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2023年1月29日説教全文「ムナは等しく与えられている命」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 ルカによる福音書 19章11~27節

人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ』」。

〇説教「 ムナは等しく与えられている命 」

みなさんおはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。先週はとても最強寒波と呼ばれる強い寒気があり雪も降りました。今日もまだまだ寒さの中にあります。皆さんのご健康が守られ、今週の新たな歩みの上に豊かな祝福と恵みをお祈りしたいと思います。

早速聖書のお話しに入っていきますが、先週の礼拝でも申し上げた通り、西南学院教会では今日総会が行われ、執事と監査の選挙が行われます。主の導きを祈りたいと思いますが、確認したいことはバプテスト教会はだれか特定の人にお任せをする教会なのではなく、「教会はキリストの体であり、一人一人はその部分です」。と言われるように、一人一人の教会員の個性を分かち合っていく時に成り立っていく教会であります。そのことを考えるために、今日は「ムナの譬え」からお話をします。今日の宣教は先週の「タラントンの譬え」と二つで一つのメッセージとしています。先週の礼拝に出席できなかった方々もおられますから、少しの振り返りをしたいと思います。じっくり話を聞きたい方はどうぞYoutubeチャンネルをご覧ください。

「タラントンの譬え」では、主人は三人の僕のそれぞれの力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントンを預け、出かけて行きました。2人の僕はそのお金を用いて商売をしましたが、1タラントンの僕は穴を掘って地の中に隠しておきました。主人が帰ってきて清算を始めると、僕たちはそれぞれの報告をしますが、主人は1タラントンの僕の報告を聞き、大変がっかりしてこの僕を追い出したというお話しでした。疑問点はいくつもありますが、これが「天の国」の譬えと言われると、私たちは結局のところ神の期待に応えてうまくやらないと追い出されてしまうのかという疑問を持つというお話をしました。
そもそも主人の態度に違和感があります。何故タラントンを不公平に預けたのでしょうか。私たちは不公平な態度や他人と比べられることで傷つくことがあります。それがたとえ神が与える恵みであったとしても喜ぶことができなくなってしまいます。劣等感が生じてくる。その結果、彼は自分に与えられたタラントンを土の中に埋めて、見えなくしてしまいました。でも、それは主人が願っていたこととは違いました。主人はあなたを見て、あなたに相応しいタラントンを与えられたからです。それは差別や区別や不公平ではなくあなたへの特別な神の恵みであるのです。あなたはあなたで良いのだ。誰と比べる必要もない恵みであり、タラントンなのだ。タラントンとは英語で「賜物、才能、能力」などを表す言葉ですが、あなたに必要なものを実は神は既に与えられている。それを用いていくのがタラントンのメッセージであり、それを用いて僕たちが自由にやっていくことを神は願っている、それはうまくいったから成功で失敗したからダメだったということではない、そのように私たちを信頼している神がおられるということが神の国なのではないかということを、先週の礼拝で受け止めました。

それでは、今日のムナの譬え話はどうでしょうか。タラントンの譬えと大きく異なっている部分は、やはりタラントンは不公平に与えられましたが、ムナは一人一人に公平に与えられているということでしょう。タラントンが賜物、能力であり一人一人に与えられた個性であるとしたら、それではこの平等に与えられたムナとはなんなのでしょうか?皆に公平に与えられているものと言えば、「私たちのいのちそのもの」なのではないでしょうか。
ムナがいのちであるとすると、タラントンという能力を用いるというのとは違うお話になります。タラントンの譬えでは、一人一人与えられた能力を用いて、与えられたのと同じ分だけもうけを得ていますが、ムナは同じいのちを用いて、それぞれが違う成果を上げています。スタートラインが一緒で結果が異なるということは、明確にその本人の努力自体が問われているようでそれはそれできついことのように思えます。しかし、このムナのお話が伝えたいことは恐らくそこにあるのです。

実はタラントンのお話にはないもう一つのストーリーがこのムナのお話しには隠されています。それは実はこの主人は、「王の位を得るために出かけて行った」ということなのです。つまり、この僕たちは王の僕であるのです。そして僕たちは王の信頼を受けてムナを与えられているのです。言いたいことは、王位を戴冠して帰ってくる主人に対する僕たちの思いがここでは問われているということです。

それを表すかのように、14節にはこういう言葉が入っています。「国民は、彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に頂きたくない』と言わせた」。不思議な情報です。この主人は王位を継ぐ立場にありましたが、国民からの評判はすこぶる悪かったというのです。タラントンの話にはこんな情報は出てきません。この主人は一体誰なのでしょうか。しかし主人はそんなことはまったく気にしているそぶりは見せません。でも、そのような主人の評判を僕たちは気にしていたのだと思うのです。もしかしてこの僕の中には、この主人はどうせ王位を継ぐことはできないだろうと考えたり、帰ってくるためにはまだまだ時間がかかるだろうと思ったりして、与えられたムナを用いようとしなかったということが考えられるのです。
ところが主人は無事に王位を継いで帰ってきました。どれくらいの時が経過したのかはわかりません。1か月かもしれませんし、1年後かもしれません。もっと長い年月が過ぎていたのかもしれません。しかし、「その日は盗人のようにやってくる」という言葉があるように、「まだまだ帰って来ない。まだ大丈夫」だと思っていた人にとってはあっという間に来るのです。ここで私たちが一つ受け取るメッセージは、「目を覚まして生きていく」と言うことであります。

王位を継いだ主人は、帰って来て僕たちを呼び、どれだけ利益を上げたかを知ろうとしました。最初の僕は言いました。「ご主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました。主人は言った。「良い僕だ。よくやった。おまえはごく小さなことに忠実であったから、10の町の支配権を授けよう」。
1ムナは、1日分の労働対価である1デナリオンの100日分と言われています。タラントンが6000日分ですから、確かにムナはごく小さなものに見えるかもしれません。ところがそれをうまく用いた時に、主人から与えられる報酬は破格です。10の町の支配権を与えるというのです。自分に与えられた1ムナを用いて5ムナ儲けた者もいました。彼は5つの町の支配権を与えられました。

ところがその中には1ムナを隠しておいた者がいました。彼は言います。「ご主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものを取り立て、蒔かないものを刈り取られる厳しいお方なので、恐ろしかったのです」。タラントンの話では僕は土の中にタラントンを埋めて隠しましたが、こちらの僕は布に包んでしまっておいたと言います。実は布というのは手ぬぐいのようなもので、通常これを頭の上に蒔いて日よけとしていたそうです。つまり、こちらの僕は、与えられたものに目を留めずにいたのではなく、自分のいつも目が届くところに丁寧に置いていたというのです。いつでも使えるのにそのムナを使わなかったということなのです。
ですから、これに対して主人は怒ります。嘆くという表現の方が適切かもしれません。目を留めたい言葉は23節です。「ではなぜ、私の金を銀行に預けなかったのか、そうしておけば帰ってきたとき、利息付きでそれを受け取れたのに」。タラントンの譬えでは主人は「それなら私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰ってきたとき、利息付きで返してもらえたのに」。と言って、タラントンを用いなかった僕にがっかりしていますが、ムナの譬えでは「ではなぜ私の金を銀行に預けなかったのか?」という形で明確に僕の行動を非難しているのです。「わたしのことをそうやって理解しているのであれば、当然取るべき次の対応を何故しなかったのだ?」ということでしょう。

厳しい、心に突き刺さる言葉です。およそ愛なる神の言葉には思えません。でもそれは主人の期待の高さの現れだったのだと思います。私が王位を継いで帰ってくることを信じ、忠実に働いておいてほしかったのです。ところが僕はそんな主人を信じず、その期待に応えようとせず自分のムナを用いようとはしませんでした。でもそのムナをきれいにきれいに手ぬぐいに包んでおくことを主人は期待していないのです。与えられたムナを用いることが求められているからです。ここで与えられた報酬が「町の支配権」であったということにも注目したいのです。「町」というのは人の住む場所であり、人の命の営みが守られる場所です。もしかしてムナは、自分の命を用いて他人の命を守ること。みなの幸せのために忠実に仕えること。それが主人の願いであった。主人はその思いを想像し、その思いを共有し、その働きを共に為していってほしかったのです。預けられたムナというものはその試金石とも言えるかもしれません。その場合、彼らが得た利益というものは、他の人の幸せや命の守りであったのでしょう。神から与えられた命は、自分のためにではなく用いて分かち合っていくものであるということが分かります。しかし、その僕はそれをしなかったのです。

主人はこの僕に対してきつい言葉で叱責しています。しかしそれには理由があります。なぜならばその僕がしたこと、つまりいのちを用いなかったということは、いいかえれば主人の期待の反対のことであった。さらに言うとむしろ主人の敵が行うことであったとさえ言えるからです。27節「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」。怖い言葉に聞こえます。でも考えてみたいのです。僕たちがいのちを用いないということは、自分たちが助けられるいのちを助けなかったということにも繋がるのです。主人がムナを与えられられたのは、そのムナを用いて人々を助けるためであった。だから忠実な僕に町の支配権を与えた。ですから、その期待に応えないと言うことは、他人の為ではなく自分のために生きていることなのです。そうではいけません。一人一人に公平にムナを与える神は、そのムナを用いてすべての人のいのちの営みを守ることを願っているからです。人は自分のためだけに生きる存在ではないのです。ですから先ほどの主人の発言の背後には、むしろそれほどの神の愛が込められていたということとして受け止めたいのです。

さて、今日の譬え話はどういう人たちに語られたのでしょうか。実はルカ19章は有名なザアカイの物語から始まっていて、11節に「人々がこれらのことに聞き入っているときに」と言っていることから、ザアカイを含む弟子たちの交わりに語られたと思われます。ザアカイの物語の最後にイエスさまはこう言います。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は失われた者を探し出して救うために来たのである」。

ザアカイはイエス・キリストと出会い、変えられました。それまで彼が執着していた金銭を得ることから解放されて、自分の財産の半分を貧しい人に施し、だまし取っていたなら4倍にして返すと言ったのです。そこに生きていくと告白し宣言したときに、イエスさまはザアカイに救いを告げ、この譬え話を話されたのです。それはザアカイが自分のムナに忠実に生きていくことを告白したからです。

神の国とはどういうところか。私たちはイエスさまが来たところが神の国だ。救いは起きたと思います。しかしイエスさまがこのムナのお話を通じて教えようとしていることは、神の国は少なくともすぐに現れるものなのではないということです。主人が王位を継いで帰ってくるまでの間があります。そしてそこで問われているのは、その間を生きる私たちの応答なのです。必ずイエスさまが再びやって来られる時が来る。その約束の時まで、その言葉を信じて、私たちに与えられたムナ、あなたのいのちを神の御心のように忠実に生きる時に、あなたは神の国に生きることになるのだということをイエスさまは伝えようとしているのではないでしょうか。

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