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2023年5月14日説教全文「弟子への招き~漁師たちの冒険」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マルコによる福音書 1章16-20節

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

〇説教「 弟子への招き~漁師たちの冒険 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。新しい週の初めの日、こうして皆さんと共に礼拝できる恵みを心より感謝します。今日は心地よい晴れの日が与えられました。今週も皆さんの一週間の歩みの上に主の恵みと守りをお祈りしています。今日の礼拝には、西南学院中学校・高等学校の教職員の方々が共に礼拝に来てくださっています。私たちの西南学院バプテスト教会は西南学院のお働きのために造られた教会であります。西南学院の学生、生徒、またかつての教職員が多く在籍していますが、このように現在の学院のメンバーと教会のメンバーが共に集うことができるのが本来のこの教会の姿であることを感じ、今日はとても嬉しく思っています。また今日も初めて教会に来てくださった方、久しぶりの方がいらしてくださっています。心より歓迎申し上げます。皆さまにはそれぞれ教会に来ることになったきっかけがあると思いますが、その心の思い、あるいは祈りに主なる神さまが応えて下さいますようにお祈りします。

さて私たちは今、キリスト教の暦の「復活節」の時を歩んでいます。十字架の死からよみがえったイエス・キリストが弟子たちと共に過ごされた40日の記念の時です。この期間、イエス・キリストは神の国について弟子たちに語られていたようです。ですからこの復活節を覚える私たちもこの時、イエス・キリストが語られた神の国の福音を受け取って参りましょう。

聖書の箇所に入ります。今日の箇所は、イエス・キリストは、福音宣教の第一声となる「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語り始めた後、ガリラヤ湖の漁師たちを弟子に招いています。しかし、この箇所は非常に不思議な箇所でもあります。もう一度聖書の箇所を読んでみましょう。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」。

今日の個所には網を打っていたペトロとその兄弟アンデレと出会い「私についてきなさい。人間を取る漁師にしよう」と言われたとありますが、なぜ、何を見て、彼らに何を感じて彼らを弟子にお招きになったのかという最も大切なことが書かれていません。また、声をかけられた弟子たちもまた何を思い、どういう心の変化があって、イエス・キリストの言葉に従っていくことになったのでしょうか。
しかも、これが福音宣教開始後の最初の出来事になることも不思議だと思います。というのは、彼らは初めて会ったであろうイエスさまの言葉に聞き従い、直ちについて行ったからです。私たちは「知らない人にはついて行ってはいけません」と教えられて育ちましたが、彼らは知らないイエスさまについて行ってしまったのです。何故そのようになったのか。この箇所からマルコが伝えようとしていることを、今日の聖書の解き明かしとしてお話ししたいと思います。

実はこの漁師が弟子になるという聖書個所は、マタイ福音書とルカ福音書にも書かれています。マタイによる福音書にはほぼ今日のマルコと同じことが書かれています。でもルカによる福音書は、今日わたしたちが読んだ聖書個所に比べると、より具体的なストーリーが記録されています。
実は、聖書には同じ物語でも福音書によってちょっとした違いがあります。でもそれは、どちらが正しくてどちらが間違っているかと言うことではありません。むしろ福音書それぞれを読み比べていくときに、福音書それぞれがこの物語から伝えたいと思っている内容や強調点に違いがあることに気づくのです。一つ一つを是非丁寧に読み、比べていただきたいと思います。

改めて言いますが、マルコによる福音書では、福音宣教のイエスさまが通りがかりに弟子たちが網を打っているところをご覧になって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招き、彼らがついて行ったということしか書かれていません。何故声をかけたのか、ついて行ったのかは不明です。
ところがルカ福音書の物語では弟子になっていく過程が明らかになっています。ルカ5章1-11にあります。聖書がお手元にある方はどうぞお開き下さい。そこでは少し背景が異なっています。イエスさまが海辺を歩いているとたくさんの人々が神の言葉を聞くために押し寄せてきています。つまりイエスさまのお働きが始まっていて既に噂になっていたという状況の違いがあります。人に押しつぶされないようにするためでしょうか、ペトロの舟に乗ってお話を始められたというのが弟子たちとの出会いの始まりです。

話が終わった後、イエスさまはペトロに「網を降ろしてみなさい」と言われます。ペトロはびっくりしたと思います。彼らはそれまで網を洗っていました。つまり、もう仕事はおしまい。あとは帰るだけ。しかもその日は夜通し苦労したけれど何も取れなかったという事情から考えると、恐らくとても楽天していて早く帰りたかったであろうことも考えられます。でもペトロは、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言い網を降ろしました。その結果、なんとおびただしいほどの魚が取れたのです。ペトロはこう言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)。

なんでペトロは自分が罪深いと感じたか。それには理由があります。先ほど、イエスさまのところに多くの人々が集まってきたという状況を説明をいたしました。今日の箇所の前に、イエスさまは既に汚れた霊の追い出し、多くの病人の癒し、諸会堂での宣教を行っていました。その内の一つ「病人の癒し」に関してルカ4章38-40節はこのように記しています。
「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた」。
シモンとはペトロのことです。つまり、イエスさまは、ペトロの姑を癒していたのです。そして人々は、姑の高熱は癒されたことを知って、この人なら私のことも癒してくれるに違いないと思い、イエスさまの元に来たのです。しかしこう考えると一つの問題も出てきます。つまり、ペトロは実はイエスさまに出会う前に、自分の姑を癒してくれたのがイエス・キリストであることを知っていた可能性があるということです。しかしそれを知っていたのにもかかわらず、イエスさまを信じようとはしなかったということです。

会堂の仲間でさえ知っていた姑の高熱と癒しの奇跡をペトロは、同居していたかどうかはわかりませんが、同じ町に住みながら知らなかったはずはないと思うのです。イエスさまが癒してくださった。もしかして、その恩があったからイエスさまを舟に乗せたということなのかもしれません。でも彼がイエスさまを信じていなかったのは、イエスさまから「網を降ろしてみなさい」と言われたときにの反応からも明らかです。「しかしお言葉ですから」という言葉に、不平や不満が見えます。漁師のプロとしてのプライドもあったでしょう。
しかし、彼はイエスさまの言葉を信じていなくても、その招きに従った時に、自分のこれまでのプライドや経験では考えられない出来事に出会って行ったのです。彼が感じた罪深さというのは、イエスさまの言葉を信じていなかったにも関わらず、従っていった時に与えられた出会いによって気づかされたものであります。つまり、信仰の始まりとは、信じていなくても、一歩その言葉に聞き従っていくときに与えられるものであるということが分かります。
このように読んでいくと、ルカによる福音書では、漁師たちが弟子になっていくストーリーが明らかです。でも、それに比べてマルコ福音書には、唐突すぎる出会いと招きしか残されていません。

何故彼らはイエスさまについて行ったのでしょうか。マルコによる福音書では何を伝えようとしているのでしょうか。多くのことが考えられます。例えば、まずは、イエスさまの言葉には初対面でも人の心を動かすそれほどの力があったのではないかということです。彼らに直接語られた言葉は「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしよう」と言う一言のみです。でもこの言葉が何らかの形で彼らの心に響いたのでしょう。
彼らの状況を考えてみたいと思います。漁師という仕事は彼らにとって生活の中心であり、生活費を得る手段でもありました。当時の職業は大工の子は大工になるというような、家族の中で継承されていくものでありましたので、彼らは漁師の子として漁師をしていたわけです。しかもヤコブとヨハネは親元で一緒に働いている状況があります。雇い人がいたとありますから、比較的大きな漁師家族だったのではないかと思います。
そんな中で漁師を辞めるということは、親や家を捨てていくことに直結します。大変大きなリスクを伴う変化です。しかもペトロには姑がいたということは結婚していたようですので、生活の糧を捨ててついていくなんてことは、一家の大黒柱の責任問題にもなります。彼らが何歳だったのかははっきりとはわかりませんが、イエスの言葉が響かなければ、そのような変化は起こらないと思うのです。
ですから、イエスの言葉に彼らは捕らえられた。福音としてその言葉がなぜだかわからないけれど、響いたと言えるでしょう。「人間を取る漁師にしよう」という言葉に何か秘密があるのかもしれません。この言葉は、実はエレミヤ書16章16節の預言が関係しているとも言われます。こういう言葉です。
「見よ、私は多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる」。このエレミヤ書の文脈は、バビロン捕囚というイスラエルの破滅の後、70年の後に帰還させるという約束の中で、神が多くの漁師を遣わしてイスラエルの民を約束の地に帰らせるという希望の言葉でありました。これがイエス・キリストの福音宣教がその預言の成就であるとすると、漁師たちを選ばれたのは必然だったのかもしれません。しかし、彼らがこの言葉を知っていたかどうかはわかりません。

それでは何故この漁師たちに声をかけたのかということについても、イエスさまはペトロとアンデレが網を打っているところを見ていましたから、彼らが優秀な漁師であることを見抜いて声をかけたのではないかとも言われます。福音宣教には、体力に自信があり、網ならぬネットワークを用い協力してやっていくものですから、それにふさわしい弟子たちだったのかもしれません。とはいえ、その後の弟子としての姿を見てみると、額のある立派な人物だったとは思えませんし、勘違いばかりしているシーンを明らかにしています。しかもイエスさまが能力で人を選ぶようにも思えません。ですから弟子の基準として適切な理由付けは依然として不明です。
ではわかることは何か。それは、「イエス・キリストは、彼らに声をかけられ、彼らはその言葉に従った」というただの一点です。そこには理由など存在しません。つまりイエス・キリストの言葉こそ大切なのであり、その言葉に動かされていくことが重要だと言うことです。他の理由はそこにはないのです。

先週の聖書個所でイエス・キリストが荒れ野でのサタンの誘惑を退けられた時、こう言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。「あなたの神である主を試みてはならない」。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。

これは、神の言葉によって生きること、神の言葉を試さずに信じること、神のみに仕えて生きることの宣言です。そして、今日この言葉が弟子たちに語られました。つまりその言葉が実現していくのです。彼らは神の言葉と出会い、その言葉に応答しました。彼らが何かをわかっていたとか、どういう理由があったかとかそういうことではなく、その言葉に捕らえられるということなのです。
御言葉に出会うとは、そういうことだと思います。どういうわけか心に残る言葉があります。理解することや信じることもできないけれど、しかし御言葉に出会い、その言葉と共に歩んでいくことから始まっていくのです。そのようなメッセージをこの箇所から受け取るのです。

「人間を取る漁師」とは何でしょうか。魚を取る漁師は普通です。魚は人間のために提供されます。人間を取る漁師とは、人間を神のために取る存在なのでしょうか。実は聖書の時代、海とは死の象徴でしたので、死の力から人を引き上げたのだとも言えるかもしれませんが、むしろ人間を神の言葉で満たすための働きをする漁師、パンだけではなく神の言葉によって人を満たす働きをする存在が人間を取る漁師なのではないかと思います。人間の心を満たすもの。それが神の御言葉であるからです。神は、今日わたしたちにも言葉を差し出しています。その言葉に応答して参りましょう。

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