ニュースレター

2023年1月22日説教全文「誰にでもタラントンはあるのだから」牧師:西脇慎一

説教のダウンロードはこちらから(PDFファイル)

〇マタイによる福音書 25章14~30節

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』」。

〇説教「 誰にでもタラントンはあるのだから 」

みなさん、おはようございます。今日もこのように共に礼拝堂で、またオンラインを通して共に礼拝を守ることができることを神様に感謝します。聖書のみ言葉を心の糧として頂いて新たな一週間を歩んで参りましょう。西南学院教会では来週29日に総会が開催され執事・監査選挙が行われますが、私たちバプテスト教会は特別な人にすべてをお任せする教会ではなく、教会員一人一人がそれぞれ神より与えられた賜物を分かち合っていく教会であり、それを通して福音宣教が広げられていく教会でありますので、今日はタラントンの譬え話をしたいと思います。

そして来週の予告になりますが、来週の礼拝ではこの「タラントンの譬え」によく似たルカ19章の「ムナの譬え」からメッセージをしたいと考えています。これら二つのお話は、場面設定はそっくりです。「ある時、主人が出かけることになりました。主人は出かける前に僕たちに財産を分けていきました」。という出だしで始まっています。ところが読んでみると細部が違っています。まずタラントンとムナというお金の単位の違いがあります。また分け与えられた僕の人数もまた異なります。つまり、同じ話のようだけれど、伝えようとしているメッセージは異なるということなのです。それでは、今日の「タラントンの譬え話」は何を語ろうとしているか。主人である神は何を私たちに与え、私たちにどのように生きるように招いているかを共に考えて参りたいと思います。
お話をもう一度簡単に振り返ってみましょう。ある家の主人が出かけることになりました。大変な資産家だったようで、その家には三人の僕がいました。主人は留守の間、僕たちに財産を預けています。主人は僕たちを信頼していたので、財産を運用させようとしたのです。ある人は5タラントン、ある人は2タラントン、ある人は1タラントン預けられました。どのように査定したのかはわかりませんが、主人は僕たちに任せる財産を均一にではなく、「それぞれの力に応じて」財産を任せられました。ここに一つのポイントがあります。僕はこれをどう思ったのでしょうか。主人からしてみれば、彼らにチャンスを与えたのだと思います。ところがこの僕たち3人の受け止め方は一緒ではありませんでした。5タラントン預けられた僕と2タラントン預けられた僕はそれぞれ預けられたものを用いて商売を始めました。しかし1タラントン預かった僕は、穴を掘って主人の金を隠しておいたのです。

かなりの日数が経ち、主人が帰ってきました。主人は僕たちを集め、預けたものがどうなっているかを確認しようとしました。5タラントン預けられた僕は他に5タラントン儲けました。2タラントン預けられた僕も他に2タラントン儲けました。主人はそれを見てこう言います。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。
ところが、1タラントン預けられた僕は、隠しておいた1タラントンを差し出して言います。彼の言葉を要約すると、「失敗してお金を減らしてしまうのが怖くて、隠しておきました。どうぞ、預かっていたものをお返しします」。ということでした。それを見て、主人は言います。「怠け者の悪い僕だ。それなら、私の金を銀行に入れておくべきだった。そうしておけば、利息付きで返してもらえたのに」。そして最後に言います。「だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。

みなさんはこの譬え話をどう受け取っているでしょうか。これが天の国の譬えであるというのですが、私は主人の最後の言葉にぞっとするのです。天国はこんなところだということはつまり、やはり神は自分の思いを汲み取り、成功する人は大切にして天国に行けるけど、そうでない人は追い出されてしまうということなのでしょうか。主人の姿はおよそ愛なる神には見えません。キリスト教の福音の根幹は、すべての人のいのちが尊い、どんな人でも神に愛されているというGood Newsのはずなのに、なんかうまく期待に応えてやらないと追い出されてしまうみたいな話を聞くとぞっとするわけです。キリスト教の理想から考えれば、みんなが丸く収まる結末が良いと思います。例えば「主人は、1タラントンを差し出した僕を叱ったが赦し、みんなで慰労会を開いた」という結末ならいいと思うのです。ところが今日の箇所の結末を見ると、そうはなっていません。天の国から追い出される人がいる。果たしてそれが天の国なのでしょうか。もしそうだとしたら、そんな国は、今私たちが生きている社会と何ら変わりはありません。成功する者はますます富み、貧しいものは更に貧しくなる。うまくやれる人はいいけれど、やれない人は結局のところ、見捨てられていく。世知辛い世の中と一緒です。それが神の国なのでしょうか。私たちはこの譬え話をどのように読むべきなのでしょうか。

ひっかかる問題箇所はいくつもあります。まず1タラントンの僕は何故、主人の期待に応えようとしなかったのかということです。ここには、彼の言葉から主人への不信感や恐怖が感じ取れます。この主人が本当に厳しかったのかどうかはわかりませんが、少なくとも彼自身はそう思っていたのです。もしかしたら彼は1タラントンしか預けてもらえないという評価も厳しさとして受け止めていたのかもしれません。また、他の人と比べられて預けられたタラントンが少なかったということが彼の心を傷つけていたことは十分に考えられます。もし私たちならどう思うでしょうか?主人に信頼して預けられたことを喜ぶでしょうか。それとも、他の人との差に目を向けてしまうでしょうか?実に、人と比べてしまった時、与えられた恵みは苦痛に変わり、目を背けたくなる重荷になってしまうのです。
でも、その気持ちはわかるように思います。そもそもこの主人は何故、このようなスタートの時点から区別をしたのでしょうか。やはりどうしても他の人との差を感じます。劣等感が騒ぎ、気持ちよく働くことはできません。何故、主人は彼らに対して平等に接しなかったのでしょうか?
実は、来週お話しする「ムナの譬え」は10人の僕に平等に1ムナというお金を渡して商売をさせるという話になっており、不公平感は解消されています。そしてある僕は5ムナもうけ、ある僕は1ムナだけというストーリーになっているのです。でもよくよく考えるとスタートラインが一緒で儲けが異なるということは明確に努力自体が問われているようで、それはそれできついことのように思えます。

今日の聖書個所では、そもそも主人が不平等なのだということに目を留めたいと思います。つまり、神は一人一人に違ったタラントンを与えられるのです。それは量が多いか少ないかではなく、わたしたち一人一人が違いを与えられているというメッセージなのです。主人は僕たちにそれぞれの力に応じて、タラントンを与えられました。それについて不平不満を言ったところで始まりません。わたしたちが心に留めたいことは、実に神は不平等ではあるけれど、公正な方であるということなのです。神は一人一人に漏れなく必要なタラントンを与えてくださっているからです。このタラントンという言葉は、実は英語のタレントという言葉の語源で、能力とか才能という意味があります。私たちが心を留めたいのは、任せられた財産の量ではありません。その人たちを見て、彼らに相応しいタレントを預けて行ったということなのです。ですから、言い換えれば大切なのは能力の数の差なのではなく、個性の違いなのです。
とはいっても、才能溢れる人になりたいと思います。能力だって少ないより多くあった方が良いに決まっています。やっぱり神は不公平だと思います。私は劣等感が強くひがみっぽいので、このように単純に考えてしまいがちです。しかしよくよく考えてみると、果たして数多くの能力があれば幸せにつながるのでしょうか。主人はこう言います。「少しのものに忠実であったから多くのものを管理させよう」。どういうことでしょうか。私はこう思うのです。数々の豊かな才能を与えられる人はいるかもしれません。羨ましくも思います。でも人によってはその才能をうまく生かすことができず、かえって器用貧乏で終わってしまったり、宝の持ち腐れになってしまったりするかもしれません。それよりはむしろ、たった一つの取り柄しかなかったとしても、その取り柄を極めて成功する人だっています。1タラントンの者が必ずしも5タラントンの者に劣るわけではないのです。

大切なことは、「少しのものに忠実であること」つまり自分に与えられたタレントにどう向き合っていくか。そしてそのタレントを与えられた神の思いをどのように心を留めて行くかということなのです。実に、私たちはたとえ必要な賜物が全て与えられていても、他の人と比べてしまった時、その賜物を十分に用いることはできなくなってしまうのです。現に2タラントンの者だって、5タラントンのものに比べたら半分以下です。1タラントンの者と同じような劣等感を感じていても不思議ではありません。でも彼は主人を恨むことなく、自分に与えられたものだけに目を留めていました。その時、周りのものはもう目には入らないのです。それが主人と僕との信頼関係なのです。そしてそれが失敗への恐怖を克服させることに繋がるのです。それはつまり、もし彼らが願っていたような成果を上げることができなくても、主人はしっかりそれを受け止めてくれるということを彼らは信じていたのです。

果たして主人は本当に儲けを期待していたのでしょうか。私はそうではないと思います。もし主人が、儲けを期待していたのであれば、その資産を減らしてしまう恐れのあることはしなかったのではないかと思うからです。むしろ1タラントンの僕が言うように銀行に預けていたのではないかと思います。主人の狙いはそこにあったのではありません。むしろ僕たちにチャンスをあげたかったのです。預けたタラントンを用いて、僕たちに自由にやってみてほしかったのです。預けたタラントンで楽しんでほしかったのです。だから1タラントンの僕が、金を返しに来たときにはがっかりして、厳しい言葉になってしまったのではないかと思うのです。ですからこれはいわば期待の表れなのです。
主人の言葉を、私の言葉で言いかえるならばこうなります。「おまえ、何しよっとか。そげんこといっとらんやろ。おれはそげん金ん損得なんて考えとーて思うてるんか?おまえ、おれがそげんちっぽけな人間に見えるんか。なんで、お前に財産任しぇたかわからんかったんや?おれはただ、お前に与えた1タラントンば使うていろいろやってほしかっただけなんやで。ちかっぱやって失敗した奴ばおれがはらかくわけなかやろ!」

この1タラントンとは決して小さいお金ではありません。これは、当時の労働者の一日分の賃金の6000倍だと言われます。つまり単純計算で、一日分の労働賃金が一万円だとしたら、6000万円ということになります。つまり、この主人が任せた賜物は1タラントンだからと言って小さいものではない。私たちにとって十分なものである。私たちのタレント、言いかえれば私たちのいのちには、むしろ無限の可能性があるということを教えようとしているのではないでしょうか。大切なことは、この主人は僕たちの自由で生き生きとした人生を望んでいたということなのです。そして、それが神の願いであり、神の国であるということを譬え話として伝えようとしているのではないかと思うのです。

実は私たちは自分に与えられているタラントンに目を留めることよりも、他の人のタラントンをうらやむように作られているのではないかと思うほど、自分に与えられているタラントンに目を留めるということが苦手です。隣の芝生は青く見えるのです。でも、自分に与えられた恵みと向かい合い、そこに生きた時、驚くべき祝福があることを覚えたいのです。2タラントンの者も5タラントンの者もそこで、倍の報酬を得ています。これは、私たちの賜物を通して恵みが豊かになっていくということを私たちに教えています。誰にでもタラントンは与えられているのです。そして神は私たちがそのタラントンを用いて、私たちらしく生きていくことを願っておられるのです。そしてその恵みを分かち合って共に生きて行くのが教会なのです。
西南学院バプテスト教会の新しい年度に向けて、わたしは今牧師として色々と考えていますが、皆さんと話し合い、皆さんと共に祈り合い、皆さんと共に賜物を分かち合うことから教会の歩みが始まっていくことを感じています。共に祈り合って参りましょう。

関連記事

TOP