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2024年2月11日説教全文「 人の言い伝えから神の掟へ 」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 7章1~8節

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。

〇説教「 人の言い伝えから神の掟へ 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さんの心と体のご健康が守られ、今週の新たな歩みの上に豊かな祝福と恵みをお祈りしたいと思います。

今日2月11日は「建国記念の日」として記念されていますが、バプテストを含むキリスト教会、あるいは主要な伝統宗教団体では、この日を「信教の自由を守る日」として覚えています。その理由は、戦前のこの日を初代天皇の即位を記念する「紀元節」として祝うことによって、天皇は神の子であるという言説に基づく天皇を中心とする国家形成が進められ、国家神道の影響が強まり、信教の自由が抑圧されていった歴史があるからです。教会の礼拝は憲兵に監視され、礼拝の前には国民儀礼として宮城遥拝を強制させられ、宣教師たちは国外退去処分となりました。その力の前にはキリスト教会も仏教界も、西南学院もこの教会も立ち向かうことができませんでした。聖書が証しする主なる神ならぬものを神として認めざるを得なかった過去が私たちにはあります。ですから戦後、もはや二度と同じ過ちは繰り返さないために、その反省に立ち、悔い改めるために、この日を「信教の自由を守る日」として記念しているのです。キリスト者が、敢えて天皇暦である元号を使わずに西暦を使うのはそういう意味でもあります。私たちの時の神は、天地創造の神であると告白するからです。これは国に対する否定や拒否ということではなく、私たちのアイデンティティの問題です。

先週のバプテスト・デーの礼拝で申し上げましたが、バプテスト教会の特徴的な主張は、「個人の信教の自由」そして「政教分離の保持」を主張することです。それは私たちが「個人として生きること」であり、私たち一人一人の個性あるがままを「良し」とされた神を信じて生きるということ、そのようなれ神の国に生かされることを大切にしているからです。今日はまずこのことを心に受け止めたうえで、今日の聖書個所を読んでいきたいと思います。

今日の聖書個所は、とても面白い始まり方をしています。1節にこうあります。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」。彼らはわざわざ聖都エルサレムの中央からイエスの元に集まってきたのです。どういう目的があったのでしょうか。恐らくはイエス・キリストの福音の教え、また行なった数々の奇跡の噂が広がっていたのではないかと思います。

ですから彼らはイエスに会ってみたい、あるいはそこで起きた出来事が本当のことなのかどうかを確かめるためにやってきたと思われます。この時点では彼らの心にイエスに対する妬みがあったのか、不信があったのかはわかりません。ところが彼らは早速、イエスの弟子が手を洗わないで食事しているのを発見し、こう言っています。「何故あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを守らず、汚れた手で食事をするのですか?」

「食事の前に手を洗うこと」自体は律法には規定されていませんが、「昔の人の言い伝え」ということで大切にされていたようです。確かに大切なことだと思います。私たちは4年前に新型コロナの拡大が起きてからというもの、本当に神経質になるくらい手を洗うことに気を付けています。また冬場はインフルエンザや色々なウィルスの問題もあるため、手を洗わないと言うことに対して、危ないなぁと思ってしまうことでもあります。

でも、実はこの聖書個所で彼らが言っていることは、そういう清潔さの問題ではありませんでした。彼らは洗っていない手のことを「汚れた手」と言っています。実はファリサイ派の人々や律法学者たちの関心は、清潔さよりもむしろ宗教的な聖さにあったからです。つまり食事をする交わりとは、親しい交わりであり心許せる関係で行うものであり、汚れを持ち込ませない交わりです。ですから共に食事をする人は清められた人でなければならないわけです。だから、彼らは手を洗ってその席に着いていたのです。しかもそれが「昔の人の言い伝え」、守らなければならないものだと補強して言っているわけです。

「昔の人」と言う言葉は、先祖とか長老という意味があります。またその言い伝えとは「パラドーシス」と言い、その意味はパラは傍らにいるということ、ドーシスは贈り物、つまり傍らにいるあなたに与えられる贈り物、言い換えれば共に生きていくために先祖代々語り伝えられてきた教えであり慣習でした。もちろんそれは経験に裏付けられている大切な教えであったと思います。ところが、その言い伝えが作り上げてきたファリサイ派の人々、律法学者たちの意識の中では、汚れた手の人々、つまり自分たちとは異なる者たち、徴税人や罪びと、異邦人とは共に食事をしないと言うことであったのです。

それではイエスさまは食事をどのように考えていたのでしょうか。イエスさま一行が直近で食事をしているのは、マルコ6章30節以降の『5000人の給食』ですが、聖書個所を見ても確かにイエスさまや弟子たちが手を洗ったことは言及されていません。と言うよりは、その現場は「人里離れた場所であった」と言われていますので、手を洗うための水なんて用意してあるはずもありません。

もしかして、ファリサイ派の人々や律法学者たちがわざわざエルサレムからガリラヤにやってきてまでイエスさまに言いたかったことは、「あなたがたは5000人に食事を食べさせて満腹させるという奇跡で有名になったかもしれないけれど、一番大事なのはそこではない。それより昔の人の言い伝え、いわゆる慣習を守ることが重要である。その慣習という作法を守ることこそ、宗教的に正しく大切なことなのだ」。このように考えると、彼らが来た理由は、やはりイエスさまの噂を妬み、その奇跡をコケにするために、中央の人々がやって来たという風に思えるのです。

もし仮にイエスさまが5000人の給食の時に、そこに来ていた人々に手を洗うこと、つまり宗教的な聖さを求めていたとしたらどうでしょうか。もしイエスさまがそのような形で食卓に集うための基準や資格を造ってしまっていたのだとしたら、人々はその交わりには加われなかったことでしょう。いや、むしろ彼らはそんな交わりに加わることができなかったからこそイエスさまのところにやって来たのです。ですから、イエスさまはそのような人々を憐れみつつ、同時にそんな構造をあたかも簡単に、しかも神の名をもって言い伝えを作ってしまう人々やそれを違和感なく考えもせずに使っている人々に対して、憤りを感じられたのではないでしょうか。

この彼らの言い分に対してイエスさまは即座に反応して毅然と言い返しています。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。

とても厳しい言葉です。今日の聖書個所はここで終わっていますが、イエスさまはこの後も23節に至るまで細かく「自分の言い伝えを大事にして神の言葉をないがしろにする人々」を非難しています。お前たちは偽善者だという言葉は強烈に響きます。しかし、それがイエスさまが言いたかったことなのでしょう。神の掟を破るとは、他の言葉で言い換えると、その掟から離れること、道を逸れていってしまうことです。つまり、的外れの「罪」を犯すことです。本来なら、人の言い伝えというものは、その神の言葉を守るための言い伝えであったはずです。しかしそこから次第に神の言葉が忘れられ、人の言葉のみが残ってしまうということが歴史的伝統的であり閉鎖的な環境の中には起こりやすいのです。

恐らくこの時にイエスさまの頭に思い浮かんでいたのは、まさに5000人の給食に来ていた「飼い主のいない羊のようなありさまの群衆」であったのだと思うのです。彼らはこういう人々から疎外されていたわけです。本来なら共に生きていくために与えられた神の言葉を自分の都合の良いように使っている人たちからのけ者にされていたわけです。イザヤの引用からイエスさまが言いたいことは、律法や言い伝えを守るそぶりは見せていても、その心が御心から遠く離れている人間の罪深さへの怒りであり、嘆きであり悲しみに他ならないのです。

そして反対にイエスさまがご自身の姿として現していることは、まさに神の国の食卓です。どんな人でも無条件に加わることができる交わり。そもそもわたしたちは神がその一人一人を愛して造られた命なのです。そんな命を排除するなんてイエスさまの辞書にはないわけです。しかしそれに対して、そんな交わりに言いがかりをつけ、正しいだの正しくないだの、こうしなければいけないだの言い始めるのが人の教えなのです。そしてそれが昔の人の言い伝えとしてまことしやかにささやかれ、あるいは権威的に強化されていくことがあります。それらの言い伝えは本来は良いものであったのだと思います。むしろ言い伝えというものは、神の掟を守れるように、導かれたものなのです。イエスさまは昔の人の言い伝えが悪いとは言っていないのです。イエスさまが言っているのは、人の教えを無条件に無批判に鵜呑みにしてしまい、枠組みや基準を人々にも強いて裁くことなのです。何故あなたたちはそれに気が付かないのか。そのような嘆きというものがここには込められています。

私たちもまたそのような言葉、あるいは偏見、固まりきった価値観にとらわれることがあります。それによって傷つけてきたことも傷つけられてきたがあると思います。しかしイエスさまはそんなわたしたちをも受け止めてくださり、「疲れた者、重荷を負うものは私の元に来なさい。休ませてあげよう」。と言われるのです。まさに神の国はここにあります。

イエスさまはここで何を伝えようとしているのでしょうか。それは人の言い伝えではなく、神の掟を守りなさいということでしょうか。そういうことではないと思います。何故ならば神の掟もまた、無批判に受け止められる時、それは人を裁く言葉となってしまうからです。むしろ神の掟とはなんであるか、神は何故、何を思ってその掟を出されたのか、その意図をしっかり考えなさいということなのではないでしょうか。人の教えも同じです。昔の人の言い伝えだってそれ相応の意味があって語り告げられているものです。しかし時代の移り変わりと共に状況が変化していく時、その教えは、変わっていく必要があります。大切なのは、その教えの言葉尻を取るのではなく、その教えの中に込められている精神であるのです。

今日は最初に建国記念の日のことをお話ししました。ここにお集まりの方々の中には色々な政治信条の方もおられると思います。こういうテーマを取り上げると決まって「西脇は左翼だ」とか「こういう話を礼拝で聴きたくない」と言う方もおられると思います。しかし大切なのは、やはり改めて考えることだと思うのです。立場を固定化するのではなく、変化を恐れず、自分を絶対善と思わず、罪びとの一人として遜って他者の言葉を受け止め考えていくこと。これがキリスト者の姿勢だと思うのです。

イエス・キリストは山上の説教でこう語られています。「あなたがたはこう聞いている。しかし私は言っておく」。別の箇所ではこう問います。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。(ルカ10:26)イエス・キリストの言葉は、今を生きて働く神の言葉です。その神の言葉は、聖書を文字通り読むのではなく、自分自身として生きていったときに紡がれてくる言葉、起き上がってくる出来事であります。聖書の言葉を覚えたり、ただ単に引用したりすればよいということではありません。自分自身がその言葉にどのように生かされているのかということがより大切なのです。

だから私たちは神の掟を自分の出来事として受け止め、語る自分の言葉、行う業を吟味することが大切なのです。それがもし吟味できないもの、触れてはいけないアンタッチャブルなものになってしまうと、それは似て非なる偶像の神の教えとなり、人を縛り付けるものに早変わりしてしまうのです。それは本当の神の御心とはかけ離れたものになってしまうでしょう。これがまさに「的外れ」と言われる「罪」に他ならないのです。

私たちはどうでしょうか。私たちは神の掟を守っているでしょうか。聖書の言葉を守っているでしょうか。教会の歴史を振り返る時には、「キリスト教」さえ、神の言葉から離れてしまっていた時期もあります。また、これからもそうなっていく危険性は常にあるということを覚えなくてはなりません。

イエス・キリストが何をなされたか。それにはどういう意味があるのか。今聖書と聖霊の導きで語られるこの言葉に問われながら受け止めていくこと。ここに、悔い改め、立ち返り、方向転換というものが起こります。私たちがまさに新しくされていく信仰生活があるのです。共に祈りましょう。

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