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2022年10月30日説教全文「キリストの教会、バプテストの教会」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12~27節

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

〇説教「キリストの教会、バプテストの教会」

みなさんおはようございます。今日も皆さんと共に礼拝を守れることを神さまに感謝したいと思います。本日の宣教題は「キリストの教会、バプテストの教会」とさせていただきました。今日の聖書個所に入る前に、このテーマを選んだ理由についてお話をさせて頂きます。
日本社会では近年10月31日はハロウィンとして認知度が高まっていますが、私たちはこの日を「宗教改革記念日」として覚えたいと思います。1517年10月31日、今よりおよそ505年前に、マルチン・ルターが「95箇条の提題」をヴィッテンベルグ城教会の門に公布したことから宗教改革は始まりました。しかしルターにとってこれは宗教改革を起こすための行動ではなく、あくまで聖書の教えと教会の伝統の違いに対する理性的で知的で率直な問いかけでありました。宗教改革は「結果」として起きた出来事であって、「目的」であったわけではないのです。でも福音と言う真理を探究する人に多くの人が賛同し、教会が変えられていったという事実は興味深いことです。
それはつまり真理を求めることは、教会がイエス・キリストを求める人々の群れであったとしても、長らく続く閉鎖的な環境ではあまり声に出せないことがあります。人は環境に慣れてしまうからです。しかしその状況下においても聖書に対する渇望は決して失われることなく、知的で理性的なアプローチによって新たな命を得ることができるということを証ししているからです。たとえ結論は同じであったとしても、それを探求していくそのプロセスによって、教会は変えられ、人は生かされていくということを宗教改革は証明しています。
例えばルターが問いかけたことは「贖宥状(免罪符)は聖書に根拠があるのか?」ということ。「聖書の教えと教皇の言葉とどちらに権威があるのか?」これらはきわめて理性的な問いかけでした。
それは当時の教えを無批判に鵜呑みにするのではなく、しっかり自分自身として向かい合っている証拠です。ルターはそれを公の場で討議したかったのですが、教会はその議論を真正面から受け止めることはありませんでした。それどころか教皇の権威をないがしろにしたということで彼は破門されました。しかしそれは教会の教えを聖書の上に置くということであり、権力の乱用でした。でもルターはしっかりと聖書による根拠を求め、その土台に立っていたからこそ命が脅かされてもその脅しに屈することはなかったのです。

深い悩みの中で聖書のみ言葉を求め、神がその都度自分自身に働きかけられることを信じ、しっかりと読み込んでいき、自分自身で腑に落としていく、あるいは腑に落ちないことは疑問として持ち続けておくということがやはり大切です。ルターが行ったことはまさにそういうことだと私は思います。宗教改革のキーワードは「源泉に立ち返れ」ですが、源泉とは当時使われていたラテン語聖書ではなく、原典となったヘブライ語、ギリシャ語で書かれた聖書です。つまり、当時使い古されていたような聖書の言葉や教えに立つのではなく、原点に立ち返って自分自身として神の言葉を求めていくこと。果たして「聖書を通して神が言おうとしていることは何なのか」という真理を求め、それに生きていくことが信仰生活にとって極めて大切であることを教えられます。そのためにルターが密かに進めていたことが「ドイツ語訳聖書の翻訳」でした。それまで聖職者しか読めないラテン語で書かれていた聖書を一般に公開したことによって、多くの方々が神の言葉と向かい合い、それによって神の言葉と教会の行いの乖離が明るみに出たのです。その結果、宗教改革と呼ばれる運動に繋がっていったのです。
さて私たちは、今日その宗教改革運動、あるいは真理を求めて生きていく運動の一つとして誕生した「バプテスト教会」について考えていきたいと思います。彼らが知的に追及していったのはその生き方そのものでした。長く教会に通われている方はよくご存知の話しだと思いますが、初めての方もおられますので、確認として聞いていただき、今また響く思いを大切にしていただきたい思います。そのためにまず私の経験からお話をさせていただきます。
私が8月まで牧師として仕えていた神戸バプテスト教会は、神戸北野の異人館通りにあり、いつも扉を開いていてどなたでも自由に入ってこれるようにしておりました。コロナが始まる前までは修学旅行や新聞社主催の宗教寺院巡りがよく行われていました。その中で私たちの教会によく寄せられた質問が「キリスト教ってどういう宗教?」ではなくて「バプテストってどういうキリスト教ですか?」でした。一言にキリスト教とは言ってもやはり違いがあります。その違いによって礼拝の在り方や礼拝堂のカタチが変わってきます。皆さんは自分の言葉でバプテスト教会を説明するとしたらなんと答えるでしょうか。私は修学旅行生たちに極めて簡単にこのようにお話をしていました。

「バプテスト教会は、イングランドの宗教改革から誕生した教会です。ルターの宗教改革が「信仰の問題」に端を発したとすれば、イングランドの宗教改革は「政治の問題」に端を発した教会でした。16世紀、時の王のヘンリー8世が当時の女王キャサリンと離婚したいと言い出しました。カトリック教会は離婚を禁じていたので、教皇はそれは認められない、離婚したら破門すると言いました。しかしヘンリー8世はその脅しに屈することなく離婚をしました。彼はカトリックから破門されましたが、教会自体は大切だと思っていました。しかしプロテスタントの影響はあまり好ましく思っていなかったので、自分たちの教会を国で作ることにしました。そして教会のトップの地位に自分が収まり、国の教会を一つの行政機関のようにしました。地域ごとに出席する教会を割り当てられ、同じ祈祷書を用い、同じ礼拝式次第に従って礼拝していました。その教会の牧師は国の役人でした。しかしヘンリー8世が亡くなると、息子のエドワード2世が王位を継ぎましたが、彼は少年だったので後見人が付きました。この後見人は教会をもっとプロテスタントの方に近づけていきました。エドワード2世は幼くして亡くなり、次に王位に着いたのがメアリでした。彼女はキャサリンの娘でゴリゴリのカトリック育ちでしたので、宗教行政をググっとカトリックの方に戻しました。しかし彼女も失脚していきます。次に王位を継いだのがエリザベスでした。彼女は右にも左にも揺れる宗教行政を中立に戻し、国教会の地位を強めるために、秘密結社や他の教会の集会を禁じました。そのようにして宗教的な混乱は収まっていきました。
しかし、そのような歩みをして来るうちに、やっぱりみんなうすうす感づいてくるのです。「信仰って誰のものなの?」「国が言うようにやっているのが本当に自分の信仰なの?」「自分の信仰って自分で決めていいものなのではないか」。そのように考え、自覚的な信仰を持った者として自分たちで教会を作って生きていこうとしたのがバプテストの先達たちだったのです。ですからバプテストの特徴は、個人の信教の自由を主張すること。これは同時に相手の信教の自由を認めることにもなります。そして国が個人の信仰に手出しをしてはならない「政教分離」を主張することなのです。初期バプテストは行政から弾圧されましたし、初期の牧師の多くは投獄されています。またキリスト教が唯一正しいと考える人たちからも迫害されました。信じるも信じないも他の宗教を信じるのも個人の自由としたからです。しかし彼らは迫害を恐れず自分の信仰を守り続けたのです。現在アメリカにおいて信教の自由と政教分離が成り立ったのは、バプテストの嗣業であると言えます。

私は以上のような説明で語ることが多くありました。皆さんは聞いてどう思ったでしょうか。私は語りながら、やっぱりバプテストってすごい教会だと思いました。自分たちの教会なんだから、自分たちの奉仕で支えていこう。自分たちの礼拝を自分たちで考えよう。自分たちで祈ろう。自分たちで捧げよう。自分たちで牧師を立てよう。民主的な教会にしよう。これは自分たちの生き方を自分たちで模索することであるからです。これまでは教会も生活もなんとなくこれまで通り周りに合わせてきていたけれど、自分たちで変えていくことを彼らは選び取ったのです。しかしこのように言うと、バプテスト教会とは信仰的に自立していないといけない強い人の教会のように感じられることがあるかもしれません。確かにバプテスト教会は他の権威的な教会に比べてみんなで考えて決めることが多く、他人任せにしない面倒な教会です。でも大切なのは、それでも私たちの教会は、やはりキリストの教会であるということなのです」。

そんなバプテスト教会にとって今日の聖書個所は、とても大切な箇所です。やっと今日の箇所に入りますが、今日の個所は非常にわかりやすいので詳しい説明を必要としません。大切なポイントとして挙げられるのは、体の部分部分が異なる様に、教会の一人一人はそれぞれ別々の存在であるということです。そしてからだがそれぞれ違う多くの部分によって一つに結ばれているように、キリストの教会が成っているのも、多くの違いを持った人々が集まっているからなのです。そこには一人一人が同じである必要はありませんし、だれが偉いとかそういうことはありません。からだで言えば働きの違いと言えることは、教会で言えば賜物の違い、個性の違いということだと言えます。信仰的に自立をしている強い人と言いましたが、みんながルターでなければいけないわけではありません。その信仰の強い人の言葉に励ましを受けて生きて行きたいと願う人がいます。自分にはちっぽけな信仰しかないけれど、みんなと一緒に生きて行きたいと願う人だっているでしょう。それでよいのです。
私たちにはそれぞれ違いがあります。言葉が達者な人。聖書研究するのが好きな人、黙想の内に祈ることが好きな人、奉仕をするのが好きな人。表現するのが好きな方。或いは歌を歌うのが好きな空。昨日の100周年記念公演は素晴らしいものでした。クラリネット・ピアノ・パイプオルガン・そして朗読と彫刻がこの場で一つに調和し祈りを紡いでいました。それぞれ違うものが共に響き合うことの素晴らしさを改めて感じました。同じように教会には色々な人がいます。そして色々な在り方が許されています。それはわたしたちの教会がキリストの教会であり、私たちの教会であると言いながら、私たちは一人一人が神の招きによって集められてきたからです。

そして教会は実にそのような違いを持った多くの方々の存在によって成り立っているのです。大切なのは、「体の中で他よりも弱く見えると部分がかえって必要である」ということです。人間、或いは組織は意図的にそれを補ったり隠そうと考えますが、むしろ神は、その見劣りする部分をいっそう引き立たせて体を組み立てられたとあります。つまりその部分がとても必要だということです。なぜでしょうか。それは私たちは全て弱さの中でキリストに結ばれているからです。それが神の言葉であるイエス・キリストに私たちが結ばれているということであります。
今日の箇所は13章の有名な「愛の賛歌」という箇所に繋がっていきますが、教会の中で私たちが結びつく接点はまさにこの「愛」であるのです。パウロは「それゆえ信仰、希望、愛。この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」と言いました。これこそイエス・キリストが今も私たちに向けて伝えようとしていることであるのです。イエス・キリストの言葉は私たちが弱いときに私たちの中で希望として、実感の内に響く強い言葉であるからです。

私たちはこの西南学院教会100年の歩みの中でそれぞれこの教会に結ばれてきました。これからも新しい人がくわえられ、私たちはまた少しずつ変化をしていきます。しかし私たちの土台はイエス・キリストであるのです。イエス・キリストの言葉を信仰生活の土台とし、またこれからの時をキリストの眼差しを見つめ、変わっていくことを恐れず、真理を求め、皆さまと共に希望を分かち合い、歩みを支え合い、愛を持って仕え合って参りましょう。それこそがこれからの私たちの教会の歩みの鍵になっていくものであります。祈りましょう。

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