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2023年1月1日説教全文「あなたを照らす光は昇る」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 イザヤ書 60章1~7節

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。ケダルの羊の群れはすべて集められ/ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ/わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。

〇説教「 あなたを照らす光は昇る 」

みなさん、新年、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。皆さまの新しい一年の歩みの上に主イエス・キリストの祝福と恵みがありますようにお祈りしたいと思います。「一年の計は元旦にあり」という言葉もあるように、私たちにとって元旦はとても大切です。新しい一年の始まりの時であるからです。私たちは今日この時、新年の始まりに教会に集い、聖書の御言葉を聞き、祈りを捧げることから、その一年の歩みを始めました。私たちは今年一年何が起きるか、世界がどうなっていくのか正直わかりませんが、私たちの日々の歩み内に主なる神さまの守り導きがあることを共に祈り求めたいと思います。そしてすべての人にとっての平和が実現することを祈りたいと思います。
さて元旦の朝は私たち一人一人にとって新たな始まりと言う意味で、何やら清々しさを感じる時でもあると思います。みなさん今日この会堂に入ってどう思ったでしょうか。会堂になんとまだクリスマスの飾りが残っていて、なんとなく正月らしくないとか、昨年の名残を引きずっているというかそんな落ち着かない気分を感じられた方もおられるのではないかと思います。実は昨年の大掃除の時、会堂のクリスマス装飾は敢えて外さないで下さいとお願いをし、このようにさせていただきました。

日本では12/25が過ぎるとあっという間にクリスマスの装飾は片付けられ、瞬く間にお正月の様相に変わります。驚くことにクリスマスが終わった途端、新年に入っていないにもかかわらず門松が並べられ始めたことにはとてもびっくりしました。先取が過ぎるというか年々加速してきているかのように思います。クリスマスも同じだと思います。私たちはアドベント、救い主の到来を待ち望むときに、クリスマスの喜びをしっかり味わい尽くし、ようやくクリスマスを迎えた時にはもうお腹いっぱいになっているということがあるのではないかと思います。本来であれば、やはりその日を待ち望みその日その時をその日に楽しむことが大切だと思うのです。
キリスト教の暦では、実に12/25のクリスマスから救い主の降誕の喜びが始まります。つまり、私たちは今まさにクリスマスの喜びの中を歩んでいるのです。そして私たちの新しい歩みは、クリスマス、主の誕生から始まっているのだと言うことを、私たちはこの元旦の時に共に心に留めたいのです。
聖書個所に入る前にもう一つのことだけお話ししたいと思います。皆さまもご承知の通り、昨年2022年は私個人や家族だけではなく、この教会、そして皆さまにとっても大きな変化の時となりました。教会創立100周年を迎えるその年の8月末に踊先生が主任牧師を辞任され、9月に私が主任牧師に就任し、記念コンサート事業、牧師就任式、創立100周年記念式典とやってきました。この4か月、どたばたとした日々であったと思います。そして私はなかなか思うように皆さまとの交わりの時間を持つ頃ができず、牧師として特に大切にしたいと願っている皆さまと祈り合う時間をあまり持つことができませんでした。しかし、そのような忙しさの中に色々な意味で神様の恵み、慈しみ、慰めといったものを体験するというかそのような一年になったのではないかと思います。

私は実は昨年2021年の年末年始は非常に落ち着かない日々を過ごしていました。それは牧師招聘のお話をいただき、それが神様の御心なのかどうかを祈り求めていたからです。人間的な思いでは決してお受けすることはできないと思いました。失礼ながら西南学院教会のことや皆さまのことをほとんど存じ上げませんでしたし、私の能力も含めて考えるといろいろな意味で無理だと思ったからです。しかし、これが神様の導きであるならばお断わりすることはできないとも思っていました。色々な思いに心乱される中、新年を迎え2022年1月3日、私は実はこの教会で牧師招聘委員会の方々との面談を行いました。三が日という大切な時であるにも関わらず、お時間を作ってくださり、いろいろなお話、教会の課題と私に対する期待をお話しくださいました。その時からちょうど一年が経ちました。招聘を受諾し就任して5か月に入ります。まだまだこの先どうなるか分かりませんが、希望と期待、喜びをもって私は今この場に立っています。新しい一年の歩み、皆さまと共に歩みだせることを心より楽しみにしつつ感謝しております。今年もどうぞよろしくお願いします。

さて、この元旦の新年礼拝に選ばせていただいた聖書箇所はイザヤ書60章です。本日この個所から皆様にお話ししたいこと、皆様に覚えていただきたいことは、一つのことです。それは、神さまはどんなときも私たちを愛し、どんなときにも共に寄り添い、私たちを見つめ、言葉を届け、共にいてくださるということです。神さまはどんなときも私たちを愛し、どんなときにも共に寄り添い、私たちを見つめ、言葉を届け、共にいてくださることを伝えるために、預言者を通して神の言葉を伝えようとしておられるのです。
短く解説します。イザヤ書はとても分量のある長い預言書ですが、聖書学的に言えば、一人のイザヤさんが書いたのではないと言われています。その理由は、文面の内容、伝えようとして事柄を考えると、背景となっている時代が異なっていると思われるためです。そのため1-39章までが第一イザヤ、40-55章までが第二イザヤ、56-66章までが第三イザヤという区分がなされています。
その内容の違いをざっくりと言えば、第一イザヤは迫りくる戦争の脅威に対し武力で対抗するのではなく、神に寄り頼むことを伝えています。第二イザヤは、結局のところ神に寄り頼まずに力に頼った結果、起きてしまったバビロン捕囚という滅亡の出来事の中で、神による慰め、そして復活の希望の約束を伝えています。第三イザヤは、70年に及ぶ苦難のバビロン捕囚から解放されたにも関わらず、一向に生活環境が整わず、困難が続いている人々に改めて神の希望が示されるという内容になっています。
このように考えていくと、総じてイザヤ書が伝えようとしていることは、あらゆる困難な状況の中にいる私たちを見捨てず、目を留め、声をかけ続け、神が伴おうとしているということです。戦争が起きる前には、「戦ってはならない。わたしに頼りなさい」。と言い、それを人が聞き入れようともせず戦った結果、まさに罪の結果として滅亡しても、「わたしが共にいるから大丈夫だ」と語るのです。本来ならば見捨ててもおかしくないはずです。しかしそう話されないのです。そして解放された後、荒れ果てた故郷で、困難な状態が続いていても「わたしが共にいるから、あなたがたには希望がある」。と語るのです。神の存在は人に希望を与えるものです。私たちは様々な状況の中で苦しむことがあります。しかし、そんな時こそ、神が私たちに伴っていて下さること、その証拠としてクリスマスにイエス・キリストが与えられたのだということ、その希望を私たちも心に留め、そして私の言葉を受け止めて歩んでいきなさいと言っておられると言うことを私たちは今日、私たちはこの降誕節の日々の中で受け止めていきたいのです。

本日の個所は第三イザヤの個所です。おそらく人々は神の伴いがあると言われるのに、思ったようにうまくいかない日々の中で苦しみにあえいでいたのではないかと思います。そんな人々にイザヤは語るのです。「起きよ光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」。威勢の良い言葉から始まるこの個所は、まさに「救い主誕生の預言」であり、クリスマス物語ととても似ています。クリスマス物語の中で光によって照らされたのは羊飼いたちでした。まさに羊飼いたちは暗闇の中を歩む民たちであったのです。しかしその光は羊飼いたちだけに示されたものではなかったことがこの聖書個所には記されています。3節「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。そして6節「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」。この聖書個所は、星の光を頼りにイエス・キリストを拝みにやってきた博士たちの物語と重なるのです。
「光」という言葉は、ギリシャ語では「ポース」と言いますが、それ自体が輝いているもののことです。輝いているもの、照らすもの、自らが光の源であるという意味です。神が光を与えられたのはこの個所によると世の闇を明らかにするためでした。「光あれ」と言う言葉が有名なもう一つの聖書個所は天地創造の物語です。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」(創世記1:1-4)。よく神は無から有を作ると言われますが、初めに神が天地を造られたとき、地は混沌としていました。混沌とはあらゆるものがぐちゃぐちゃに混ざり合っているさまです。しかし神はその混沌の中から「光あれ」と呼び出されました。その後も一つ一つを言葉によって整理して世が秩序立てられたのです。そして最後に造られたのが人間たち、つまり神の造られた環境の中で、神の言葉に生かされる存在なのです。

今日の聖書個所に戻ります。2節には「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」。とあるように、私たちの命さえ闇に覆われてしまっている状況があります。混沌と比べるともう真っ暗、すべてが見えない状況です。しかしここでイザヤが言おうとしていることは、そのような中にあったとしても神の光は昇るのだ。そしてその神の光はあなたを照らすものであり、主の栄光はあなたの上に輝くのだということです。つまり、あなたは神の光を受けている存在だから大丈夫だ、そしてあなたが「世の光」となる、そしてあなたを通して神の栄光は輝くのだと言うのです。今日の個所を改めて読み直してみて思いましたが、今日の聖書個所が語られている相手は「あなた」つまり「わたしたち一人一人」なのです。私たちが神の光を受けた世の光として歩んでいく時に、神は世の闇を明らかにするということなのです。
ところでそもそも世が闇に覆われ、暗黒が国々を包んでいるのは何故なのでしょうか。それは、世の中全てが生きて行く方向性を間違えているからこそ、暗黒と呼ばれる状態になってしまっているのではないでしょうか。私たちの生きている社会もまさに混沌とした政治状況も、昨年から続く戦争のまさに暗闇のさまも、それぞれがそれぞれに救いを求めていながら、起きている状況だと思います。そうだとすれば、やはりその救いを求める方向性が間違っているのではないかと思うのです。社会全体が苦しんでいる。世の中が苦しんでいる。みんながそれぞれに解決しようとしている、けれどそれができていない。それが私たちの生きている社会であり、私たちの暗闇の現実です。どうしていったらよいのかもわかりません。

しかし、こんな時、私たちの支えとなり救いとなるのが、やはり神の御言葉であると私は思います。だからこそ、イザヤは3節以降「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちはその射し出でるその輝きに向かって進む」と語るのです。私はまさに王たち、つまりこの世の権力者でさえ、神を求めることが必要なのだと言うことを明らかにしているのではないかと考えています。
神の言葉に聞くこと、それは神の言葉によって造られたものとして生かされること。私たちが生きている社会というのが神が良しとされた社会であるのだとすれば、もっともっとよくなっていくはずです。私たちは神が御子をお与えになったほどに愛されたという言葉を忘れてはなりません。あきらめそうになることもありますが、自分たちにできることから初めて行くことによって平和を作っていけるという希望に立っていきたいと思います。神がこの世に今もみ言葉の種まきをされているのは、まさに希望と平和の福音の種を蒔き続けているのです。神はその時に私たちに平和を賜り、「わたしはわが家の輝きに、輝きを加える」と言われるように恵みと平安をお与えくださるのです。

私たちはここに希望をもって新しい年を歩んでいきたいと思うのです。
皆様の一年の歩みの上に主イエス・キリストの祝福が豊かにありますように祈ります。

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