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2023年7月2日説教全文「希望はわたしたちを欺くことはない」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 ローマの信徒への手紙 5章1~5節

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

〇説教「 希望は、わたしたちを欺くことはない 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。日本バプテスト連盟では6月最終週と7月第1週を神学校週間としていますが、私たちの教会では、本日と次週の礼拝を神学校週間主日礼拝として守ります。私たちはこの日に、西南学院大学神学部、九州バプテスト神学校、東京バプテスト神学校の三つの神学校、及び他派の神学校で福音宣教者となるために献身し、学んでいる神学生を覚え、祈り支えていきたいと思います。
現在神学校に通われている方々の情報については、ロビーの掲示板に「神学校週間に寄せて」というお便りが張り出されていますので、是非そちらをご覧いただきたいと思います。また次週9日の礼拝には、現在西南学院神学部で学ばれている石原誠神学生が説教奉仕に来てくださいますので、なまの神学生との出会いを楽しみにして参りたいと思います。次週は礼拝後に「みことばのひろば」が持たれますので、是非神学生に聞いてみたいことなどありましたらご参加いただき、交わっていただければ、励みになると思いますので、どうぞご予定ください。

さて、今日の説教の聖書個所に関して色々と迷ったのですが、やはり神学校週間ですので、現在読み進めているマルコ福音書からではなく私の献身に関するお話をさせていただこうと思います。選ばせていただいたローマの信徒への手紙の箇所は、私の献身に直接関係する箇所と言うわけではないのですが、私の信仰形成の中で、とても大きな意味合いを持った聖書個所です。今日はわたし西脇慎一が、どうして牧師・福音宣教者として献身したのかということを合わせてお話ししたいと思います。多分皆さんの前でこのお話をするのは初めてだと思います。実は私は説教で聖書箇所を離れて個人的なことをお話しすることは控えています。それはあくまで個人的な出来事は一般化しにくく、必ずしも共感できるとは限らないものであるからであり、聖書箇所のみ言葉こそが私たちの心の糧となっていくものであると信じているからです。ですから今日は特別編と思って聞いていただければと思います。

もう一度聖書個所をお読みします。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。そして希望はわたしたちを欺くことはない」。この個所を愛唱聖句にしておられる方も多いと思います。私にとってもこの個所は、自分の信仰の原点であると感じています。私たちは信仰を持つまでに色々な出来事があります。まずは教会に来ることになったきっかけがあります。そして教会生活を続け、キリストを主と信じバプテスマを受ける決心に至る信仰への出来事が起こります。その出来事と並行して、私はこれをもって主に仕えていくという献身の思い、それは牧師への献身だけを現わすことではありませんが、そのようなことをそれぞれ考えることがあります。

私はもともと、東京の調布バプテスト教会に通うクリスチャンの家庭に生を受けました。教会との出会いは、生まれた時からで、かごに入れられて教会に来ていた時から始まっています。幼少期には教会学校で聖書について教わりました。神さまの存在については、自然と信じることができました。自分が今生きていることは神さまの愛の内にいると言うことも感じていましたし、神さまは私たちを守り導いてくださる方であると言うことを信じてきました。しかしイエス・キリストと自分の関わりが良くわかりませんでした。特に2000年前に十字架に即けられ殺されたことが今を生きている私の罪のためであったと言うことが、なんだかよく理解できていなかったのです。しかしながら聖書理解はそのままに、なんとなく周囲の期待のようなものを感じ、中学校一年生の時にバプテスマを受けることになりました。私の信仰告白は、神さまを信じれば神さまが守ってくださる。そして祝福と恵みを与えてくださるという単純なものだったと思います。

しかし、そのような単純な信仰が木っ端みじんに打ち砕かれる出来事が起こりました。それが私の父の会社の倒産という出来事でした。私が高校2年生の時でした。神さまを信じたら神さまは守ってくれるのではないのか。いやいや信じる者を守らない神なんて訳が分からない。そんな神、信じたって意味がない。もしかして私はキリスト教に洗脳されていただけだったのではないか、そんな宗教からは早く離れた方が良いと私は思いました。事実私はキリスト教は無意味で無力だと思いましたし、一時期は教会から離れて生きようと決めました。

ところが、そんな状況になっても父と母は神さまへの信仰を忘れることがなく、むしろ神さまを生活の中心に置いていました。こういうとやばい状態、宗教にのめり込んでいるように聞こえるかもしれません。しかし、今振り返れば、両親はそんな状況に合ってもなお信仰を捨てなかったのは、神さまの守りというものが、経済的な困難ぐらいのことで潰えてしまうものなのではなく、もっと根源的な部分の守りであることを知っていたからだと思います。当時バブル社会の崩壊を受けて、夜逃げや無理心中というニュースがちらほらと報道されていました。私たちも正直そうなっていてもおかしくはなかったと思います。しかし、そこから守られたのは、両親のその信仰のおかげでした。困難は確かにある。きつい現実はあるけれど、それがあるのは神が私たちを見捨てたからではない。むしろ困難が忍耐を生み、忍耐が練達を生み、練達が希望を生んでいたのだと思いました。

私はその時、これまで信じてきたキリスト教の信仰というものが、ガラッと大きく変わる体験をしました。それはわたしがそれまで信じてきたような、信じる者に祝福や成功を与える、いわゆる勝利と繁栄の神の姿から、むしろ苦しい状況に置かれている人々に寄り添い、慰めを与え、励まし、再び立ち上がる力を与える、慰めと伴いの神、インマヌエルの神の姿への変化でした。そうなったとき、わたしは初めてイエス・キリストという方の愛が分かりました。それは正しい人たちを祝福し守られる愛なのではなく、むしろ罪びとと見做されたり、貧しさの中にあることが生まれや行いが悪いからだと罵られたり、病や困難も本人や家族のせいだと後ろ指を指されたりしているような者たち、自分で自分自身を肯定することさえできないような私たちに、神はあなたを愛している、あなたは大丈夫だ、共に生きて行こうと招く神の言葉でありました。

私はそれまで悪いことが起きたら、「それはあなたの責任だ、信仰が足りないからだ、行いがないからだ。神は信じる正しい者のみを祝福されるのだ」と純粋に、そして安易に、無批判的に思っていましたが、しかしそれは聖書に登場するファリサイ派・律法学者そのものでした。そんな自分自身に罪を感じました。しかし同時に信仰の持つ強さというものを感じました。私たちには何もなくなった。しかし神が共におられるから大丈夫なのだ。この信仰があることで希望を絶やすことなく持ち続けることができる。これがわたしが自覚的にイエス・キリストを主と信じた信仰体験です。

しかし、それは直接的に牧師への献身と言うことにはなりませんでした。当時私が持っていた「牧師像」は日曜日にお話しする人であり、頭の良さそうな人であり、近寄りがたい存在でした。牧師が日曜日以外に何をしているのか、その仕事内容がよく分からなかったと言うこともあります。ですが、神さまのためには働いていくことを願っていたので、私はクリスチャンカウンセラーになりたいと思い、東京三鷹にあるルーテル学院大学に入学しました。そこでのルーテル派の牧師の卵たちとの出会い、他派の教会に通う人々との出会いの中で、教会の働きについて関心を持つようになりました。しかし牧師ではない形で教会で働きたいと言う自己中心的な献身の祈りでした。

大学卒業後はカウンセラーになるよりも教会のことをもっと知りたいと思い、東京連合の青年会などに精力的に参加していました。そんな時、ある牧師から声をかけられました。「長崎バプテスト教会が若者に関わるスタッフを求めている。紹介しても良いか」。本当に不思議な導きだと思いました。わたしなんてどこの馬の骨かわからないような人には無理だろうと思いましたが、私の願い通り、牧師ではなく教会のスタッフとして、教会で働くことになりました。長崎教会では教会主事という立場で4年の間、教会事務、牧師秘書、青少年担当の働きを担いました。当時の牧師は友納靖史先生でしたが、私の中でとても大きかった出来事は、すぐ近くで牧師の働きを見させていただき、牧師の働きの豊かさ、大切さを感じ、牧師のイメージも変えられたことでした。長崎教会の人々の祈りと支えもあり、私の限定的で自己中心的な祈りは、すべては御心のままにという祈りに変えられました。その後教会推薦を頂き、西南学院大学神学部へ入学することになりました。2010年、30歳の時です。その後2014年から神戸へ、そして昨年から福岡に戻ってくることになりました。

振り返ってみれば信仰体験も献身へ思いも、本当に不思議な出会いによって私は導かれてきたと思います。箴言3章3:5-6にこんな言葉があります。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。
主は私たちの道筋をまっすぐにしてくださるとありますが、これはもともとまっすぐな道を神さまが用意してくださると言うことではありません。私たちの道は常に曲道、坂道、落とし穴、ぐにゃぐにゃぼこぼこしています。突風や逆風だって吹きますし、時にまさかというような出来事だって起きるわけです。わたしたちの道はまっすぐではありません。しかし、神に信仰をおいて歩んで行ったとき、振り返ってみたら私たちの道筋は本当にまっすぐになっていると言うことがあるのだと思います。ポイントはそのときにはわからないと言うことです。嵐の中を歩んでいるときに、私たちの道がまっすぐであるとはさらさら思わないものです。しかし、そんなわたしたちに伴っておられるのが、イエス・キリストであるのです。
使徒パウロはこう言います。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。(Ⅰコリント10:13)
私たちには到底耐えられないと思われる試練があります。避けられない困難、全然ウェルカムとは思えない苦しみがあります。できればそんな出来事からは身を避けたいと思います。しかし、その苦しみがないと気づかない気づきというものもあります。

実はここで出てくる「逃れる道」というのは、その苦難をエスケープして避ける道のことではなく、わたしたちがその苦難をしっかり最後まで歩んでいくことができるように、私たちを守り支えてくれる存在がいる。それがイエス・キリストだと言うことをパウロは語っているのです。

認めなくてはなりません。私たちには世で苦難があるのです。神を信じていても苦しいことがあります。私たちにはそれぞれ言葉にならない苦しみ、痛みというものがあります。振り返ってみてもあれがなければどんなに良かっただろうかと思うこともあります。逃れたくても逃れられない過去があります。闇に飲み込まれそうになることがあります。しかし、闇が深ければ深いだけ希望という光が輝くのです。イエス・キリストが共におられるからです。永井隆博士が「どん底に大地があり」と言ったように、どんなに深いどん底に陥ったとしても、希望は確かにあるのです。その希望は私たちを欺くことはありません。イエス・キリストを信じると言うことは、その希望に生きて行くと言うことであります。時々に応じて語られる神の言葉を心に留めて生きて行く時に、私たちは苦難の中に在ろうとも、それを忍耐、練達、希望へと変えていくことができるのです。その希望は見なければ終わってしまうものです。しかし、信じた時には絶望に終わることなく、わたしたちを欺くこともないということを心に留めていきたいと思うのです。それがイエス・キリストの伴いなのです。
イエス・キリストこそ私たちの望みであり、わたしたちの希望です。イエス・キリストはこのように私たちを招きます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。(マタイ11:28)
私は、このイエス・キリストをこそ、この悩みに満ちた社会の、命に至る道として皆さまに証しし、このイエス・キリストの言葉に共に生かされていきませんか、と招いていきたいと思うのです。神が私たちに願っておられるのは、私たちが苦しみに落ち込み、悩み塞いでしまうことではなく、重荷を下ろし、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することができることなのですから。共に主の御前に私たち一人一人の心にある重荷を下ろし、希望を頂くためにお祈りして参りましょう。

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