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2022年11月13日説教全文「あなたがたが世の光!」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マタイによる福音書 5章14~16節

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。

〇説教「あなたがたが世の光!」

みなさん、おはようございます。今日も皆さまとこのように顔を会わせ、或いはオンラインで礼拝を守ることができることを神さまに感謝したいと思います。

本日与えられた聖書個所に入る前に、一つだけお話したいことがあります。本日午後、私たちの西南学院バプテスト教会で牧師就任感謝礼拝が行われます。「私たちの」と敢えて強調している理由は、これは私西脇慎一個人の出来事ではなく、西南学院教会の出来事。つまり教会員また礼拝出席者の皆さまの出来事であるからです。私は以前10月16日の礼拝の説教の中で、牧師の就任と按手の意味についてお話をしました。その中で私が願うこととして、「皆さんの牧師となるために大切なのは信頼関係ですから、皆さんにこの一か月の間、私を吟味をしていただきたい」とお伝えしました。内心ドキドキしながら発言したことであったのですが、その時から今日までの時が流れました。皆さまの牧師として私が相応しいかどうか吟味してくださいましたでしょうか。
私はこの間限られた期間ではありましたが、礼拝に来られている方には顔を会わせてお話しすることや、来られていない方々にお手紙をお送りすることなどしてきました。その中で手紙の返信をくださる方がおられたり、電話やメールなどを通して皆さまから色々な言葉をいただきました。本当にありがたいことだと思いました。もちろんその中にはご批判もあったかもしれませんが、でもそれも期待の表れとして受け止め感謝しつつ、これからの教会生活を皆さまと共に歩んで参りたいと願っています。改めて申し上げますが、牧師の働きは一人で行うものではなく皆さまの思いを託されたことによって、皆さまと共に仕える働きです。ですので、是非どうぞ今日の牧師就任感謝礼拝に是非ご出席いただき、皆さまに祈りを合わせていただきたいと思います。式辞の中では自由に発言することがあまりできないと思いますので、この説教の冒頭に今思うこととしてお話をさせて頂きました。

さて今日の午前の主日礼拝では、のちほど幼児祝福式を執り行うことになっています。本日はマタイ福音書の5章14-16節から「あなたがたが世の光」という説教題でお話をさせていただきます。この聖書個所は、イエス・キリストの子どもたちへの眼差しのみならず、イエス・キリストの人間観をとてもよく表している箇所であると思います。そして私はそれがこの世へ向けられる大切なイエス・キリストのメッセージではないかと思っています。
イエス・キリストは、「あなたがたが世の光である」と言われます。この言葉はよくよく考えるすごい言葉だと思います。私たちはよくこの言葉をなんとなく「世の光になりなさい」と置き換えて聞いてしまうことがあるのですが、そうではありません。これは「あなたがた一人一人が既にそのままで世の光である」というイエス・キリストの宣言であり、私たち一人一人のそれぞれのいのちの肯定であるのです。イエスさまは私たちがこの世、神が創られたこの世界の光であると言っておられるのです。
私たちは本当に世の光なのでしょうか。そのように言われてもなかなか受け止めることができないと思うのです。なぜかというと、例えば私はそもそも私は世の光と言われるような要素を持ち合わせていないちっぽけな者であると思うからです。私たちは、「世の光」と呼ばれる方というのは、世界でキラキラしているような存在。例えばメディアの中の有名人や、或いは特別な才能を持つ人のことだと思います。そんな人たちはわたしとは全くかけ離れた世界にいるような存在であり、確かに世の光だと感じます。そしてそのような人に私もなって行きたいと思うことがあります。社会もまたはそのような「理想的なモデル」になっていきなさいと言うようなキャンペーンを張ります。そのように「世の光」というものは、華々しいスポットライトがあてられ、輝かしいモデルを際立たせて映し出されるものだと思うのです。そのような人々であれば「世の光」と呼ばれることは理解できますし共感できます。

キリスト教の世界においても「世の光」のような人だと感じる方はいます。例えばイエス・キリストももちろんそうでしょう。或いは12使徒やパウロのような弟子たちもそうだと思います。他にも立派な行いをしている信仰者はたくさんいます。その人たちはまさに世の光であり、私たちもそのような立派な信仰者、或いは愛の実践者になっていきなさいと語られることがあるのではないかと思います。しかし残念ながらそうすることができない私たちにとっては、スポットライトが人を際立たせる一方で、その光が当てられない方々が闇に溶かされて行くかのように、私たち自身も自分自身の姿を見て落ち込むことがあるのではないかと思うのです。立派なもの、誇れるものなんてほかの人に比べたら何一つもない。世の光とは全くかけ離れている現実の姿があるのです。世の光のようになれたらよい。でもそんな風には慣れない。これが私たちのリアルではないかと思うのです。
今日のイエス・キリストの言葉を聞いていた人たちもまたそのような人々であったと思います。今日の聖書箇所はいわゆる山上の説教でありますが、そこに集まってきていた人々というのは、まさにイエスさまに助けをもらわないでは何もやっていくことができないような人々であったからです。山上の説教の導入には、イエスの評判が広がり、人々がイエスさまの教え、御言葉の宣教、あるいは病や煩いの癒しを求めてシリア中から集まってきたということが記されています。それが事実かどうかはわからないことですが、しかしそこにはイエスさまより他にすがる物がなくやってきた方々がおられたことだけは真実だと思います。そんな彼らは世の光と呼べるような存在だったのでしょうか。いいえむしろ世の中的に考えてみたら、ちっぽけで片隅に追いやられていた人々であったと言えると思います。むしろそうとしか言えない方々です。しかしながら、イエス・キリストはそんな彼らに向かって「あなたがたが世の光である」と宣言されたのです。イエスさまは彼らに何を見ていたのでしょうか。

私はそれが、社会の目線とイエス・キリストの眼差しの違いであると思うのです。恐らくこの世の主流の考え方の中ではまさに世の光と世の光ならざるものの区別、そのコントラストははっきりとしています。光と闇があるのです。そのような見方で言えば、その群衆はまさに追いやられていたような存在であり無価値のように思われる命であったと思います。しかしイエス・キリストの眼差しにおいては、その人々こそが大切なのです。何故ならば、その人々のいのちが輝くことによって、この世が更に輝くことになるからです。すべての人の命が満ち足りて輝くこと。これが神の眼差しであり、私たちがイエス・キリストにおいて与えられる希望であり平和です。
そしてそれはこの世の現実の闇の一面を明らかにすることでもあります。別の聖書箇所ですがマタイ福音書19章にはイエス・キリストが子どもたちを祝福するという個所があります。そこには、子どもたちを連れた大人たちに対して弟子たちが叱ったという事件が記録されています。弟子たちとしては、イエスさまはお疲れだから子どもたちがやってきて煩わされないようにしなければいけないという配慮の気持ちがあったのでしょう。このようにして弟子たちは子供たちを妨げた上に、子どもを連れてきた大人たちに対してしかりつけたのです。それはある意味で言えば普通の常識的なことであったかもしれません。ところがそれを見て弟子たちに憤ったのがイエス・キリストでありました。イエスさまが憤るというのはとても珍しい表現です。そしてイエスさまは、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はそのような者たちのところである」。と語られたのです。どういう意味でしょうか。それは、確かに大人たちの常識からすると、子どもたちがやってくることは疎ましく思うということがあるかもしれません。しかし、イエス様はそのような大人の視線では差別される子供たちが彼ららしく自由に生きられる空間こそ、そしてそれを承認して共に生きる関係こそ、神の国ではないかと言われたのではないかと思うのです。またそれは子どもを連れた親御さんを配慮することにつながりました。

最近は多少変化してきたと言われますが、まだまだ子どもたちを育てている家庭への配慮というものは十分ではありません。先日も双子を乗せたベビーカーがバスに乗車拒否されたというニュースがありました。人の手を借りずに自分たちだけで乗れるのであればよいけれど、他人の手を借りることが前提なら外に出るなというようなコメントもあったようです。果たして助け合いが前提の国はダメなのでしょうか。助けてほしいときは助けてほしいと言えて、助けられるときは助けてあげる社会こそ、すべての人が人間らしく生きられる社会なのではないかと思います。
「あなたがたが世の光である」。私は、この言葉が大切なのは、その前提としてその一人の人が世の光として輝けない理由があり、その理由が明らかになってこの世をもっとすべての人々が生きやすく、その命を輝かせて生きていけるような社会を作っていくために、あなた方の命が大切なのだ。あなたがたの命がこの世をもっと明るくすべての人にとって生きやすくなるための光なのだということなのではないかと思うのです。

私たちの命にはそれぞれの違いがあります。それでは、大切な命と大切ではない命、輝く命と輝かない命には何か違いがあるのでしょうか。そういうことではありません。私たちがやはり目を止めるべきは、神が人間を作ったときに私たちをすべて祝福されたことです。私は創世記の初めにある「天地創造」に引き続く「人間創造」の物語が、今日とても大切だと感じています。創世記2:6には「主なる神は、土の塵で人を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。という言葉があります。つまり、神がこの一つの世界の中にいろいろな違いを持った人々を創造したのは、何が正しく何が間違っているということではなく、すべての人の命が同じ社会の中でそれぞれ違う輝きを放っていくこと、すべての命が輝いていけるような社会をこの世に実現させていくというようなチャレンジが私たちに与えられているのではないかと思うのです。そういう意味においても、やはり私たちは世の光であります。
神が一つの世界の中に色々と個性の違う者たちを創造されたということに私は希望を持ちます。この世界の可能性を感じます。しかし問題は私たちがそれを受け入れず、或いはその神の願いを拒否して生きていることだと思います。「これが正しいあり方」という考え方や姿勢が人の自由な命を縛っていっているのではないかと思います。でも私はそれこそがまさに「罪」、「神の御心から的外れに生きること」なのではないかと思うのです。神が私たちに願っているのは、それぞれ違いを持った人々が共に生きて行けるように。助け合ってお互いを支え合って生きて行くことを願っているということに私は慰めを受けたいし、ここに希望を見出していきたいと思うのです。

イエス・キリストは、「山の上にある街は隠れることができない」と言います。私たちは小さないのちなので、それを隠してしまおうとします。しかし、神は私たちの光は隠しようもないものだと言うのです。私が以前住んでいた神戸は、町のすぐ後ろには六甲山が拡がり、夜になると神戸のモチーフである「碇マーク」がライトアップされます。神戸港を作ったときに記念して飾られたのですが、船で行き交う人々に対して「神戸はここだ」ということを示すものでした。山の上の光は、ここに私がいるよと周りに示すものです。イエス・キリストは、その山の上の町とはあなたがたのことだというのです。あなたがたのいのちは既に山の上で輝いているのだ。だからその命を枡の下、机の下において消してはいけない。あなたが世の光として歩んでいくところから、この世の闇は明るくなり、自分のいのちの輝きを汚すようなことを明らかにしていくことができるのだと言われているのだと思います。立派な行いと言うとハードルは高いですが、立派とは何かをすることではなく、その人らしく生きることです。
東八幡教会には有名な標語があります。「神様はどうでもいいいのちをお造りになるほどお暇ではありません」。私はこの言葉に非常に感銘を受けていますし、その通りだと思います。私たちには一人一人使命があり、私たちそれぞれのいのちは神によって肯定的に創られたものであるのです。そしてそれぞれのいのちの在り方は神が私たちに与えられた賜物であるのですから、それぞれの生き方が大切にされるように、私たちは生きて行くことが必要だと思うのです。

実は私は一卵性双生児としてこの世に生を受けました。ほとんど瓜二つの弟が横浜に住んでいます。私は双子に生まれたことを幼いころから、学生の時期まで本当に嫌でたまりませんでした。親は私たちが双子だからと比べることが無いようにと育ててくれましたが、私達二人はいつもライバル心を持って比べ合っていました。そしてお互いの友だちに対してはどっちがより優れているかみたいなことばかりしていました。比べている頃は本当に何をしても楽しくなかったのです。劣等感の塊でしたし、喧嘩ばかりしていました。私は自分に目を向けることができず、双子であるということにずっと囚われてきました。キリスト教の神が一人一人のいのちに意味があることを教えてくださったことによって、双子で生まれたという「呪縛」のようなものから解放されることができました。そしてこんな愚かな私さえ神は愛してくださっていること。それによって、私は私らしく生きて行って良いと言う根本的なことを取り戻すことができるようになりました。私にとって、そのイエス・キリストの愛は私を解放するものであり、自由へと導くものであり、喜びと感動を与えるまさに福音でした。
すべての人が世の光であり、すべての人のいのちが輝いていくことを共に喜んでいくことが神の御心であります。これが私たちが平和を実現していくということに繋がると思います。その光は消えやすい小さな希望のように思えますが、しかしその光に目を向けていくことからすべてが始まるのです。

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