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2023年3月26日説教全文「イエス・キリストはまことのぶどうの木」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 ヨハネによる福音書 15章1~5節

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。

〇説教「 イエス・キリストはまことのぶどうの木 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。福岡では桜が咲き始め、今週が一番の見ごろを迎えると思います。今日も午後から天候も良くなるようです。皆さまの春の日々の祝福と守りをお祈りしています。本日は2022年度最後の礼拝ということで卒業礼拝として礼拝を守ります。後ほど、この3月に園や学校を卒業し新しいステージに進む方々のお名前を挙げて主の守りと祝福を共に祈ります。その中には今日の礼拝に来ることができない方々、また遠く離れたところに住んでいる方々がおられます。また、すべての該当者の名前を挙げることができないことをお詫び申し上げます。恐らく皆さまの中にはご家族や友人に卒業を迎える方々がおられると思います。どうぞその方々のお顔を思い浮かべながら祈りに心を合わせて頂きたいと思います。

本日はヨハネによる福音書15章、イエス・キリストの「まことの葡萄の木」の個所を選ばせていただきました。この個所を選んだ理由は二つあります。一つは、私たちはイエス・キリストの惜しみない愛を受け続けているということを確認するため。もう一つは、私たちはどこに行ったとしてもイエス・キリストに結ばれたものとして、互いに繋がり続けているということを覚えるためです。春は出会いと別れの季節ですが、私たちはイエスさまに結ばれることによって、場所は離れても互いに繋がり続けているということ。そしてその関係性においてまた再び出会うことができる希望を私たちは主にあって与えられていることを受け止めたいのです。それでは聖書の内容に目を留めて参りましょう。

初めての方もおられますので、予めお伝えいたしますが、イエス・キリストはよく譬え話を用いて「神の国」についてお話をされました。恐らく話を聞いている人たちにその意味を深く考えさせるためであったのでしょう。人々の身近なものを用いて神の国について語られました。

イエス・キリストは言われます。「私はまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。聖書の舞台であるイスラエルではぶどうやオリーブが有名であり、人々の生活に密着していたものでした。ぶどうの木と言えばこんな木だというイメージが聞く人々の脳裏には浮かんだことだと思います。私たちは身近にぶどう畑はありませんが、それでもぶどうの木と聞くと、緑の葉が生い茂り、ぶどうのたわわな房が成っている情景を思い浮かべるのではないでしょうか。ぶどう農家の方に聞いたことがあります。おいしいぶどうを作るコツは、枝の剪定をしっかり行うことです。枝がたくさん伸びて行けば、確かにぶどうの房は豊かにとれるようなのですが、一つ一つの実に向かう栄養が分散されてしまうので、おいしい実を作るためにはしっかりと枝の手入れをすることが非常に大切だそうです。

イエスさまはご自身を「まことのぶどうの木」と言い、その手入れをする農夫がわたしの父であると言われます。しかし続けてこうも言われます。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。このように言われると、少しびっくりするのではないでしょうか。というのは、私たちがぶどうの枝であり、実を結ぶことが求められているのだとしたら、それでは私たちは果たしてしっかりと実を結ぶことができているかが気になってくるからです。もちろん言いたいことは「実を結ばない枝が取り除かれること」よりも「実を結ぶ枝が手入れをされる」と言うことなのですが、このような言葉を聞くとなんか裁かれてしまうのではないかとそわそわドキドキしてしまうのです。

果たして自分はしっかりと実を結んでいるのだろうか。それではあの人はどうだろうか。あの人は実を結んでいるに違いない。あの人は実を結んでいないように見える」。イエスさまが言われるように、「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし実を結ぶものは皆、いよいよ豊かに手入れをなさる」。と言うのであれば、このような疑心暗鬼に繋がってしまうように思います。或いはこうも思うかもしれません。「なんで自分は実を結ぶことができないのだ。私は取り除かれてしまう枝なのだろうか。あの人はいいよなぁ。神さまがしっかりと手入れをしてくださって実を結ぶことができている」。

イエスさまはこの箇所で実を結ぶ枝と実を結ばない枝があること、そこにある区別あるいは裁きのようなものがあることを語ろうとしているのでしょうか。普通のぶどうの木の話であればもしかしてそうかもしれません。というのは、先ほども申し上げた通り、枝を切り、栄養を集約させることが非常に重要になってくるからです。でも、それはそもそも枝自体が悪いというよりも、栄養を偏らせるという目的があって剪定されるという収穫者側の選び取りがあることを考えなくてはなりません。イエスさまは果たして収穫が期待できそうな枝にだけ栄養を傾け、あまり期待できなさそうな枝は切り取られる方なのでしょうか。
イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木」と言います。「まことの」という言葉は、アレーティノスという形容詞ですが、元々の形はアレーテイア、「真理」です。真理とは「隠されていない、誰の目にも明らかな真実」のことです。まことのぶどうの木とは何か。それは剪定する必要のない、全ての枝に栄養がしっかりと行き渡るぶどうの木のことなのではないでしょうか。ぶどうの木には実を結ぶために剪定が必要かもしれない。しかしまことのぶどうの木に結ばれている枝は剪定する必要もなく、すべての枝が豊かに実を結ぶことができるようになるといっているのではないかと思うのです。事実私たちが目を留めたいのは次の言葉です。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」。この「清くなる」と言う言葉は「手入れをされる」と重なる言葉であり、つまり私たちは全て既に農夫である神の手入れを受けて清くなっていると言っているのです。だからこそ、「あなたは私に繋がっていなさい」原語では「私の内に留まっていなさい」。とイエスさまは言うのです。
私たちは、枝が悪いから、つまり自分たちのせいで実を結ぶことができないと考えてしまいます。しかし神は全ての枝が実を結ぶように栄養を流してくださっているのです。
そもそも私たちが結ぶ実とはなんでしょうか。それは何かの成果なのでしょうか。行いなのでしょうか。私たちは「実」というとまさに目に見える成果を上げることのように思ってしまいます。しかしそもそもその考え方がおかしいかもしれません。何故ならば枝の頑張りで実を結ぶわけではありません。大地に根差した根っこから栄養を吸い上げ、幹を通り、枝を通って実がなるわけですが、それは枝だけで実を結ぶのではなく、むしろ栄養の通り良き管となるということが私たちに求められているということであります。それでは実を結ぶことができないのは枝が悪いと言うよりも、枝が栄養をしっかりと受け止めていないということなのでしょうか。それはあるかもしれません。私たちはイエスさまのみ言葉をしっかり受け止めているでしょうか。むしろ「わたしにつながっていなさい」。と言われるように、私たち自身がイエスさまの御言葉によって生かされていくことそのものが私たちの結ぶ実になっていくのではないでしょうか。それは立派な行いや愛の業を行うという実ではなく、私たちが神さまの愛をしっかり受けて生かされていくことであるのです。

実は私は、イエス・キリストが何故ご自分をぶどうの木に譬えたのかが気になっていました。キリスト教のモチーフの中にもぶどうの木はよく登場します。でも、ぶどうの木ってそんなに格好の良い木ではないと私は思うのです。もしイエス・キリストが神の国の譬えとして表すとしたら、もっと大きくて高くて幹も太い巨木の方が私たちにはすっきりすると思うのです。例えば私たちが想像するいわゆる神木というものは、屋久島の縄文杉のように大きく、幹も太い樹齢何千年の巨木なのではないでしょうか。西南の松も太くて大きくて格好良いと思います。しかしそれに比べてぶどうの木は、細く弱々しい木なのです。

ぶどうの木の一年のサイクルは、4月頃に新芽が出て、5月中旬頃から花を咲かせ始め、ほんの小さな実を結び始めます。そして実が大きくなった後9月頃に収穫を迎えます。私たちの想像するぶどうの木のイメージは収穫期の一番美しい場面だと思うのです。ところが、その後葉っぱが落ちて冬を迎えると、もはや枯れてしまったのではないかと思うほど弱々しく寒々しい姿になってしまうのです。つまり一年の半分はほぼ枯れ木のような姿をイエスさまはご自分の姿に譬えられたのです。

イエスさまは何故そんな木をあえて選ばれたのでしょうか。私はこう思うのです。それはぶどうの木は自らが大きくなることを目的とするのではなく、むしろその全生命力を実を結ぶことに集約させているのではないかということです。イエス・キリストはその枝である私たちが良い実を結ぶためにその自らのいのちを惜しみなく注いでくださるということなのです。

イエス・キリストはまさにその生涯の歩みの中で、そのいのちを隣人愛のために用いられました。30歳で救い主としての働きを始められ、異邦人のガリラヤと呼ばれた辺境の町に住む人々、特に病や悩みの中にあった人々、貧しさの中にあった人々、飼い主のいない羊のような有様の人々、友なき者、罪びとと見做された人々のところに出かけて行って、その状況に深く憐れまれ、まさに自分自身の事として共に苦しまれました。そして御言葉を教え、神の国の福音を語り、愛を行われました。その教えと愛の業は地域の評判になり、多くの人々に慕われました。それは正しい人々だけが救われるというような教えではなく、むしろ神はそんなあなたがたを愛しているという教えであったからです。
しかしそれがかえってあらぬ多くの妬みを買い、イエス・キリストは偽りの証しによって罪びととされ、鞭うたれ、十字架に磔にされました。しかしそんな中にあっても、イエス・キリストは、こう叫んでいます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」。(ルカ23:34)イエス・キリストは殺され、墓に葬られました。しかしその三日目に神によって復活させられ、弟子たちの前に現れ、永遠の命を示されました。私はここに神の愛、そして私たちの希望があると信じています。

私たちは今、このイエス・キリストの受難の出来事を想起する時期を歩んでいますが、特に心に留めたいことは、やはりそれに込められた愛の思い、人々に向けられた愛なのです。その愛は、出来る人とか特別な人に向けられた愛ではなく、むしろ人に誇ることなど何もない者たちに向けられた愛であるのです。イエス・キリストは「実のならないいちじくの木」の譬え(ルカ13:6-9)でこのように言っています。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

私はこの園丁の姿にイエス・キリストの愛を見ます。つまり、イエス・キリストは実を結ぶことができないような私たちのことを諦めず、愛を注いでくださるのです。しかしこの愛をこそ私たちにむけられた心の栄養として受け取っていく時に、私たちが一人一人に相応しい実を結ぶことができるのではないかと思うのです。

今日は卒業礼拝ですが、私たちはこのことに心を留めたいと思うのです。私たちは「実」を結ばなければいけないと思い、がむしゃらにやろうとすることがあります。しかし大切なのは、与えられている愛を感謝し受け取ることだけなのです。その時に結ばれるものが「実」なのです。私たちにはイエス・キリストが繋がっており、私たちはその愛を受け取っていくことだけで良いのです。その時に私たちの中から生まれてくる思いに生かされていくこと。これをイエス・キリストは望み、願っているのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。(ヨハネ15:16-17)

共に祈りつつ、新たな年度の歩みを始めて参りましょう。

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