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2023年11月5日説教全文「人生を変えるイエスとの出会い」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 5章1-10節

一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

〇説教「人生を変えるイエスとの出会い」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。(11月)今週も皆さまのご健康が守られ、日々の歩みの上に主の祝福と守りがありますようにお祈りしています。
本日の説教題は「人生を変えるイエスとの出会い」とさせていただきました。皆さんは、「人生を変える出会い」を経験されたことがありますか? それは「人との出会い」かもしれませんし、「言葉との出会い」、もちろん、「出来事の中での出会い」など色々な形があると思います。そのような出会いの多くは、私たちにとっては思いがけないときに与えられる出会いなのではないかと思います。

私たちが今日の聖書個所で受け取っていきたいこともそうです。今日の聖書個所のお話自体は、20節まで続いていますが、長いので10節までを読ませていただきました。一読しただけでも、ひときわ目立つ、違和感しかない不思議なお話だということが分かります。興味を引く情報はたくさんあります。例えば、「ゲラサ人の地方ってどこだろう」とか「レギオン」ってどういう意味だろうと思ったり、「汚れた霊に取りつかれた人の症状」に恐れを抱きつつ、「悪霊の追い出し」ってどういうことか、など気になる部分が満載です。イエス・キリストの他の奇跡物語と比べても、非常に具体的であるにもかかわらずわかりにくいというのが今日の箇所だと思います。でも、ある特定の不思議な物語で終わってしまうのはもったいないので、今日は私たちの身近なことに惹きつけながら読んでいきたいと思います。今日私たちがこのお話しから受け取っていきたいのは、このゲラサ人にとってイエスとの出会いは人生を変える出会いであり、それは唐突に与えられた出会いであったということです。実にイエスが湖を超えてこの地方にやってきて行ったのは、この人に出会うだけでした。この地域は、ユダヤ人からしたら異邦の地であり、全く関係ないと思われていた場所です。しかし、そんな関係の遠いと思える人にもイエスは向こう岸からやってきて出会ってくださる方である、そして私たちが抱える色々な重荷から私たちを解放してくださるということを私たちは受け取っていきたいと思うのです。

聖書に入りましょう。イエスが舟から降りると、汚れた霊に取りつかれた人がやってきます。聖書によると、彼は墓場を根城にしていました。恐らく町の人や家族が彼を取り押さえておきたかったのでしょう。足枷や鎖で縛られたそうですが、彼は鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかった。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
皆さんはこういうお話を聞くと何を感じるでしょうか。私は率直に怖いと思います。何が彼をそうさせたのか、またその人の家族たちの心を考えると、どうにかしたいのだけど、どうしようもない、手の尽くしようもない無力さを感じていたのではないかと思うのです。皆さんは1973年に公開された映画「エクソシスト」というをご存知でしょうか。カトリックの神父が少女に取りついた悪霊を追い出そうとするお話です。当然映画はフィクションなのですが、カトリック教会には実際にエクソシスムという「悪霊払い」の儀式があるようです。プロテスタント教会の中にも悪霊追い出しに力を入れている聖霊派の教会があります。悪霊がおばけのように人に乗り移るというイメージをされる方もいると思いますが、現代で言う様々な精神疾患というものが、当時はわからずにそのように言われたのではないかとも思います。そういうことも含めて、よくわかりません。

まず、私自身がよくわからないと感じるのは、まずは率直に言って汚れた霊という存在についてです。新約聖書では様々な病気や異常行動を引き起こす原因のように書かれています。じゃあ昔から悪霊という存在があるのかというと、実は旧約聖書にはあまりクローズアップされていないのです。というよりも旧約では一人しか悪霊に苦しめられた人はいません。それ以外には「悪霊」という言葉は旧約聖書にはほぼ登場しないのです。では、その悪霊に苦しめられた人が誰かというと、イスラエル初代の王サウルです。サムエル記上に書かれていることですが、サウルは預言者サムエルからの言いつけを守らず自分で判断し行動してしまったことにより王を退けられることを宣告されました。サムエルからは「あなたを王に選んだことを悔やむ」という神からの言葉さえ宣言されています。その後、悪霊が彼のところにやってくるようになりました。ちなみにそんな彼の心を癒すために近くで琴を奏でていたのがダビデでした。音楽療法の始まりと言われています。

さて、とはいっても悪霊が本当にやってきていたのかはわかりません。それよりもサウル自身の状況に心を留めてみたいのです。彼は王位におりましたが、当時、自分を見出してくれたサムエルとの別れ、つまり神に見捨てられたという喪失感、またこれからどのようにしていけば良いのかわからない現実が彼の心を支配し、とても不安定になっていたことが考えられます。彼の判断は国の判断になりますから、その重責は想像を超えるストレスであったと思います。周りには強大国があります。そんな中で自分をこれまで支えていてくれたものがぽっきりと折れてしまったかのような状況のわけです。次第に彼は自分よりも名声を集め、自分から王座を奪いに来る者の存在が恐ろしくなり、猜疑心が強くなりました。実はこれが、彼を襲った悪霊の働きの正体であったと考えられます。つまり不安と恐怖が入り混じって心の平静が保てなくなる状態です。

一方でサウルを苦しめていた悪霊と今日の汚れた霊の働きは大きく異なるように感じます。悪霊が完全に取りついてこのゲラサ人の体を乗っ取っているかのようです。もしかして旧約と新約には数百年のタイムラグがありますし、その間にユダヤはペルシャ文化やギリシャ文化、ローマ文化の影響を受けてきているので「悪霊理解」の変化があったのかもしれません。例えば身体症状や精神症状として見た目には明らかだけれど、原因が明らかでない症状はすべて悪霊の仕業であると理解されていたのかもしれません。そしてそのように悪霊に取りつかれたとされた人が、宗教的な差別を受けていたということは容易に考えられます。だからイエスさまのところにみな来て癒しを求めたわけです。
しかしながら、今日の箇所をよく読んでみると汚れた霊に取りつかれた男が自らから進み出てきて言います。「構わないでくれ、苦しめないでくれ」。この表現からすると、彼はどうも治りたくてやって来たわけではなかったようです。むしろそのままでいたかったのでしょうか。そうであればむしろ遠くに逃げたらよいのではないかと私なら思うのですが、そういうわけにはいかなかったのでしょうか。

こう考えることもできるかもしれません。私たちはイエスさまに会って楽になりたい、救われたいと思う一方で、こんな自分は救われてはいけない。楽になってはいけないと思うことはないでしょうか。むしろ何か誰にも理解されない非効率的、非生産的なことであったとしても、それを行うことで私たちの心が守られると言うことはあるのではないでしょうか。例えば最近、セルフネグレクト、つまり自分で自分自身を虐待するという言葉や自分で自分を傷つける自傷行為というものがあります。つまり何らかの原因があり、自分で自分を罰することで実は何とか自分自身を守っている、何とか心を支えているという方もおられます。 使徒パウロはローマ7:15でこう言います。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。わかるように思います。汚れた霊に取りつかれた彼が自分自身を痛めつけているように思えるのも、そのような彼自身の心の問題から出てきているのではないかと思うのです。治りたいけれども治るのは怖い。治されてはいけないと思う。そういう方の最大の恐怖というは、その自分の心の中を明らかにされ、自分自身がそれを向かい合うことなのです。というのは、そういう状況になった理由というものが私たちには必ず存在するからです。そしてそれは時に私たち自身の人格や尊厳を崩壊させてしまうこともあります。だから時に心が疲れ、まさに汚れた霊、自らを汚すような霊の言葉に動かされてしまうような時もあるのだと思うのです。

イエス・キリストと向かい合うなんて怖すぎる。自分の過去なんて振り返りたくない。本当に苦しいんだ。後生だから、苦しめないでほしい。私たちにはそういう時はないでしょうか。しかし、イエス・キリストは、裁き主ではなく、ましてや私たちを苦しめるためにやって来るのではなく、愛のお方であって、私たちのそのような苦しみを解放し、まさに人生を変える出会いを与えてくださるのです。

イエスは汚れた霊に言います。「汚れた霊、この人から出ていけ」。イエスは言葉を持って汚れた霊を追い出したということに注目したいと思います。汚れた霊という言葉は、「汚れた」と「霊」の二つの言葉で作られています。「悪霊」は一つの言葉なので、違う意味の言葉として区別して考える必要があります。霊とはまさにプネウマ、ヘブライ語ではルーアッハ。神の息であり、霊であり、風であります。私たちに希望を与え、いのちを満たし、心を生かす聖霊なる息吹です。しかし、それが汚れているのです。それは私たちにとっては、私たちの心を挫き、気持ちを暗くさせ、私たちの心から活力を奪うようなものなのではないでしょうか。私たちには時にそういう色々な思いが心に与えられることがあります。

私たちを取り巻く悪霊とは何でしょうか。それは今日彼が墓場から出てきたということを考えてみたいと思います。墓場とは悪霊が住むところとしてはイメージとしてはぴったりです。おどろおどろしく、人がなかなか踏み入れることのできないエリアであると思います。
当時のイスラエルの墓のイメージはわかりませんが、でも私は少し違う印象を持っています。実は私の実家は東京の多磨霊園のすぐ近くにあり、町には石材店がたくさんあります。小学校への通学路は墓地の脇道であり、小学校のマラソン大会は墓地の中を走りました。墓地には自然があります。そして実に墓は多くの方々の思いが詰まっているところであり、きれいに整頓されています。私たちの納骨堂がある平尾霊園もそうではないでしょうか。私も年に数回参りますが、怖い場所であるというよりもむしろ落ち着く場所であり、故人を懐かしむ場所でもあります。

墓場から出てきたということに問題があるのではないと思います。むしろ墓場に恐怖を抱かせる何かがあるのです。例えば、すでに亡くなった方との関係性がある場合ではないでしょうか。もしかしてこの悪霊に憑かれた方は、亡くなられた方との関係に何らかの問題を抱えていたのかもしれません。例えば亡くなられた方の怨念ともいうべき過去の言葉や力に支配されていたのではないでしょうか。もちろん、亡くなられた方の言葉を大切に思い起こす時というのは大切なことですし、尊重して良いことだと思いますが、必ずしもそうではない場合もあります。亡くなった方の言葉がずっと心にとげとして残り、自分ではもうコントロールしようもない状況になるほど心を痛ませてしまうということがあるのです。しかもそれはもう解決不能であることも多々あるわけです。まさに「死者に囚われて生きる」ということがあります。生きていた時よりも亡くなった後の時の方が言葉は心に残るものです。

実は先ほどお話しした悪霊に取りつかれたサウル王は、預言者サムエルが亡くなった後、どうしても彼と話がしたかったのでしょう。死者の霊を呼び出す「口寄せ」を利用したことがあります。彼はサムエルに何を言いたかったのか、謝りたかったのかそれは定かではありませんが、しかし使者にすがったのです。でも、これが決定的に問題でした。何故ならば口寄せは神が最も忌み嫌われることの一つであるからです。
イエス・キリストは言われます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」でも、私たちは死者にすがることがあります。その言葉に準じて生きようとすること、あるは逆に支配されて生きることがあるのです。でもそうではないのです。私たちがすがるべきは共におられるイエス・キリストであり、生きている者の神であるのです。イエスさまはその視点に私たちを招くのです。

イエスは汚れた霊を追い出し、そこに取りつかれていた人を正気に戻しました。正気になるということは、分別がある。自分で物事が判断できるということです。つまり、囚われからの解放が起き、彼には自由が与えられたのです。その彼は、イエスに従って行くことを求めましたが、それは赦されませんでした。しかし、彼はまさに救われたものとして、自分の身に起きたことを語り告げていくようになるのです。イエスとの出会いはここまで人を変える、そして今もなおこの聖書の言葉を通し、私たちを変えていくのだと言うことを、わたしたちは今日、改めて心を留めたいのです。

囚われから解放された時、私たちは、今度は自分自身の体験を証しし、自分の言葉で神の業を語る者になるのです。わたしたちも共に主の言葉に生かされて参りましょう。

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