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2023年3月12日説教全文「取るに足らないからし種を成長させる神」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マルコによる福音書 4章26~32節

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」。
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。

〇説教「 取るに足らないからし種を成長させる神 」

みなさんおはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。3月に入り暖かい春の陽気が注ぐようになりました。一方で明日からはまた少し肌寒さが戻ってくるようです。三寒四温の時期、皆さまのご健康の守りをお祈りしたいと思います。また春は別れと出会いの季節です。毎年この時期は巡ってきますが、一度たりとも同じ別れと出会いは起こりません。全ては神の導きのままに一期一会です。ですから私たちはこれまでに与えられた一つ一つの出会いを神に感謝し、また新しく与えられる出会いを楽しみにしたいと思います。私たちはどんな時も常に共におられると言う「インマヌエルなる神」が共におられます。このことを新しい歩みの始まりに心に留めて歩み出して参りたいと思うのです。
「神が共におられる」。私たちは「レント(受難節)」の時、このことを特に強く心に留めたいと思うのです。何故ならば、私たちの歩み行く先は私たちが期待に満ち溢れ想像する未来とは全く別のものになることがあります。私たちにとってまさに受難とも呼べるような苦しい出来事も起こるでしょう。しかし、神はそのような歩みを進まれたイエス・キリストを見捨てることなく、十字架の死から復活へと導かれたのです。私たちはこのイエス・キリストの受難の出来事をまさに自分自身の出来事として黙想したいのです。イエス・キリストが背負われた十字架とは、まさに人間の罪のゆえに背負わされた受難の出来事であり、絶望的な出来事に他なりませんでした。しかし神はその道を偲ばれたイエスを顧み、復活させ、永遠の命を与えられたのです。ここに希望があります。ゆえに十字架は私たちの慰めとなり、復活は私たちの勝利の出来事になるのです。つまり神が共におられるという希望に立つときに、私たちにはどんな困難が襲い掛かってきたとしても、それは必ず乗り越えられる。神は復活によってその希望を弟子たちに示されたのです。私たちの歩みにも、思いもがけない出来事、まさかと言うような苦しい時期は時として起こりますが、神において復活の希望が与えられていることを心に留めたいと思うのです。
さて今日は3月の第2週ですが、実は私にとって大切な記念日であります。その理由について何か心当たりのある方はおられるでしょうか。実は昨年の3月第2週は私が初めてこの西南学院バプテスト教会に招かれて説教をさせていただいた日です。当初の予定ではその2週間前の2月27日に来る予定だったのですが、コロナに感染したため、来ることができませんでした。しかし、その後3月13日、私は初めて皆さまとお顔を合わせお話しさせていただいたのです。その日からまる一年経つと思うと、色々と感慨深いものがあります。わたしやまた家族にとってのこの一年は、まさに神戸教会の皆さまとの別れ、そして西南学院教会の皆さまとの出会いのための一年でありました。
振り返ると色々な思いが出てきますが、神さまのなさることはまさに不思議だと改めて思います。今私にわかっているのは、神さまが新たな道を示されたのはここにわたしの使命があるということであり、その働きを為していくために私はこの教会に導かれたということです。そして執事の皆さま、教会員の皆さまと共にこの教会から発信するイエス・キリストの福音宣教に仕えていくと言うことです。それが新しい主任牧師としての招聘に込められた委託の出来事であります。招聘と言うのは不思議なもので、そこには様々な人の思いが入りますが、それを超えて働く神さまのご計画によって成るものであるのです。これから色々な困難はあるでしょう。教会が揺れることもあると思います。問われ、変えられていかなければならないこともあるでしょう。でも恐れることはありません。何故ならば神が共におられるからです。そしてその神の福音宣教に仕えるためにこの教会は100年前に建てられたのです。この教会の中心は今も生きて働くイエス・キリストであります。私は今日、その神の導きによって、教会員の皆さまから与えられた委託の思いに忠実に誠実に仕えていきたいということを改めてお伝えしたいと思います。

ところで、昨年3月第2週の礼拝での私の説教を覚えておられる方はおられるでしょうか?聖書個所はマルコ4:1-9、「種蒔き人の譬え」からお話をしました。簡単に言うとこういうお話です。

「ある種蒔き人が種を蒔きに出かけた。その種はそれぞれ道端、石だらけの土地、茨の中、良い土地に落ちた。道端の種は鳥が来て食べてしまった。石だらけの土地に落ちた種は根が育たずに枯れてしまった。茨の中に落ちた種は、根を張り芽を出したけれど、茨に塞がれて大きく育たなかった。良い土地に落ちた種は成長して実を結び30倍60倍100倍になった。耳のある者は聞きなさい」。というお話です。このお話しの解釈はよく次のように語られます。つまり道端とは御言葉を受け入れない人のことである。石だらけの土地とは困難がたくさんある人のことである。茨の中とは世の誘惑や悩みに覆われてしまう人のことである。良い土地とは御言葉を聴いて信じる人のことである。だから、心を開いて御言葉を聴いて信じる者になりなさい。このように勧められることが多いと思います。

では私たちは自分自身を振り返ってみていかがでしょうか。常に良い土地のようだったいつも順風満帆な生活、豊かな信仰生活だったと思われる方はおられるでしょうか。良いときはそうだけど、必ずしもそうではなかったというのが本音ではないかと思います。時に私たちには困難や誘惑があります。素直に信じたいと思うけれどいつもそうはできないのです。ですからもしこれが「そうなりなさい」というお勧めであるとしたら私たちは苦しくなるのです。むしろそうだから助けてほしいと私たちは思うのです。信じれるものなら信じたいと思うのです。でも結局のところ、心豊かで純粋に信じれる人が幸いでそうでない人は不幸だと言われるのでしょうか。それは果たして福音なのでしょうか。イエスさまは「耳のある者は聞きなさい」。と言われました。これはよくよく考えてみなさいと言うことだと思います。ですから果たしてイエスさまが言おうとしていることは本当にそういうことなのか読み返してみることにしました。そこで感じたことは、イエスさまが言っているのは「心の広い良い土地になりなさい」ということではなく、もちろんそう出来たらよいのかもしれませんが、でもより大切なのはむしろ心が頑なになっている中、困難の中、誘惑の中にいるような私たちにも諦めないで福音の種を蒔き続けている種を蒔く人がそこにおられると言うことなのではないかと思うのです。
それこそ私たちの主なる神の愛なる姿だと思うし、そんな神にこそ慰めを感じます。そんな神だから信じたいと思いますし、それが福音そのもの、罪びとの救いに繋がることなのではないか。そのようなお話をその時、させていただきました。(覚えておられましたでしょうか。)

今日の聖書箇所は、その続きの譬え話です。イエス・キリストは「種の譬え」を用いて「天の国」について語られました。新共同訳聖書の小見出しでは「成長する種」と「からし種」という二つの譬え話のように思えますが、私はこれはむしろ一つとして読むときにより豊かなメッセージを受け取ることができると思います。
イエス・キリストは言われます。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。

神の国についての二つの譬えのように思えますが、「神の国は次のようなものである」「神の国を何に譬えようか」という言葉には若干の違いがあります。前者は神の国の説明であり後者は神の国の言い換えであるからです。先ほど「成長する種の譬え」という小見出しがあると言いましたが、内容を見てみると、種そのものについてではなく、種の成長過程の説明です。そもそも「成長する種」というのはおかしな言い方です。種は植物の命の源であり、基本的には成長していくものであるからです。もしかして当時は成長する種としない種があると考えられていたのかもしれません。種の成長過程が解明されていない時代には、種の成長はまさに神の恵み、神の手による出来事であったと考えられたのでしょう。
28節に「土はひとりでに実を結ばせる」とありますが、「ひとりでに」はギリシャ語で「オートマトス」と言い、「オートマティック(自動的に)という言葉の語源ですが、元々は自分自身の力で、外部の力を借りずに実を結ばせると言うことです。私たちは種を蒔いたら水をやって肥料をやって虫がつかないようにしないと健全に成長しないと思うかもしれません。しかし大切なのは、成長させるのは神であるということなのです。パウロもまた言っています。「わたしは植え、アポロが水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリ3:6)。まして御言葉の種まきにおいて大切なことは、それは神の恵みの土壌の中で、ひとりでに実を結ぶようになっていくものだと言うのです。

もしこれが信仰の成長の譬えであればどうでしょうか。わたしたちは聖書をしっかり読み、もっと信仰深く受け止めて、色々と勉強することで信仰が成長すると思いますが、むしろそれは人の手によるものになってしまいます。そうではなく「どうして成長するかその人は知らない」とあるように、その言葉を聞いて心に受け止めること。その心にしっかりと蒔かれたことを忘れずに大切に温めていくときに信仰はひとりでに実を結んでいくものであるのではないでしょうか。私たちにも経験があると思います。一度むかし聞いたことのある御言葉、或いは教会との出会いが心の中から消えることなく残っていたことでまた再び教会に来るということがあるのです。人の目から見れば、もう消えてしまっていてもおかしくない成長しない種であります。しかしその御言葉の種は、まさにその人の知らないうちにしっかりと根を張っていくのです。私たちの信仰とは、まさに神の出来事としてそのような出会いから始まるのです。私たちはすぐに実を結ばないことに心挫けてしまうことがあります。しかし、そうではありません。私たちの知らないうちに、天の国とはそのような種が蒔かれた人々の心の中で、しかし着実に結ばれていくものであると言うことを覚えたいと思います。

「からし種の譬え」も同様です。からし種はその人々に蒔かれた種がどういうものかと言うことを譬えています。からし種とは、からしの木の違いによって種の大きさは異なりますが、当時の社会の中で人々が目にする種の内で最も小さなものでありました。まさに吹けば飛ぶようなもの、目にも留まらない小さなもののことです。そんなちっぽけな種からはちっぽけな収穫しか得ることは出来ないだろうと思われるほどの小さな種です。しかしそんな小さなからし種は畑にまかれると、芽生え育って、どんな野菜よりも大きくなり、大きくというのは個体の大きさではなく、その結ぶ実が多数で豊かになるという意味ですが、そのように大きくなり、ついには葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝を張ると言うのです。
別にイエスさまは、からし種から多くの収穫が得られることを喜んでこのように言っているわけではありません。言いたいことは、からし種はわたしたちの想像を神は大きく超える形で実を結ばせること、成長する種は私たちの知らないうちに実を結ぶのだということを教えます。つまり、神の国とは私たちの想像を大きく超えた形で実現していくということ。そしてその神の国はイエス・キリストの福音の種が蒔かれたときに、既に成っていると言うことであります。からし種の木の上に鳥の巣が作れるというのは、象徴的です。つまり、大空を駆け巡る鳥たちの安息の地が、その御言葉の上に成り立つということだからです。そしてもう一つ言うのであれば、からし種とはピリッとさせるエッセンスです。私たちはこの刺激を常に心に留めている必要があります。イエス・キリストは聞く耳のある者は聞きなさいと言われます。つまり、常に御言葉に聞き、問いかけ、真理を求めていくことが大切なのです。

福音と言うもの。GoodNews。喜びの知らせ。誰が聞いてもそうだろうと思う真理であるキリストの言葉はまさに色々なしがらみに苦しみ、悩む私たちを自由へと導く神の言葉です。しかし、その言葉は現代社会の色々な価値観、或いは人を支配しようとする別の力に戸惑いながら生きている私たちにとっては、力のないちっぽけな言葉に聞こえるかもしれません。しかし、その言葉は人の心の畑にまかれると、芽生え育ち、私たちの生き方を変え、喜びと恵みの歩みへと導く神の言葉であります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。(ヨハネ3:16)「世」とはあなたのことであり、わたしたちのことです。そしてイエス・キリストは自らの命さえ惜しまないほどにあなたのことを愛しておられます。それは神の目にはあなたが高価で尊く、神はあなたを愛しておられるからです。神はあなたをあなた自身に創造され、良しとされました。私たちは自分で自分を否定してしまうことがありますが、神はあなたを愛されあなたを造られたのです。だからあなたはあなたのままで生きて行って良いのだ。大丈夫だ。これがイエス・キリストが語られ、自ら歩まれた福音そのものであります。ここに希望があります。
この言葉を心に受け止め、信じて生きるとき、私たちはまさに神の国の安息に生かされることになります。このレント(受難節)の時、イエス・キリストの恵みを想起して歩み出して参りましょう。

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