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2023年8月27日説教全文「イエスは共に舟に乗っておられる」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マタイによる福音書 14章22~33節

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

〇説教「 イエスは共に舟に乗っておられる 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。夏の終わりですが、今日はとても暑い朝となりました。沖縄ではまた新たに台風が来ているようです。今週も皆さまのご健康が守られ、日々の歩み上に主の祝福がありますようにお祈りしています。
本日は礼拝の中で、張双澤さんが主イエス・キリストへの信仰を告白されました。会衆一同はその信仰告白を聴き、自分の事柄として受け止め、これからの信仰生活を共に歩むことを決断し、バプテスマ式を見守りました。一人の人がイエス・キリストを主と信じ、信仰生活を歩み始めるという出来事は、本人や教会員にとって大切なではなく、まず何よりも神にとって最も大きな喜びの出来事であります。ルカによる福音書15章ではイエスはそれを銀貨を失った人が銀貨を見つけるまで諦めることなく探し、見つけ出したら喜ぶ出来事に譬えてこう言っておられます。「言っておくが、このように一人の罪びとが悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」。罪びとと言うのは、犯罪者とか悪いことをした人のことではなく神の御心から離れることですから、神のところに立ち返ってくる人を、神は非常に大きく喜んでいるのです。
また、これは私たち教会にとっても大きな喜びの出来事であります。何故ならば、教会の働きの第一は、イエス・キリストの福音を語り、そしてそれを信じる者と共に生きて行くことにあるからです。そういう意味で、今日は張さんにとっておめでとうの日でもあるのですが、私たち西南学院バプテスト教会のみなさんの祈りが一つの形で実現した日ですから、私たちのおめでとうの日でもあるのです。

信仰を告白することは、非常にプライベートな事柄であり、人前に明らかにすることに躊躇されるように感じられるかもしれません。しかし、この礼拝の場で神と人の前に表明することは、実に大切なことであります。それは信仰が個人的で内密なもので終わるのではなく、その告白を聴く者がまたその人のために祈り関わっていく交わりの中に信仰生活があると言うことを示すことだからです。今日は信仰告白もバプテスマ式もオンラインで配信をしています。それは、諸事情の中でこの会堂に集うことができない方々にも張さんのことを知っていただき、祈っていただくことで、私たちの教会が一つになっていくということ。繋がり、結ばれていくということを大切にしたいと考えるからです。
この教会には、信仰生活何十年と言う方もたくさんおられます。しかしながら、その信仰生活の内実というものは、正直に言えば、純粋にまっすぐに向かっていたものかと言われると、決してそういう時ばかりではないのだろうと思います。色々な出来事や困難に出会った時に信仰が問われ、その道を見失ったり、その道から外れたりすることがある。例え教会の礼拝には毎週来ていたとしても、その心は聖書や神の教えから遠く離れてしまっているということがあることが、私たちの信仰の実態なのではないかと思います。しかし、そんな私たちでありながらも、神の言葉との出会いあるいは出来事、教会員からの声掛け、お祈りに支えられて、これまで歩みを続けて来ることができたのではないでしょうか。多くの戸惑いと躓きの中で、しかしながらキリストの言葉に立ち続けること。これが信仰生活です。そのために私たちは今日、信仰というものが決して一人の力によってなるものではないということ、教会に来ている方々の祈りの交わりの中で紡がれていくものであると言うこと、そのただ中にイエス・キリストがおられるということ、ここにわたしたちの喜びがあり、これこそ教会という交わりであることに目を向けたいのです。今日の説教は、今日は張さんと共に信仰告白を準備する中で示された事柄をお話ししますが、どうぞ皆さんもご自身の出来事としてお聞きいただければと思います。

張さんは、日本にやって来たのはノアの方舟に乗るようなものだったと言われました。ノアの方舟とは、旧約聖書の創世記の失楽園に続く出来事です。神が創られた世界は、神を忘れ罪に満ちました。神はそのような世界のために嘆き、悔やみ、そして世界を洗い流すため、大雨を降らせました。唯一神を信じていたノアとその家族を助けるために、方舟を作らせ、彼らを生き延びさせたのです。
それは言い換えれば、神の言葉を唯一の頼りとして信じ、生まれ故郷を離れ、先も見えない旅を始めることであったとも言えるでしょう。神を信じたいと思っても、聖書を読んでいたとしても、その言葉に自分自身向かい合わなければ、それは信仰に生きるとは言えません。神の言葉を受けても聞かないという選択肢もあるのです。ノアも恐らく、方舟を作る間、周りの人には理解を得ることができずにいたことと想像します。しかし張さんは自らの命の守り、自らの人生を生きて行くために日本に来ることを神の導きと感じ、選び取りをしました。張さんの言葉の背後にある出来事をわたしもその一つ一つをお聞きしたわけではありません。しかしながら、その道に招かれていることを信じ、その招きに応答して彼は日本へやって来たのです。そして西南学院大学と出会い、今西南学院教会に連なる神の家族の一員となりました。思えば不思議な道のりであったと思います。しかしながら、それは神の導きの中で良しとされた出来事であったのだと思います。

舟というものは、よくわたしたちの人生そのものにも譬えられます。今日選ばせていただいた聖書の箇所は象徴的です。イエス・キリストが福音宣教の活動をしていたガリラヤ地方には、有名なガリラヤ湖がありました。湖や海というところは、魚という生活の糧を得る身近なところでありながら、その深い水は人の力の及ばないところでしたので、常に危険が隣り合わせ、不安定な中で、目的地に向かうことになります。順風満帆の時は良いでしょう。しかし時に大風が大雨、霧が出て方向を見失ったり、嵐に見舞われ遭難することがあります。イエス・キリストや弟子たちもまた福音書で二度舟に乗って出かけていますが、その度に嵐に出会います。
マタイ福音書では、8章ではイエスは弟子たちと共に舟に乗っておられますが、今日の14章ではイエスは舟に不在でしたが、湖の上を歩いて弟子たちのところに向かわれます。
双方とも、弟子たちは嵐に立ち向かおうと懸命な努力をしますが、状況を変えることは出来ません。ところがイエス・キリストに目を向けて呼びかける時、彼らの状況は一転するのです。何とも不思議な話ですが、ここに私たちの信仰生活の象徴があります。
現実問題、私たちが自分の力だけでなんとか舟を操ろうと思ってもうまくいかないことは多々あります。大丈夫だと思っていても状況が一転する時、まさかという出来事が起きます。しかしそんな時でもイエス・キリストは常に我らと共におられるということを覚えることが大切なのです。私たちは、目の前に困難が迫って来たときには、目の前の出来事を何とか乗り越えようと、あるいは危険を回避しようと一生懸命取り組むでしょう。波をかぶりながらも必死になってなんとか状況を落ち着かせようとします。しかし、そんなとき、私たちはイエスさまの存在を忘れ、自分だけでもがいているような時があります。
マタイ8章の箇所では、荒れる海の前に弟子たちは、イエスさまが共にいてくれることなんてすっかり忘れているかのようです。もしかして、イエスさまの手を煩わせたくなかったのかもしれません。元漁師の意地にかけて何とかしようと思っていたのかもしれません。しかし、手の尽くしようがないときというものがあるのです。これまで積み上げた経験も獲得した知恵もプライドもズタズタになるような時があります。しかしそんな時に、イエス・キリストを呼び求めることが大事です。弟子たちはその時、同じ船の艫の方で寝ているイエス・キリストに声をかけ、「溺れてしまいそうです。助けてください」と言うのです。そこでイエス・キリストが風と湖をお叱りになると、すっかり凪になったというのです。何とも不思議なお話しです。しかし、私たちの日常の姿を現していると思わないでしょうか。渦中にある時、私たちはイエスさまのことをすっかり忘れています。自分の力で状況を変えないといけないと思います。しかし、大切なことは、その船にはイエスさまが共におられ、私たちが祈り求めることを待っているということです。

今日の箇所では、イエスは舟に同乗していません。しかし、逆風に悩まされていた弟子たちのところへイエスは水面を歩いて近づいて行っています。この聖書個所からは、特に水の上を歩くイエス・キリストのことがどうしても気になるのですが、象徴的に見るならば、水と言う不安で落ち着かない場所の上にイエス・キリストは立ち、困難の中にいる弟子たちに近づいて助けに行くということが大切です。
イエス・キリストを見た時、彼らは「幽霊だ」と怯え、恐怖のあまり叫びます。夜が明ける頃、恐らくモヤも立ち上る中で白い服を着た人が湖の上に立っていたら、そりゃ誰だって叫びたくなります。しかし、イエスさまが最も恐怖におののき、お先真っ暗な状況の私たちのところへ、それを乗り越えてやって来てくれると言うことは、大きな慰めと励ましになる事柄です。イエスは弟子たちをお見捨てにはならないのです。どんな状況の中でも、弟子たちを一人にしては置かれない方なのです。

イエスを主と信じ従って行くと言うことは、この出来事に象徴的です。ペトロが言います。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
極めて印象的です。イエスの言葉を信じて湖の上に足を一歩踏み出すペトロ。彼は水面に立ったのです。最初の恐怖に打ち勝ち歩んでいるのです。しかしふと強い風が気になったとき、彼は沈みかけました。イエス以外のものが目に入って、気を取られたときに、私たちは沈んでいくのです。しかし、「主よ、助けてください」と叫んだ時、イエスはすぐに手を伸ばし、彼を捕まえました。イエスは言います。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。

これで信仰が薄いと言われてしまうと、何も申し上げることは出来ないのです。しかし、むしろ歩み出したペトロの信仰をほめるべきではないでしょうか。彼は従ったのです。ではなぜイエスは「なぜ疑ったのか」と問われたのでしょうか。それは、信じても不安に陥ることではありません。それは仕方のないことです。しかしむしろ恐らく、主よ助けて下さいと言わないと、助けてもらえないと思ったことではないでしょうか。時系列的には、ペトロの叫び声にイエスが応えて助けるような印象がありますが、恐らく叫ぶ前にもうイエスは動き出していたのではないかと思います。ペトロはイエスに助けを呼びましたが、イエスの言葉には、「そんな風に助けてくださいと言うことができなくたって、私はいつもあなたを助けようと思っている。だから、常に私のことを信頼し、安心していきなさい」。と言うメッセージを受け取ることができます。私たちには何かができるわけではありません。誇れるものなんて何もない。強い信仰だってなく、色々なことに恐れてしまうけれど、神さまはいつもわたしたちを見守ってくださっている。そのことを信し、安心して歩んで行こう。これがここで受け止めるべき大切なメッセージです。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。(Ⅰコリント10:13)

神さまがいるなら、万難を排し、順風満帆にいけばよいと思います。しかし、私たちには現実的には色々なことが起こります。神さまを信じたって何一ついいことなんてないじゃないかと思うことも時にあるかもしれません。しかし、神が共にいると信じることは、私たちがあらゆる状況の中に置かれても、その嵐を最後まで歩み通せることができるように、共にいて、力を与えてくださる。このような希望を与えられていると言うことが信仰の持つ強さです。
私たちは誰一人完成した信仰者ではなく、その歩みを一歩一歩、進んだり、時に立ち戻ったりすることがある者ですが、それらの者が、一つの教会に集められ、慰め合い励まし合い、それぞれの道に向かって進んでいく。これから何があるかわからない人生の中ですが、イエス・キリストの名のもとに集い、その言葉に希望を頂く。これがわたしたちの教会の信仰生活の交わりであります。

今日わたしたちは、一人の新しい神の家族を迎え入れました。また次週の礼拝では、もうお一人の方の信仰告白とお一人の方の転入の証しがあります。これらの出来事を導いてくださった神さまに感謝すると共に、これからの歩みの上に主の恵みと豊かな導きがありますように祈りましょう。今日初めて来られた方の中にも、信仰について或いはバプテスマ・転入会について考えておられる方がありましたら、どうぞ牧師までお知らせください。共に祈って参りましょう。

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