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2023年2月12日説教全文「福音は全ての人に救いをもたらす神の力です」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 ローマの信徒への手紙1章16~17節

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

〇説教「 福音は全ての人に救いをもたらす神の力です 」

みなさんおはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週一週間も皆さまのご健康が守られ、歩みの上に豊かな出会いと祝福がありますようにお祈りしています。

先週の主日礼拝は「バプテスト・デー」として守りました。バプテスト・デーは、日本におけるバプテストの宣教開始記念日であるため、バプテスト教会の最も大切にしていることをお話ししたいと思い、ヨハネ福音書8:31-32から「真理はあなたがたを自由にする」と題してお話をさせていただきました。その中で、バプテストは真理を求め続けた教派であり、真理ならざるものと戦ってきた。それは、偽物の福音であり、「これが唯一の真実だ。こうしなければ救われない。だからこうしなければならない」。という固定化され画一化された聖書の読み方であり、人を縛り付けようとする教えである。それだけではなく、聖書に根拠を求められないような教会の伝統、慣習であったり、「クリスチャンならこうすべき」とか「清く正しい敬虔なクリスチャンらしさ」みたいな信仰生活の教えもそうではないか。バプテストはクリスチャンらしくあるというよりも、むしろ自分自身として聖書に向かい合い、信じて生きて行くことを選び取った教派であるとお話しいたしました。

今日はその続き、というわけではありませんが、同じようなテーマでこの礼拝を守りたいと思います。何故かと言うと、昨日2月11日はキリスト教会では「信教の自由を守る日」として記念しているからです。日本のカレンダーではこの日は「建国記念の日」とされていますが、私たちはそのようには守りません。何故ならばこの日は戦前には天皇の即位を記念する「紀元節」という祝日であったからです。そしてそれによって天皇を中心とする国家形成が進められ、国家神道の影響が強められ、信教の自由が脅かされたのです。教会の礼拝は憲兵に監視され、礼拝の前に宮城遥拝を強制させられ、宣教師たちは国外退去処分となりました。キリスト教会も仏教界もその力に抗うことができず、戦争に協力せざるを得なくなっていきました。聖書が証しする主なる神さまならぬものを神として認めざるを得なかった過去が私たちにはあります。ですから戦後、もはや二度と同じ過ちは繰り返さないために、その反省に立ち、悔い改めるために、この日をそのように記念しているのです。ですからバプテスト教会は、敢えて天皇歴である元号を使わずに西暦を使うのです。時の神はキリストであるからです。
「個人の信教の自由」そして「政教分離の保持」を主張すること。これがバプテストの特徴であります。それは「個人として生きること」であり、私たち一人一人の個性あるがままを「良し」とされた神を信じて生きるということ、それが神の国に生かされることなのではないかと思います。
今日の聖書個所、ローマの信徒への手紙1章16-17節はパウロが記した手紙ですが、そのようなことを伝えようとしているのではないかと思います。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。
この「ユダヤ人にもギリシャ人にも」と言う言葉には、福音というものはその人がどんな属性であるかに関わらずに届けられるものであることを語っています。つまり福音が告げるイエス・キリストの神の国というものは、その人がどんな属性であるかに関わらず開かれているものであるのです。

私たちは「国」というと、人種、民族、肌の色、言語などの文化背景による共通グループを想像します。何故ならばその同質集団の持つ特徴、文化、価値観を守るために国は作られるからです。英語で「国」というとcountryやstate、nationという言葉がありますが、countryには国土、stateは土地と住民に対する統治機構、nationには出生、土地の民族そのものを意味する言葉に語源があります。そしてその国を守るために時に立ち上がってくるのがナショナリズムであります。それはその性質上、異質な存在を排除し、抑圧し同質化を促すものであります。人が作る国というものは言い換えればそうならざるを得ない性質、限界性というものを元々持っているのではないかと思います。

しかし、パウロが今日の箇所で語ろうとしていることは、イエス・キリストの神の国はそういう同質性によるものではないということです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。そこにはどんな属性であるかは関係ない。むしろ言い換えるならば、イエス・キリストの福音とは、私たちを取り巻く様々な属性から私たちを解放するものである。すなわち、キリストこそ私たちの唯一のアイデンティティであることを伝えるものであると言えます。私たちは日本人のクリスチャンではなく、クリスチャンの日本人なのです。

でも、一つ疑問があるのです。何故パウロはこの16節において、ユダヤ人、ギリシア人に続いてローマ人にもという言葉を入れなかったのかということです。ローマの信徒へ向けて書いているなら、むしろローマ人にもという言葉を入れる方が自然です。受け取った側も「なんで自分たちローマ人は入っていないのか」と思ったかもしれません。しかし、その前の15節に「ローマにいるあなたがたにも、是非福音を告げ知らせたいのです」。と記されていることから、パウロは、当然ローマ人も含めてすべての人に福音は告げられるものであり、すべての人に救いをもたらすものであることを伝えようとしているのです。
ちなみに当時のローマ人とはローマの市民権を得ていた人々、つまりローマ皇帝の庇護を受け、利益を得ていた市民であり、ローマ皇帝こそ神の現身であると信仰している方々であったと思われます。しかしその社会の中にはやはりローマ市民ではない存在、奴隷、他国人がいて、使徒言行録の中でパウロが不当な裁きを受けたように、様々な社会のひずみや差別構造、真理ならざるものがあったことが伺えます。ですからパウロは、そのようなローマ社会に生きる方々にイエス・キリストの福音こそ私たちを解放するものであり、自由を与えるものであるこそ。そのような福音に私たちが生かされる必要があることを信じ、また自分もローマに赴き共に励まし合いたいという願いがこの手紙には込められていたのではないかと思うのです。

パウロは言います。「福音は全ての人に救いをもたらす神の力である」。それでは、その根拠はどこにあるのでしょうか。そもそもパウロは何を福音として考えていたのでしょうか。実は1:2-4節にこう記されています。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方がわたしたちの主イエス・キリストです」。

パウロが語ろうとしている福音とはイエス・キリストそのものであり、より具体的に言えば十字架による罪の贖い、そして復活という出来事であります。十字架とはいわゆる処刑方法の一つでありユダヤ人、ギリシア人からしてみれば呪いと暴力の象徴であり、ローマ人からすれば権力と裁きの象徴であったと言えるでしょう。「力や勝利」を奉ずる人々からすると、そんな十字架の福音なんて恥であり、最も無価値なものであったと思います。ですからパウロは1コリント1:18でこのように語るのです。「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かですが、私たち救われる者には神の力です」。

何故そのようにパウロは語ったのでしょうか。イエス・キリストの十字架と復活が福音であるということについて、パウロは続くローマ3:22-25にはこのように記しています。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」。

福音とは何か。それは、イエス・キリストの十字架による贖いで神の恵みによって無償で義とされたことだ。義とは何か。それは神の目に正しくされるということです。人は全て罪びとであり、律法を守ることによっては救われません。しかし「イエス・キリストを信じることにより、信じるものすべてに与えられる」。ものであるとパウロは言うのです。この箇所については原文の言葉から別の訳し方もでき、イエス・キリストを信じること、というよりもイエス・キリスト御自身の信仰そのものによって、私たちが信じる信じないを問わず、既に与えられているものであると考えることもできます。だからこそ、それは無償の愛、神の恵みによって私たちが義とされたのだと受け取ることもできるのです。

しかしその十字架の贖いを証明することはなんであるのかということが気になります。ただイエス・キリストが十字架で殺されて終わっただけではないという根拠はどこにあるのでしょうか。ですからパウロは6:4-10でこう語るのです。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」。

キリストは御父の栄光によって死者の中から復活させられたのだ。死はもはやキリストを支配せず、もはや死ぬことはない。キリストは神に対して今も生きているのだと言います。

「復活」という出来事は、私たちの頭ではなかなか理解できないことかもしれません。しかし、神は人々の贖いのために死なれたイエス・キリストを復活させられたのだ。それは罪や死や暴力というものが人を支配することのないためである。私たちにイエス・キリストの福音が必要なのは、その希望に立って歩むためである。だからこの言葉によって生かされていくことが大切なのです。ましてそのために私たちはイエス・キリストと共に新しい命に生かされていくためにバプテスマを受けたのです。だから私たちは自由と解放を得て喜び歩み出していこうと招いているのではないでしょうか。

17節にはこうあります。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」。

啓示と言う言葉はアポカリプスと言い、黙示録で使われている言葉と一緒です。黙示というとおどろおどろしい感じがありますが、実は「明らかにされている」という言葉です。つまり全てはイエス・キリストによって明らかにされているというのです。先週の礼拝では、真理というものも、すでに明らかにされているものだとお話をしました。

福音と言う真理。それは、イエス・キリストの行いと言葉が記された福音書に書かれています。一言でかいつまんで言えば、世の主流の人々から排除されたような人々、罪びととされたもの、貧しいもの、病の中にあるもの、様々な心の思い悩みを持っているような方々。イエスはそのような人々のところに伴い、寄り添い、その声に耳を傾け、共に泣き共に喜び、神はそんなあなたを見捨てたわけではない。神があなたを愛しておられることを示すために、私はやってきたと言われるのです。全ての人の救いとなる福音。その福音は人を差別せず包むものです。それが神の力、神の豊かさなのです。そしてそれが神の国の広がりなのです。

神は、今私たちはこの言葉を心に留めて、神の視点に立ち、信じて歩んでいきたいと思うのです。そしてすべての人を生かす神の国の実現、神の平和の実現を求めて祈って参りましょう。

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