ニュースレター

2022年9月11日説教全文「アンナとシメオン ~詩編23編からの黙想~」牧師:西脇慎一

説教のダウンロードはこちらから(PDFファイル)

〇聖書個所 詩編23編1~6節

【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

〇説教「アンナとシメオン ~詩編23編からの黙想~」

みなさん、おはようございます。今日の主日礼拝は敬老の日を覚えての礼拝です。聖書の世界は今日の世界とは違い平均寿命は短く、長寿と呼ばれるまで過ごすことができた人は、あまり多くなかったようです。とは申しましても旧約聖書、特に創世記の初期に登場する人々を見てみると、私たちの常識では考えられないほど長く生きられた方々もおられるようです。そういう意味ではいずれにしても長寿を全うできる方というのは、神さまの守りの内にあるということなのだろうと思います。現在WHO(国連世界保健機関)では65歳以上を高齢者としているようですが、日本においては人口の約20%がそれに当てはまります。その割合が高いことから、ご高齢とする年代を上げようとする動きがあったり、少子高齢化が問題だと叫ばれたりしていますので、肩身が狭いと思われる方もおられるのではないかと思いますが、そうではありません。長寿は恵みであり、そのいのちは宝であり、喜びであることを今日心を留めたいと思うのです。

ちなみに、私の年齢は現在41歳ですが、40歳の誕生日を迎えた時、教会員に「いやぁ、いよいよ40の大台に乗ってしまいました」。と言いましたら、その場にシラーっとした空気が流れ一言「先生、あなたは私の孫の世代。大台なんてとてもとても」と言われることがありました。そう言われるともう、「はい。本当におっしゃる通りです」と言うしかないわけですが、同じようにこの場におられる多くの方からすると、まさに私は子どもか孫のような世代の者かもしれません。そんな私が敬老の日に何を語るのかと言うと、皆さまの日々の歩みの上にますます主の恵みと守りがありますようにと祈ると共に、これからの時を皆さまと共に主に在って教会の交わりの中で過ごしていきたいと言うことをお伝えすることです。
そのため今日の聖書個所は旧約聖書の詩編23編を選ばせていただきました。この聖句は旧約聖書の中でも最も好まれて読まれる箇所の一つだと思いますが、説教題には「アンナとシメオン」という名前を出させていただきました。これはルカによる福音書2:22-38に登場するアンナとシメオンのことです。この二人はいわゆる高齢の方々でありました。その聖書個所には、この二人が生まれたばかりのイエス・キリストに出会って慰めを受けたということが記されていますが、後ほどご説明しますが、彼らのそれまでの歩みには色々な困難な出来事があったことを感じさせます。今日はこのお二人のことを想像しながら説教を聞いていただければ幸いです。もし聖書をお持ちの方はルカ2:22以降をお開きください。
ます詩編23編です。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」。著者は主なる神への信頼を告白します。「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」。この情景を想像すると、羊である私たちが、青草の原、水辺において心穏やかに心も体も満たされて安らぎを得ている光景が思い浮かびます。それは主なる神様が私たちの羊飼いとして導いてくださるからであり、どんな時も共にいてくださるからだと詩人は歌っているわけです。

私はまだ行ったことはありませんが、福岡の油山にはモーモーランドがあると聞いています。そこには恐らく、羊が野原で放し飼いにされている光景が広がっているのではないかと思います。神戸の六甲山にも「六甲山牧場」があって同じように羊が放し飼いにされている光景がありました。そこには羊たちが人間を恐れるわけでもなく憩う姿を露わにされており、それを見ると確かに牧歌的というか、のどかな平和を感じます。私たちも神との間にそのような安心できる関係性を願うものであると思います。しかしながらそのような平和な光景は、日本特有のものかもしれません。
実は乾燥地帯で荒れ野が拡がるイスラエルでは、羊は青草の原と憩いの水を求めて、荒れ果てた土地をさまよい歩む存在であったのです。さらに荒れ野においては羊たちは常に野獣に狙われていました。羊飼いは羊を危険に合わせることないように日夜羊を守っていたのです。「あなたの鞭、あなたの杖」というのは、羊を野獣と戦うための鞭であり、羊の守り歩むべき道を示すための杖であります。羊たちにとっては、羊飼いの伴いによって何とか歩むことはできたかもしれないけれど、まさにその歩みは死の陰の谷を歩くようなものであったことでしょう。羊を苦しめようとする者たちが思いがけず目の前に現れることもあったでしょう。そのような困難がイスラエルの人々の歩みにあったということは、この詩編23編のところどころに言葉としても表現されています。ところがこの詩人はそんな歩みであったとしても、羊飼いである主が私たちと共におられるとき、私たちは魂が生き返ったようになる。だから私たちには欠けるところがないと歌うのです。これは神への非常に大きな信頼の言葉ですし、私たちも心に留めたい信仰告白だと言えます。

しかしながら、やはり考えるのです。主が私たちと共におられるのであれば、何故私たちには困難があるのでしょうか。主が羊飼いとして守ってくださるならば、私たちの歩みを万全に守って下さればよいのにと思わないでしょうか。「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」と言っているその背後には、やはり私たちの歩みにはやはり欠けが多くあることを感じさせるのです。欠けばかりではありません。傷もあり、痛みもあるのです。それはイスラエルの苦難の歴史が証明しています。残念ながら神が共にいてくださっても全てが順風満帆に行くわけではないというのが人生です。
ですからやっぱり考えるのです。この詩人の言葉は今の私たちにとっても果たして本当に真実なのでしょうか。私たちの歩みにも絶えず色々なことが起きます。それでは神がいれば私たちは本当に大丈夫だと言えるのでしょうか。正直に言えば、神を信じてもいいことばかり起こるわけではありません。むしろ、この日本と言う社会において言えば、キリスト教信仰といういわゆる「外国の宗教」と呼ばれるものを信じているというだけで、なにか偏見で見られたり、理解してもらえないようなことがあるのではないかと思います。神を信じているのに、なんでこんなことが起きるのか、ということが私たちの歩みは起こるものなのです。
私はそんな歩みを長年過ごしてきたのが、恐らくこのアンナとシメオンという二人だったのではないかと思うのです。ルカ2章22節以降にはアンナとシメオンの人物像が記されています。

シメオンは、正しい人で、信仰に篤く、イスラエルが慰められる日を待ち望み、「メシアに会うまでは決して死なない」と言われていた人でした。アンナは女預言者で、若いときに嫁ぎ、7年の間夫と共に暮らしましたが死に別れ、長い間を一人で過ごし84歳になっていました。シメオンが何歳であったかは聖書には記されていませんが、「メシアに会うまで彼は決して死なない」という言葉から想像すると、彼は死ななかったけれど、周りにいた人々は次々に亡くなっていった。彼だけがいのちを長らえていたということを伺わせます。「不死」と言えば聞こえはいいかもしれません。しかし不死が幸せなのは周りの人々との関係性が保たれるときだけだと思います。つまり親しい友人知人、家族も共に生き続ける時は良いと思うのですが、その関係を次々に失っていく中で彼だけが生き延びるのです。しかも、メシアに会うまでは決して死なないということは、つまり救いがイスラエルにまだ起こらない中、人々が苦しめられている日々を彼は一人、経験しなければならなかった、しかも彼自身にはもう何もできない中で待ち望むことしかできなかったのです。「メシアに会うことができる」という最終的な希望が示されていたとしても、その日々は彼にとってはとても苦しい日々だったのではないかと想像します。「救い主メシアよ!来る言うのであれば、早く来てくれ!早く助けてくれ!いつまで私はこの苦しい中を生き続けなければいけないのか」。このような叫びが彼の口から出てきておかしくなかったのではないかと思うのです。
アンナも同様だと思います。夫と暮らした日はたったの7年、その後彼女は一人で84歳までを生きてきたという状況があるのです。子どもの存在についてはここに触れられていませんが、夫を早くなくした者の悲しみは旧約聖書ルツ記に書かれています。
夫エリメレクを失ったナオミはこう言います。「どうかナオミ(快い)とは呼ばないでマラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出ていく時には満たされていた私を主はうつろにして帰らされたのです。何故ナオミ(快い)などと呼ぶのですか。主が私を悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とさせたのに」 (ルツ1:20-21) 。ナオミのこの言葉は、思いがけない不幸にあったときに、私たちが神に対して口にする呪いと同様です。
アンナの歩みに何があったのかはわかりません。しかし、そのような受け入れがたい出来事が襲いかかってきたこと、苦しい過去があったということだけは想像できます。アンナとシメオンは高齢という共通点がありますが、それだけでなく、その高齢に至るまでの歩みにはそれぞれ様々な出来事、別れ、苦難というものがあったことを思わせるのです。

このように彼らの歩みを振り返ってみたとき、彼らが詩編23編の詩人の言うように満たされていたとか救われていたということは言うことはできません。状況的には神を呪っていたとしてもおかしくないと思うからです。しかし大切なのは、それでも彼らが神殿を離れることはなかったということです。困難はありました。恐らく倒れたこともあったでしょう。神を呪うこともあったかもしれません。しかしそれでも彼らは神のもとを離れることはなかったのです。それどころか、彼らは神殿、神の宮を中心に日々の歩みを送っていたのです。それは何故でしょうか。
私はそれが詩編23編の詩人の言葉に繋がると思うのです。それは、私たちには欠けがあるし、魂が枯渇することもあります。間違える道を歩む時もあるし、災いに遭うこともある。困難もあるし敵がいます。神に叫ぶときも神を呪うこともあります。けれども、神はそんな私たちのただ中にそれでもなおいて下さり、共にいて私たちを支えてくれる存在であるということなのです。むしろそのような関係性の中でこそ、神の存在が力になる。むしろ困難の中でこそ、叫んでよい方がいる。何故ですかと問いかけることができる相手がいる。そのような中で、私たちは神の言葉に私たちははげましと慰めを受けるということがあるのです。その時まさに神が私の羊飼いであるということを感じることに至るのです。
私たちの人生もそうだと思うのです。私の人生41年を振り返ってもそうでした。恐らく長く生きれば生きるだけ、色々なことがあると思います。振り返ってみたら、やはり神の守りなんて感じられなかったような時だってありました。神なんかいないと思ったこともありました。しかしながら、それでもやっぱり神の守りの内に私たちはその歩みが支えられてきたことを感じるのです。私はまだ詳しく存じ上げませんが、皆さまもお一人一人違うストーリーをお持ちだとは思いますが、恐らくそのような個人的な神体験、信仰の歩みを経て今を迎えているのではないかと思うのです。

詩編23編の詩人は歌います。「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。詩人がこのように告白できた理由、またアンナとシメオンが神殿にいた理由、それは、主がまさに彼らそれぞれの羊飼いになっていたからに他ならないのです。そんな二人はその神殿で赤ちゃんイエスさまに会いました。イエスさまはまだ生まれたばかりで何も行っていないにもかかわらず、シメオンは言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」 (ルカ2:29-30) 。シメオンが見た救いとは何でしょうか。アンナは、救い主を待ち望んでいる人々に幼子のことを話しました。アンナは幼子について何を話したのでしょうか。それはイエス・キリストにおいて今後なされていくすべての人の救いの約束の希望、どんな時も私たちを見放すことのない「インマヌエル(神、われらと共におられる)」という希望であったのではないかと思うのです。
それがイエス・キリストがこの世に与えられたということだけではなく、神殿という神の家、言い換えれば教会の交わりのただ中、つまり私たちの現実のただ中に与えられた。そしてそれはまだ成っていないにもかかわらず、見たということは、私たちは既に神の伴いの中にあるということなのです。それは神の約束において「私たちが欠けていても満たされる世界」に生きているということなのです。

私たちは今日、この西南学院教会の礼拝の中に、今改めてイエス・キリストが生まれたことを確認したいと思います。私たちの歩みには恐らく一人一人固有の課題、困難、苦しみがあるでしょう。私たちには互いに欠けがあります。しかし、神は私たちに伴っていて下さり、その証拠としてイエス・キリストを私たちのただ中に与えられました。私たちはこのイエス・キリストの福音を互いに分かち合い、共に神の家族として助け合い、支え合い共に生かされて行きたいと思います。皆さまの歩みの上に主の恵みと守りと慈しみと平和がありますようにお祈りしましょう。

関連記事

TOP