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2022年12月25日説教全文「希望の光 イエス・キリスト」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 ルカによる福音書 2章1~7節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

〇説教「希望の光 イエス・キリスト」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝を守っておられる方々もおはようございます。本日はクリスマス、イエス・キリストの御降誕の記念日です。昨日のクリスマスイブ礼拝でもお話ししましたが、イエス・キリストがお生まれになったユダヤにおける一日の考え方は、日没から新しい日が始まるというものですので、24日の夜から25日の日没にかけてが「クリスマス」ということになります。そしてクリスマスの意味は「キリストを礼拝すること」ですので、私たちはまさに今クリスマスを守っていると言うことになります。ユダヤの一日の考え方のように、暗く長い夜に希望の光が差し込み、やがて朝日が昇り、夜明けがくるという出来事。これは暗闇には必ず終わりがあり、待ちに待った救いが訪れるという希望です。これがまさにクリスマスの意味でもあります。暗くつらい日々に生きる人々のところに救い主がやって来る。明けない夜はない。私たちの現実がどんなに暗くでも必ず希望があることを示すもの。これが主イエス・キリストの誕生の出来事です。ですから今日わたしたちはメリークリスマス、クリスマスおめでとうとご挨拶をしたいと思うのです。

私たちは礼拝の始まりに当たり、アドヴェントクランツに火を灯しました。これまでの待降節アドヴェントの4週間、毎週一本ずつ灯して参りました。第一週には「希望」、第二週には「平和」、第三週には「喜び」、第四週には「愛」を祈り、アドヴェント・キャンドルの点灯を守って参りました。これらのキャンドルの意味は、聖書に根拠があるわけではありません。しかし私たちはイエス・キリストの誕生というものに「希望、平和、喜び、愛」を祈って参りたいのです。何故ならばイエス・キリストの歩み、またその言葉にはそのような意味を感じることができるからです。今日5本目のキャンドルにはその神の愛がまさに今日イエス・キリストにおいて実現したという思いを込め、「インマヌエル(主はわれらと共におられる)」という意味を込めて灯しました。それは、主イエス・キリストが世界の全ての人々に伴うために来られたということを覚えるためでもあります。

しかし実に救い主の誕生は、世界の全ての人々のただ中にではなく、むしろ追いやられた村はずれの家畜小屋で起こった出来事であることを私たちは心に留めなければなりません。それは「希望・平和・喜び・愛」というものは世の中心からは不必要と投げ捨てられやすいものであり、むしろその片隅にいる人々にこそ必要なものであるということを示しています。イエス・キリストの誕生は、巷で聞くクリスマスソングの明るいメロディーとは裏腹に、実はひっそりとどこかしらもの悲しさを持った出来事でありました。山内修一さんが作った讃美歌に「世界ではじめのクリスマス」(1970)があります。
「 世界ではじめのクリスマスは ユダヤのいなかのベツレヘム
宿にも泊まれず家畜小屋で マリヤとヨセフの二人だけ
赤子のイエス様、草の産着 ゆりかご代わりの飼い葉桶
優しい光に見守られて 恵みの光が照らすだけ
グローリア グローリア グローリア グローリア
インエクセルシス デオ
世界ではじめのクリスマスは 小さな小さなクリスマス
けれども喜び満ちあふれた 気高いまことのクリスマス」(山内修一 1970年)

まさに今日の聖書個所を歌った賛美ですが、この曲調に現わされているように、イエス・キリストの誕生の出来事は、悲しみの中に与えられた喜びの出来事であることを感じさせるものです。決してハッピーハッピーだけで終わることはできない。しかし、確かに悩み苦しみの中にあるけれど、だからこそ、この小さな命の誕生に涙し、これを喜び、これに希望を抱くことができるようになるのです。

聖書個所に入ります。今日の聖書個所はイエス・キリストがベツレヘムで生まれた経緯を説明しています。ルカ福音書によると、若き日のマリアとヨセフは元々ガリラヤの町ナザレに住んでいましたが、ローマ皇帝から住民登録をせよとの勅令が出たためにヨセフの故郷のベツレヘムに向かいました。この住民登録の命令はどうも史実的に実際に起こった出来事のようです。しかしこの聖書のくだりには色々な疑問が出てきます。実はこの住民登録というものは、一家の長であるヨセフだけが行けばよかったそうです。しかし彼は一人で行くのではなくマリアを連れ立って出かけていきました。当時既に身ごもっており、臨月に近かったマリアを連れていくと言うことは、恐らく当時でもあまり考えられないことだったのではないかと思います。皆さんならどうでしょうか。臨月、いつ生まれてもおかしくない妊婦さんが遠出をする。しかもろばに乗って出かけて行く、「それって大丈夫?家で安静にしていた方がよいのでは」と考えるのではないかと思います。また、何故その時期を外して行かなかったのかということも大きな問題です。恐らく、この時に行かなければならない理由があったのでしょう。

一緒に行った理由は聖書には書かれていませんので、推測に頼る他ありません。私はもしかしてマリアとヨセフには既にナザレに頼るべき人がいなかったのではないかと思うのです。不貞の罪と受け取られても仕方のない疑惑の妊娠。そのマリアを受け止めたヨセフ。この律法に適わない二人、その二人を支えるべき親兄弟などの家族も、隣近所から白い目で見られる。当時の律法主義社会からすれば考えられないことではありません。
しきたりと言う同調圧力がコミュニティーの中に共通理解としてあれば、そこから外れてしまった二人、それが神の霊によるものと言ったとしても証明はできませんし、なかなか理解を得ることが難しいですので仲間外れのようになってしまってもおかしくないのではないかと思うのです。家族でさえそれを受け止めることは難しいでしょう。ヨセフさえ悩んだ末に、いったんはマリアと縁を切ろうとしたくらいです。しかし、ヨセフは戸惑いと悩みの中で、しかしながら神の言葉によって勇気づけられ、マリアと共に歩んでいく決意をしました。それは、恐らく慣れ親しんだ故郷を捨てるくらいの覚悟があったことだろうと思います。
ですから、ヨセフがマリアを連れ立って出かけた理由、それはマリアを一人にしておけない中での苦渋の決断、覚悟の旅であったのではないかと思うのです。どれくらいの日数がかかったのかはわかりません。やがて彼らはベツレヘムに到着します。

しかしベツレヘムに入った時、マリアの時が満ちました。ヨセフは焦ったと思います。彼らは宿屋に向かいますが、彼らはそこに部屋を見つけることはできませんでした。もしかして宿屋の主人は、そんな身重の状態で旅をしている彼らの「訳アリ」な感じを見て取り、関わり合いになるのを避けたのではないでしょうか。赤ちゃんが生まれそうだという旅人がいるのなら、部屋は満室かもしれませんが、とりあえず他のどこかのスペースに休ませてあげることだってできたのではないかと思うのです。しかし彼らはそこにもいることも許されませんでした。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。場所とはギリシャ語ではトポスという言葉です。場所の他に、余地と訳すことができます。つまり、「満室だから」と言うことではなく、彼らにはまさにそこにいる「余地」「居場所」、彼らのために配られる心遣いが無かったのです。マリアとヨセフはまさに切迫している状況なのに助けを得ることができず、追いやられ、ついに時が満ち、家畜小屋でイエスは生まれたのです。

家畜小屋が彼らにとって平安の場所になったかと言われたらそれはわかりません。しかしそこにイエス・キリストが生まれた時、彼らの心にはやはり喜びが生まれたのではないかと思うのです。その新しい命は、留まる場所さえない若き夫婦の希望の光、神の平和となりました。何故ならば、新しい命が与えられることは神の恵み、神の顧みに他ならないことであるからです。

状況を考えたらなかなかに厳しい現実があります。赤ちゃんが生まれそうだということはわかっていたと思いますが、まさか旅の途中に家畜小屋で産むなんて、想定している中でも最も大変なシナリオだったと思います。しかし大切なことは、子どもが与えられたということはどんな困難な状況があったとしても、神が彼らを顧みられたということなのです。新しいいのちが与えられたということ。そこに希望があります。私たちは状況に心が奪われてしまいますが、大切なのはそのいのちが生まれたことなのです。問題は、私たちがどこに心を向けるかと言うことなのです。しかし、本当に大切なことは、どんな大変なことがあっても、そこに生まれた小さないのちの誕生に心を向けること。ここに希望があると言うことなのです。

神が与える希望というものは、小さな小さな希望の光です。暗闇の現実に消えゆきそうな光です。しかしその希望の光は暗闇の中でも暗闇に負けることなく輝き、周りのものを照らし出すのです。その希望の光は大きな光ではありません。大切に守り育んでいく必要があるものです。しかし希望と言うものは、そのようにしてやがて大きな希望になっていくものだと思います。こんな小さな光ではだめだと思ったらそこで終わってしまうのです。小さな光が希望となる。このプロセスが大切なのです。イエス・キリストは、インマヌエルと呼ばれました。それは「神はわたしたちと共におられる」という意味です。どんなに暗く大変な中にあっても私たちには神が共におられる。このプロセスにこそクリスマスの希望があるということを改めて受け取りたいと思うのです。

昨日もお話ししたことですが、私は実は今年のクリスマスはあまりお祝いする気分にはなれませんでした。その原因は戦争がいまだに続いていると言うことにあります。しかもそれがキリスト教を信じる国同士で起こっているという現実が、私の心を苦しめているのです。キリストの福音とは何か、教会の存在理由を悶々とさせられます。イエス・キリストは全ての者の救い主として生まれたのに、なぜ人は争うのか。クリスマスに与えられたイエス・キリストの愛の喜び、その歩みを通しての福音、十字架による犠牲の死というものを、人は無に帰してしまっていると思います。まさに人の罪深さにがっかりしますし、人の世に絶望すると言うか、教会の福音というものに無力さを感じると言うか、本当に暗くなる思いでいっぱいです。

しかし私が今日、改めて心に留めたいのは、神はそんなこの世に生きる私たちのために、諦めないでイエス・キリストをお与えになったと言うことです。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」。神はこの世に希望を持っているのです。その神の愛がまず先にあるのです。私たちが正義と平和を守っているから救い主が与えられたのではなく、争いと痛みのある世界に傷ついている人々に寄り添うために神はその独り子をお与えになり、その人々の命こそ、世の光であると言ってくださるということに、希望を持つのです。

神の存在、クリスマスの出来事はこの世界に絶対に絶えることのない希望を与えるものです。そして神は今も聖書を通してインマヌエルの福音を私たちに与えてくださっています。信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残ると言われているように、神の言葉は今、この言葉を聞き、そしてその言葉に生かされていく私たちの中に響き、私たちのいのちを生かし、隣人と共に生きて行くように招かれます。是非、祈りつつ歩んでまいりましょう。

今日のメッセージの最後に私たちはイエス・キリストが弟子たちに与えられた「主の祈り」を共に祈りたいと思います。ご存知の方はどうぞ共にご唱和ください。ご存じない方はどうぞその祈りに心を寄り添わせてください。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救い出だしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

祈ります。

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