思うのす。
そう思う根拠があります。それがこの時選ばれた奉仕者たちの姿です。彼らは立派だったと思います。人からの推挙を神の御旨と信じ、人々の委託と神の招きに忠実に応えていったからです。特にステファノやフィリポを代表とする執事・奉仕者の働きは、12使徒の働きがかすむほど大きなものでした。それは使徒言行録6章以降の宣教の中心を彼らが担っていったことからも明らかなのです。使徒たちは一体どこに行ってしまったのかと思うほどです。
何故この奉仕者たちはそこまでの働きをすることができるようになったのでしょうか。彼らは、確かに知恵に満ちた評判の良い人だったのだろうと思います。しかしそれよりも大切だと思うのはやはり彼らが教会員のみなさんから選ばれたという事実だと思うのです。それは自分一人でその働きを担っているのではないということ。皆さんの委託を受けて自分は立っているということです。責任と使命がある。しかし、自分は一人ではない。その時に皆さんと共に歩んでいるという喜びや感謝が生まれてくるのです。それが彼らを勇気づけ歩みを導いていったのだと思うのです。そして私はそれが教会だと思うのです。

私はこの説教の冒頭に「この箇所はバプテスト教会の牧師の招聘に非常に似ている」と言いました。それは、バプテスト教会の牧師もそういうものだと思うからです。バプテスト教会の牧師は、牧師と言う身分の人がどこかからやって来るのではありません。他の教派はそういう教会もあります。でもバプテストはそうではなく、皆さんからの委託を受けて牧師になって行くものであるのです。
少しだけ説明をします。バプテスト教会とはその名の通り「自覚的な信仰に伴うバプテスマを大切にする教会」です。だから信仰者は全て万人祭司であり、イエス・キリストの弟子です。牧師も教会員も皆同じ立場であり、そこには身分的な差はありません。でもその1人1人の大切な思いを委託されて働くのが牧師であります。もちろん私は個人的にはもちろん神さまのご用のためにこの人生を捧げていきたいと願い、献身をしました。神さまに召されているとも感じました。しかし私の思いでできるのはそこまでなのです。
バプテストでは牧師になるためには二つの召命が必要だと言われます。それは私個人が神さまの召しに応えること。そして教会からの招聘があることです。神学校を卒業しても、牧師になれるとは限らないのです。牧師になるのに必要なのは何かしらの資格ではなく、皆さんの信頼に基づいた委託なのです。そういう意味で言うと、今日の箇所の使徒たちはイエスさまに招かれて使徒となったけれども、この教会の委託を受けた働き人にはなれなかった。そうなったのはむしろこの奉仕者たちであったとも言えるのかもしれません。彼らは専門職ではなかったかもしれませんでも、彼らがそれぞれの働きを通して主の招きに応え仕えていったとき、福音宣教が拡がっていったのです。

私が11月13日の牧師就任式で改めて確認したいと思っていることは、皆さまお一人一人の委託によって私が牧師になって行くということです。そのために私は「按手」という祈りを皆さまからしていただきたいと願っています。按手は手を置いて祈ることです。手を置いて祈ることは祝福の思いを持って働きの委託をするということです。皆さまにそこに思いを合わせていただくことによって私は皆さんの牧師としての関係を持っていくことになります。そのために皆さんにお願いがあります。就任式までのあと一か月の間、皆さんの牧師としてふさわしいかどうか是非吟味していただきたいと思うのです。それがわたしが皆さんの牧師になって行く上でとても大切なことだからです。もちろん、足りないこともたくさんあると思います。だめだこいつと思われるかもしれません。しかしそうであればお教えいただきたいのです。信頼関係はそこから始まるからです。そのようにして皆さんの牧師になっていきたいのです。
私はそのようにしてなされた「按手」の業こそが、教会の働きを強めるものであり、かつ教会を一致させつつ交わりを豊かにするものであると信じています。何故ならば手を置いて祈ることは、その相手に「全部お任せ」することではなくむしろ相手に自分の働きの一部を委託した者として感謝して喜びを持って共に、互いに働いていくことに繋がっていくからです。
7節に「こうして神の言葉がますます広まり、弟子の数が非常に増えていった」という言葉があります。そのように繋がっていったのは、まさに信頼してその働きを委ねた人と共に教会員が喜びつつ信仰生活を共にした時、その交わりは様々な違いによる溝や課題を超えてさらに豊かにされていくという希望を現わしているのではないかと思います。

福音宣教の困難な時代だと言われ、教会から若者がいなくなったと言われて久しくなります。しかし果たして本当にそうなのでしょうか。悩みの多い時代にこそイエス・キリストの福音宣教が必要なのではないでしょうか。本当に助けや救いを求めている人は多いと私は思います。そのために、私たちが考えなくてはならないのは、本当にイエス・キリストの言葉を受けた者として、福音に生かされているでしょうか。あるいは人々に仕えていっているでしょうか。私たちが一人でも多くの方々ともにイエス・キリストの福音に生かされていくために、私たちは今こそ知恵を求め、勇気を出してその溝を乗り越えていくことが必要なのではないでしょうか。それには私たち一人一人が変えられていくことが必要です。ヘブライ語を話すユダヤ人がギリシャ語を話す違いを持ったユダヤ人を受け入れるために本当に必要だったのは、その違いを受け入れ、その違いを認め合い、その出会いに私たちが変えられることを喜び、共に生きて行くという強い思いを握ることに他ならないのです。

まずイエス・キリストが私たちを受け入れてくださったように、私たちも共に主に招かれたものとして異なる人たちを受け入れる環境を作っていくことが大切です。そのようにして私たちは、はじめて亀裂の結び合わされた、平和と和解のキリストの教会に結ばれることになるのだと思います。使徒パウロは言います。「教会はキリストの体であり、一人一人はその部分である」(Ⅰコリ12:27)。また旧約聖書コヘレトの言葉にもこうあります。「一人よりも二人が良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、一人がその友を助け起こす」(コヘレト4:9-10a)。私たちは共に働くからこそ、収穫も多く、繋がり合うからこそ喜びも大きく、より豊かな働きが出来るようになるのではないでしょうか。
共にこの御言葉に問われつつ、一週間の歩みを進めて参りましょう。

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