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2022年9月4日説教全文「神の選びと人々の支えによって 」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 ヨシュア記1章1~2、5~9節

主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。
一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」。

〇説教「神の選びと人々の支えによって」

皆さん、おはようございます。9月より西南学院バプテスト教会の主任牧師として赴任して参りました西脇慎一です。今年の3月13日に一度礼拝にお招きいただき、説教をさせて頂きましたが、その時は皆さまとゆっくりお話しもできなかったため、初めましてのような気分でいます。改めまして、これからどうぞよろしくお願いしますと皆さまにご挨拶申し上げます。

就任最初のメッセージということで少々緊張しておりますが、聖書個所に入る前に少しだけ私の思いをお話しさせていただきたいと思います。今回の西南学院教会からの招聘は私にとってはまさに青天の霹靂でありましたが、皆さまにとっても不思議なことだったのではないかと思います。招聘候補に私の名前が挙がったことを聞いたとき、恐らく皆さまの脳裏には「西脇慎一って誰?」と浮かんだことではないかと思います。それは仕方ないことだと思います。というのは私は2010-2013年度に西南学院神学部と大学院で学びの機会が与えられましたが、その時は西南教会の礼拝には一度しか来たことがありませんでした。当時私が西南教会で知っていたことは、研修神学生をしていた劉ブンチクさん、現在は西南学院の宗教主事をしておられますが、彼女とは神学部同期ですので、彼女の教会くらいのことしか知りませんでした。それなのに今回の巡り合わせが与えられるということは、本当に奇跡的と言うか、この背後には何か神さまの深いご計画があるのではないかと思わざるを得ません。私はそれを主の導きと信じ受け止めて参りました。皆さまもまた恐らくは私個人を信頼したと言うよりも、そのような背後におられる神さまを信じ、その神に期待しながら牧師としての職務を委託を私に与えてくださったのだと思います。私は、そのような思いに応えて皆さまと共に歩んでいきたいと思います。これから何が起きるかはわかりませんが、どうぞよろしくお願いします。

しかしながら、そういってはおきながらも、この働きに私が相応しいかどうかということがわたしには、今も自信がなく、心の内には大丈夫かなと思う不安な気持ちがあります。他に適任者がいるのではないだろうか。西南学院教会100周年、数多くの先輩牧師を輩出されていますし、牧師を40年も担われた踊一郎先生に次いで宣教・牧会するのは、年も若く、牧師経験8年少々の私には重荷であると感じられたからです。しかし、そのような思いが心を騒がせている時に、今日のヨシュア記の聖句が心に浮かびました。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても私が共にいるからである」。
この言葉は、出エジプトのリーダーであるモーセの後継者ヨシュアに神が語られた有名な言葉です。あらかじめ言いますが、私自身をヨシュアに重ね合わせるつもりはまるでありません。しかし状況的には似たような境遇にいるのかなと思うのです。踊先生が数多くの先達の方々から託され引き継いできた信仰のバトンをいま私は神さまの不思議な巡り逢いで引き継ぎました。それは教会員の皆さまの多くの思いが込められたものでもあります。西南学院教会は100周年を12月に控え、これからの新しい歩みを始めていこうと思っています。出エジプトの民も40年の荒野での歩みを終えて、ヨルダン川を渡っていく時を迎えました。ちょうどその時に、神がヨシュアを選び、そしてこの言葉を語り掛けているのです。

若き日のヨシュアにこの声掛けはどのように響いたのでしょうか。その気持ちを考えてみると、偉大な指導者モーセからのバトンを受け取った。しかもそれは神の選びであった。とはいえ、その心には大きな不安があったことが予想されます。なんたって長年民を指導してきたリーダーを失う中で新しい地に歩み出していかなければいけないわけですから。しかもヨルダン川を超えるというのは、今まで自分たちが経験してきた出来事や知恵というものが全くあてにならない世界に入っていくということであります。これまで通りが通用しない時、私たちを支えるのはやはり頼りがいのあるリーダーシップだと思うのです。しかもそのリーダーシップは信頼によるものでなければなりません。モーセのようなリーダーシップが果たして自分にあるのか、恐らく考えただろうと思うのです。これから先、一つの判断の間違いが多くの命を脅かすことだってあるわけです。そのように考えるとできればモーセさん、もうちょっとできませんか?とかいや他の人いるんじゃないですか?とか言ってもおかしくはなかったと思うのです。
でもそんな彼を励ましたのが、繰り返し語られるこの言葉と人々の支えだったのです。「強くあれ。雄々しくあれ」。短い箇所で3回も繰り返される神の言葉。これはヨシュアが非常に不安におののいていたことを明らかに示しています。でも、そんな彼に神は「あなたがどこに行っても、あなたの神主は共にいる」というのです。つまりこの言葉は、「ヨシュア、あなたもしかして一人でやっていこうとして恐れているのではないか。私はあなたに一人でやっていくように伝えているのではない。私が共にいるのだ。だから、大丈夫なのだ」ということを伝えているのです。そしてその後に今後は民衆も同じように「強く、雄々しくあってください」(ヨシュア1:18)と言います。それは、新しい指導者ヨシュアの「お手並み拝見」という態度で観察するのではなく、それは「私たちも共に歩んでいくし、あなたを支えていくから安心してください。大丈夫ですよ」という意味のように響く野です。実にヨシュアは不安の中にいましたが、しかし神の言葉、神の伴い、また民衆の支えによって、新しい地に踏み出していくことができるようになったわけです。

わたしは、こんなヨシュアの姿とまたその民の信仰。またそんな彼らのただ中にいる神の言葉に非常に励ましを受けますし、この言葉は、まさに新しい歩みをしていく私たちに今必要な言葉だと思うのです。そして実はこの言葉は、申命記31:6-8に記されている言葉でもあります。その文脈では実はモーセが直接ヨシュアに同じことを言っているのです。しかし最後の部分が少し違うのでお読みしたいと思います。

「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」。

実はこの言葉は、私が先週まで牧会をしていた神戸バプテスト教会で最後に行われた納骨式でお読みさせていただいた言葉です。納骨した方は4年前に病気で亡くなった40代の男性の教会員でした。その方の死は教会全体にとって非常に大きな出来事で最も悲しい出来事の一つでした。何故ならば当時まだ小学生・中学生のお子さんを3人もったお父さんであったからです。納骨式を頼まれたとき、また彼との思い出、また彼の葬儀の時の原稿など読み合わせました。すると、その彼が好きだった聖書個所が見つかりました。それがこの箇所でした。「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」。なんで、彼がこの箇所が好きだったのかということは、わたしにもお連れ合いにもわからないことでした。しかし、この言葉を納骨式に読むことは、その時にその家族によって非常に大切だったのではないかと思いました。それは、新しい歩み出しをするお連れ合いと子どもたちに対して、まさに彼自身が神さまの伴いによって神の国に招かれたということ、そしてそれは悲しみではないということ。またそれぞれの子どもたちの歩みの上にも、変わらずに神さまの伴いと導きがあるということを、本当に力強く示すことであったからです。

そういう風に考えた時、もしかしてこのヨシュアというのは、今の私たちにとっては、誰々と言う固有の人物のことではなく、自分たち一人一人のことだと感じるのではないかと思うのです。例えば私にとっても新しい地に踏み出してこの地にやって参りました。これはわかりやすい新しいスタートだと思います。でもそれは私だけのことではなく、私が別れを告げた神戸教会にとっても新しいスタートになったのです。それは牧師が不在になるという変化が起きたことによって、今までとは違うことが始まっていくからです。そしていままさに神戸教会も神さまの守りのうちに歩みが始められています。そしてその新しいスタートは同様に、西南学院教会、あるいは教会員の一人一人にとっても起き始めています。新しい牧師がやってきた。外部の人間がやってきた。それは異質な背景を持つ者との出会いが与えられたということです。この出会いによって皆さん一人一人になんらかの変化が起きてきます。最初はもしかして違和感しかないかもしれません。違和感は排除したくなるものです。しかし、実にこの違和感こそ大切で、これによって私たちが問われ変えられていくということが始まっていくのです。

モーセがヨルダン川の目前でヨシュアにバトンを渡したことによって、ヨシュアには大きな変化がありました。しかしヨシュアだけでなく、その周りの人々も同じように変わっていきました。それは体制が変わったことによってすべての人の意識が変わったことにあります。
ヨシュア記はカナンの征服物語ですので軍事色が強く血なまぐさいです。しかしそれが本当に歴史的にあったのかということは立証されていませんし、恐らくそうではないのだろうというのが学問的には共通の理解です。私はヨシュア記を読むときに大切なのは「何が書かれているか」ということよりも、むしろ新しい地に踏み出す時に私たちがより頼むものは何かということだと思うのです。ヨシュアは力強いリーダーのように思えますが、士師サムソンのような剛腕なわけではありませんでした。彼は民衆の前に立つ機会はもちろんありましたが、どちらかといえば部族をチームにまとめ、メンバーに支えられながら主の導きを求めながら動くタイプのリーダーでした。現に、ヨシュアがヨルダン画を最初に渡ってしたことは、12の石を記念することでした。それは12部族の結束を強める意味合いを持つ者でした。そして彼が為したもっとも大切な働きは、常に新しく起こってくる困難の中で、人々の信仰を主に向けることであったと思うのです。
それはヨシュアの晩年に告別の言葉に明らかです。ヨシュアは、残された部族長たちに言います。「(あなたがたが)仕えたいものを、今日、自分で選びなさい。ただし、私と私の家は主に仕えます」 (24:15) 。

私たちは新しい歩み出しを始めました。これからそれは続いていきます。それでは私たちの「新しき地」とは何でしょうか。それは主イエス・キリストの神の国であります。しかしそれは力づくで奪っていくものではありませんし、どこかから完成された形でやってくるものでもないようです。
ルカ福音書17:20-21にはこのような言葉があります。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。
実はこの箇所は私が先週の神戸教会での最後の礼拝で選ばせていただいた箇所であります。神の国。私たちはこのように聞くと完成された理想的な国を求めますし想像すると思います。でもそうするとそのような神の国というものは確かに選ばれた者たちの国、罪ある人は入れない神の国のような固定概念が捨てきれません。しかしそれはファリサイ派や律法学者が想像する神の国とあまり変わりのないものなのではないかと思います。

しかしイエスさまはそれを否定された上で、あなたがたの間にあるのだと言われるのです。つまりこれは対話的で過程的なものです。つまり私たちの交わりの中にあり、日々新しくされていくもの、これがイエスさまの言っている神の国なのではないかと思うのです。イエス・キリストは、良きサマリア人の譬えを用いて、「わたしの隣人は誰ですか?」と問われたことに対し、「誰がその人の隣人になったのか」と問われました。隣人になって行く過程に神の国があるのだということなのではないでしょうか。
私たちには互いに新たな出会いが与えられました。わたしは皆さまとの出会いの中で、対話の中で共に神の国が実現することを祈り求めて参りたいと思います。そのようにした時に、私たちはこの100周年の後、またこれからの新しい西南学院教会を祈り求めていくことができるのではないでしょうか。共に祈り求めて参りましょう。

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