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2023年5月7日説教全文「 霊の導きとサタンの誘惑 」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マルコによる福音書 1章12-15節

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

〇説教「 霊の導きとサタンの誘惑 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。新しい週の初めの日、こうして皆さまと共に礼拝できる恵みを心より感謝します。今日はゴールデンウィークの最終日でもあります。皆さまは楽しい日々をお過ごしになられたでしょうか。明日から学校や仕事が再開しますが、皆さんの一週間の歩みの上に主の恵みと守りをお祈りしています。

私たちは今、キリスト教の暦でいうところの「復活節」の時を歩んでいます。十字架の死からよみがえったイエス・キリストが弟子たちと共に過ごされた40日の記念の時です。この期間、イエス・キリストは神の国について弟子たちに語られていました。私たちもこの復活節の時、弟子たちと同じように、イエス・キリストが語られた神の国の福音を受け取って参りましょう。

私たちは4月からマルコによる福音書を読み進めています。今日の箇所はイエス・キリストが荒れ野でサタンの誘惑を受けられた箇所です。12-13節を読みます。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」
誘惑は試みとも訳せますが、英語ではtempt、人間の本能や欲望に働きかけて心を奪うことですので、恐ろしいというか抗いがたいような誘惑であったと思います。イエス・キリストは何故このような誘惑を受けたのでしょうかということも気になることですが、私たちがもっとも気にするのは、それではサタンの誘惑とはいったい何であったのかという内容です。或いは、この四十日に及ぶ誘惑を果たしてイエス・キリストはどのようにかわしたのか、乗り切ったのかと言うことだと思います。荒れ野とは何も自分を助けるものがない場所、孤独の場所であり、命の危険にさらされる場所です。空腹もあったでしょう。極限状態とも言えるかもしれません。そのような状態で人間の欲望や本能を誘うような誘惑があったら、もう簡単に乗っかってしまうのが私たちだと思います。しかしマルコによる福音書は極めてコンパクトにしかこの出来事について書き残しておりません。

このサタンの誘惑について非常に細かく記しているのがマタイによる福音書です。ちょっと長いですが、聖書をお読みします。マタイ4章1-11節です。

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」

マタイによる福音書は、実に鮮やかにサタンの誘惑の内実を明らかにしています。つまりサタンの誘惑は3つあり、まずは「石をパンに変えてみろ」ということでした。これは自分の空腹を満たすために神の力を使えと言う誘惑です。また「自分の身の守りのために天使を呼んで神の言葉を試せ」とも言っています。最後に「私にひれ伏したら国々の繁栄をすべてお前に与えよう」と言います。まるでゲームに出てくる魔王の言葉のように思えます。私たちはこのような誘惑を避けることは出来るでしょうか。考えるまでもなく、難しいことだと思います。何故ならば、飢えたくない、守られていたい、豊かになりたいという誘惑は、私たちが生きる上で必要なもの、何とかしてでも得たいと思う目標のようなものであると言えるのではないかと思うからです。

しかしながら、イエスはこれらの言葉を、神の言葉を引用することによって自分を守っています。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである。」「あなたの神である主を試してはならない。」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」サタンの誘惑が、神の力を自分のために使わせること、神の言葉を試させること、私にひれ伏せということ。つまり神以外のものに心を留めること、神から離れさせる目的であったとすれば、やはり神を神とすること。神の言葉に立つことで誘惑に打ち勝つということがここで大切なメッセージであります。

実は聖書の中にもう一人、サタンからの誘惑を受けたと言われる人がいます。旧約聖書:創世記のエバです。厳密にはサタンからではなくヘビからなのですが、キリスト教の伝統上、そのように解釈されることがよくあります。エバは神から善悪の知識の実を食べてはいけないと言われていたにも関わらず、その言葉をしっかりと理解しておらず、蛇に唆され、木の実を取った食べてしまいました。創世記1:6にはこのようにあります「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。」これがまさにtemptの誘惑に魅入られてしまっている表現であります。アダムとエバがその実を食べた結果、人は罪あるものとされました。罪とは「的外れの生き方」をすることだと先週お伝えしましたが、まさに罪とは、神の言葉から離れていくこと。人の生き方として大切なことは、神の言葉から離れることなくその言葉に立つことだと感じさせられます。イエスさまが神の言葉を引用して自分を守ったことは、そういう意味でも大切なメッセージです。私たちには神の言葉が必要なのです。ところが、私たちは神の言葉より違うものに誘惑されてしまうことが実に多いのです。

でも、私はこれはある意味仕方のないことだとも思います。何故ならばイエスさまが受けたこの三つの誘惑とは、実は私たちにとって極めて魅惑的なものというか、メシア、救い主と呼ばれる人物に求めることでもあるのではないかと思うからです。例えば「石をパンに変えること」は、人々の空腹を満たす能力にもなります。「天使の守りを試せ」とは、人々の安全を守れということになります。「国々の繁栄を与える」とは、言い換えれば有り余る富を持ち人々に還元することができるということだからです。
そういう意味でもサタンの誘惑は狡猾です。私たちは飢餓の地域のニュースを見るたびに祈ります。それは神が人々の空腹をみたすようにという祈りです。交通事故のニュースを見るたびに、神の守りを祈ります。有り余る富。もしそれがあれば、貧困にあえぐ人たちを守ることができるのではないかと思います。およそ私たちが神に求めるものが、そのような力なのではないかと思います。

しかしイエスさまは、そのような力を求めることはなさらなかったのです。つまり、イエスさまは、この公生涯と言われる働きに先立ち、私たちが救い主に求めるような能力を放棄したのです。言い換えればイエスさまは神の子でありながら、その神の子として力を用いない決断をしたのです。それどころかかえって誘惑の中で神の言葉にのみ立つという、まるで無力な姿を明らかにしています。その姿は、困難の中、困窮の中、荒れ野と言う孤独、誰も助けてくれず孤立している姿です。傷つき困窮し誘惑を受け狼狽する姿。しかしそのような中で神の言葉に寄りすがって立つ姿です。これは私たちの日常の姿と重なります。しかしイエス・キリストは神に祈りつつ、隣人に寄り添い、伴い、慰め励ましをおこなうのです。私たちは奇跡的な能力を求めます。「十字架から降りてこい。それを見たら信じてやる。」(マルコ15:32)と言いたくなります。しかし、イエスさまはそれを行うことをなさらずに、人々の罪のために十字架に架けられ殺されました。ところがそのイエスの姿を見て、ローマ兵は言うのです。「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)イエスの救い主の姿、それは能力に表されることではなく、むしろ存在や関わりの中で表されることです。だからこそ、まさに「私たちの救い主」になるのではないかと思うのです。そしてそこに起きるのが奇跡というものなのではないかと思うのです。誰かが起こすものではなく、 そこに起きることが奇跡なのです。

マルコによる福音書に戻ります。ここではサタンの誘惑の内容については明らかではありません。しかし興味深いことが一つあります。それは、イエスさまが荒れ野にやってきたのは、「霊」によって送り出されてきたとあることです。つまり霊がイエスさまにこの誘惑を受けるように導いてきたのだと言うことです。私たちは「われらを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」と祈りますが、受ける必要のある誘惑もあるのだというのでしょうか。ちなみに、送り出すと言う言葉は「エクバロー」というギリシャ語ですが、送り出すというよりも投げ出された、追いやられたという印象に近い言葉です。ですから、この誘惑はイエスさまにとってウエルカムのものであったとは言いませんが、しかし、公生涯を始めるイエスさまにとって大切な出来事であったのだと思います。

マルコの文脈の中で特徴的なことは、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と書かれていることです。野獣と一緒にいたが天使たちが仕えていた。どのような情景が想像できるでしょうか。野獣が襲い掛かってこようとしていたけれど天使が守っていたというようなイメージでしょうか。旧約聖書ダニエル書には、神が、獅子の穴に投げ入れられたダニエルを守るために天使を送り、獅子の口を閉ざした(ダニエル6:23)と言う出来事があります。
でも、恐らくそのようなイメージでもないと思います。
イザヤ書11章にはメシア誕生の預言が記されています。そこの一節にこのような言葉があります。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」(イザヤ11:6-10)

マルコが今日の箇所で伝えようとしていることは何か。それは恐らく、イエス・キリストの神の国とはどういうところか、と言うことです。そこは全ての造られたものたちが共にいることができる場所であると言うことです。私たちは思います。野獣は恐ろしい、凶暴だ。共に生きることは出来ない。このような感覚を私たちは持っています。しかし、イエス・キリストのおられる場所、神の国というものはそのような者たちも共に生きることができる交わりなのです。サタンの誘惑とは、もしかしてそのような構造を作ることにあったのかもしれません。野獣の力、弱肉強食が是とされる中で、弱い人が失われる構造です。その中であなたはどのような選び取りをして生きるのかということです。

しかし、イエス・キリストがこの誘惑のただ中で表されたものは、全てのものたちが共に生きることができる神の国の希望を示すことでした。それも荒れ野という最も希望がないような場所で示されたのです。それがイエス・キリストの福音であり、復活の出来事によって明らかにされたのではないでしょうか。暴力は確かに存在する。しかし福音はすべてのものを包むものである。だから、あきらめずにたゆまずに進んでいくこと。その時に、神の国が実現するのではないでしょうか。

14節以降、バプテスマのヨハネが捕らえられた後、イエス・キリストの福音宣教が始まっていきます。「神の国は近づいた。」何故近づいたのか。それは神の一方的な恵みである。私たちが悔い改めた結果ではなく、神の差し出されている恵みを受け取る方向転換。神の言葉に生きるという立ち返りのメッセージです。私たちはこの恵みを受け取り、歩みだして参りましょう。

 

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