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2023年2月26日説教全文「受難と感謝~貧しいやもめの献げ物」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 ルカによる福音書 21章1~4節

イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。

〇説教「 受難と感謝~貧しいやもめの献げ物 」

みなさんおはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さまの今週一週間の歩みの上に主の恵みと守りがありますようにお祈りしています。

今日は聖書箇所に入る前に2つのことをお話ししたいと思います。まず一つ目は、今週24日をもってウクライナを舞台に繰り広げられている戦争は2年目へと入っていったことです。両陣営ともに戦争を継続することを選び取りました。それぞれに多大な犠牲、大きな被害が出ているだけに引くことは簡単ではないことは理解できますが、お互いに歩み寄りができない姿があらわになっています。またこの出来事によって世界の分断も広がっています。そして世界中で食料やエネルギーなど様々な影響が出ており私たちの生活にも直結しています。「これは自分の国を守るための正義の戦いだ。自分たちは間違っていない」。双方ともにそのように主張します。しかし起きている現実を見ると、戦うことは結局のところ何も生み出すものではなく、かえってすべての人の痛みにしかならないということを実感します。イエス・キリストは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言いましたが、剣を取る者だけでなく、その周りにいるすべての者が滅んでいくのが現代の戦争であると感じます。そのような中で、神が果たして人間に願っていることは何なのか、私たちの主であるイエス・キリストは何を語りどのように歩んだのか。私たちはこんな時こそ、主の御言葉に聞いていきたいのです。

もう一つのことです。先週22日からキリスト教会では受難節(レント)という暦に入りました。受難節はイエス・キリストの受難の出来事を改めて自らの事柄として受け取る40日のことです。レントは毎年移動する記念日ですが、その始まりの日は「灰の水曜日」と呼ばれ、灰を頭にかけることを通して悔い改めを示すことがかつて行われていたそうです。今年は2.22でしたので世間では「にゃんにゃんにゃんの日」と言われているみたいですが、私たちはこの時期をイエス・キリストの十字架という苦難に込められた私たちへの愛と、私たちの罪の赦しを黙想し、悔い改め、主の御心を求めて歩む時として守りたいと思います。伝統的なキリスト教の教派では、この時期に合わせてイエス・キリストの苦しみを想うために断食をする方々もおられるそうです。

一方でこの時期は日々与えられている恵みに感謝することでもあります。レントに入る前の3日間も一つのお祭りとして記念されているのですが、なんと言うかご存知でしょうか。答えは「謝肉祭」、カーニバルです。リオのカーニバルがサンバで有名ですが、これは神さまから日々の糧が与えられていることを断食に入る前に感謝し、祝うことから始まっています。恵みと受難への応答へのオンとオフと言いますが、このようにキリスト教の暦は聖書には記述がないまでも、イエス・キリストの歩みを覚え、神の恵みに日々感謝し応答する時として守っていきたいと思います。
今申し上げた二つのことに関連して、今日は「受難と感謝~貧しいやもめの献げ物」と題してお話をします。ルカ21:1-4をもう一度お読みします。「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。

みなさんはこの箇所を聞いて、どんなことを想われるでしょうか。場面状況は想像しやすいと思います。エルサレム神殿の献金箱を前に、大金持ちの方々が献金を持ってやってきます。「入れる」という言葉は「バロー」というギリシャ語で、投げ入れるという言い方が正しいと思います。当時は紙幣はまだありませんでしたので、金貨、銀貨、銅貨、青銅貨など、彼らは神さまからの恵みをたくさんいただいていたものをじゃらじゃらと投げ入れたのでしょう。そこに貧しいやもめがやってきました。彼女は、当時流通していた貨幣の中で最も小さなレプトン銅貨を二枚投げ入れました。それを見ていたイエスさまは言われます。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。

さて、私たちはこの言葉をどのように聞くでしょうか。この言葉は私たちの献金の姿勢、或いは心構えというものを問います。イエスさまはこの貧しいやもめの献金に「たくさん」を見ました。しかし私たちが想像する「たくさん」のイメージとは違うと思います。何故ならば私たちは「たくさん」と聞くと、金額、或いは量の多さというものを考えてしまうからです。もし「量」が問われているとしたら、大金持ちが捧げた献金と、貧しいやもめが献げた献金には比べることができないほどの差があったと思います。何故ならば、レプトン銅貨と言うのは、当時一日分の労働対価と言われていたデナリオン銀貨の1/128しかなかったと言われているからです。もし一日分の労働対価が今日1万円であるとしたら100円玉二つと言えます。大金持ちが献げた金額がいくらであったかはわかりませんが、献げた金額の量にしても貨幣の質の高さにしても比べ物にならなかったのだろうと思います。

それではどういうことなのでしょうか。例えば自分の収入にとっての割合、パーセンテージというものを見て、イエスさまはその貧しいやもめの献金を誰よりもたくさん入れたと言ったのでしょうか。4節のイエスさまの言葉を見てみると、そのようにも思えます。「皆は有り余る中から献金したが、この人は乏しいものの中からも持っている生活費を全部入れたからである」。つまり、「たくさん」とは量ではなく自分の持っているものの中から「たくさんの割合」を入れたと言うことだというのです。確かに有り余っているお金から出すのと、生活費に手を出すのでは重みが違います。なかなか私たちもそこまではできないのではないかと思います。では、果たしてイエスさまはすべてを献げたということで彼女の姿勢を誉めたのでしょうか。

実は私はここにひっかかりを覚えるのです。イエスさまは、生活に困窮している女性のなけなしの献金を喜ばれる方なのでしょうか。それではイエスさまは、やもめが自分に与えられている全部を献げる姿に感心しそのように奨励しているのだとしたら、なかなか受け取るのが難しいと思うのです。
何故ならばそれが信仰姿勢として素晴らしいと評価されるならば、これは自分の生活、自分の家庭を犠牲にして神さまに献げることに直結してしまいますので、最近盛んに言われているカルトの献金問題となんら変わらない事柄になってしまうからです。
果たしてイエスさまはそんな信仰姿勢を私たちに要求されているのでしょうか。わたしはそうではないと思います。むしろイエスさまなら、このお金を全て捧げてしまったら明日からの生活が立ち行かなくなるような方が献金をしたいと言ったら、「いやいや、そのお気持ちだけで十分だ。神さまはその思いをこそ喜んでいるのだから」と言われる方なのではないかと思うのです。
しかし残念ながら、私たちのそのような期待を裏腹に、イエスさまはそういう風にはお教えにはなりませんでした。では、イエスさまは何を彼女の何を見て、そのように思われたのでしょうか。それは恐らく、献金の量でも質の高さでも自分の収入との割合でもなく、彼女自身が神さまにどのように委ねて応答しているかという、そのような思いであったのではないかと思うのです。

そもそも彼女はなんで神殿に行って献金を献げたのでしょうか。献金について私たちはよく考えます。献金は義務ではありません。十一献金の教えはあります。しかしそれは一つの目安であります。実際に教会でよく言われることは「日々の恵みに感謝して献金をしましょう」。ということです。確かに献金は神さまの恵みに対する応答です。一人一人の応答ですので、だれかれにその内容をいちいち言うこともありませんし、何かを言われる必要もないことです。無理にする必要はどこにもありませんし、したくたってできない時だってあるでしょう。もちろん献げ物をすることは大切なことです。しかし彼女の状況を見てみたら、なぜ彼女は献金できたのだろうかと思うほどあまりにもしんどい状況だったと思うのです。果たして彼女は神さまの恵みをたくさん受けていた人であったのでしょうか。
彼女についての情報はあまり多くありません。しかし「貧しいやもめ」という言葉に色々なことが明らかにされています。彼女が「やもめ」ということは、ご主人を先に失った女性であるということです。今日礼拝にお集まりの方の中にもご主人を先に天に送られた方がおられると思います。或いは奥さまを先に天に送られた方もおられることでしょう。色々な苦しみや痛みがあると思います。現代社会でも長年連れ添った方とお別れをすることはとてもつらいことです。皆さまの心の守りのためにお祈りをしたいと思いますし、まだ心の中にある様々な思いを是非お聞かせいただきたいと思います。親しい連れ合いが召された後、また私たちには色々な変化が起こります。時に大変な状況はありますが、当時のユダヤ社会は家父長制という男性優位の社会構造でありましたので、夫を失うということは女性にとって最も弱い立場になることであったと言えます。実は今日の聖書個所に入る前の20章46-47節にはこのようにあります。
「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。
これはイエスさまの言葉ですが、この言葉に意図されていたことは、身寄りを失ったやもめを弁護するために律法学者が法外な相談料を取ったり、財産の横領をすることがあったことへの批判だと言われています。その他に宗教者として今私が例を挙げるとすれば、こう言うこともあったのではないかと思います。「ご主人が先に天に召されたのはあなたのせいではないか。あなたはご主人の供養のために祈りが必要である。私が祈ってあげるから、神に献げ物をしなさい」。
このようなことはどこぞのカルト宗教や日本のいくつかの新興宗教が「ご主人の霊が浮かばれない」などと今もやっていることです。当時もあったのではないかと思うのです。こうした教えは、夫婦の関係が深ければ深いほど心に重くのしかかることです。夫を愛すればするほど、そのようにしなければいけないのではないかと思ってしまうでしょう。しかしそのような教えは人に寄り添うものではなく、むしろ人を食い物にすることなのです。イエスさまはここでそのことを厳しく批判しています。何故ならば、先に召されたものはすべて神の国にいるからです。今日は詳しくは延べませんが、それがイエス・キリストの神の国であり、福音なのです。しかしこういうことからもわかるように、やもめと言う立場は非常に弱い立場であったのです。そしてこのやもめはやもめであっただけではなく、貧しいという形容詞が付いています。貧しいと言うと経済的な困窮をすぐに考えます。しかしこの貧しいと言う言葉の背後には「日々のパンを求める」という意味があり、それはつまり他の人の助けが得られないということにも繋がっていきます。ですから恐らくこの人は経済的な貧しさだけではなく、色々な関係性の欠乏、困難の中に呻いていたのではないかと思うのです。

しかし彼女は、エルサレム神殿で献金をしました。どうしてでしょうか。私がもし彼女のような状況にいたら、献金なんてとてもできなかったと思います。神さまの恵みなんて何もないじゃないかと思うほどではないかと思います。むしろ、神さまなんて本当にいるのかと恨んでもおかしくないということがあるのではないかと思ってしまうのです。
彼女はそうではありませんでした。なぜでしょうか。恐らく、彼女にとっては嬉しいときも悲しいときも、祝福の時も困窮の時も、喜びの時も受難の時も、やはり恵みであったのではないかと思うのです。私たちはいいときは神さまの恵みがたくさんあるけれど、悪いときには神さまに恨み言ばかり言ってしまうことがあります。しかし、実に神さまへの感謝の思いというものは、良いときばかりではなく、困難がある時に、まさに難が有ることで、初めて有難く感じるものなのです。「有難い」と言う思いは、難がない「無難の時」には生まれないのです。苦しみの中で、しかしその苦しみを私たちのために忍ばれたイエスさまを近くに感じること。それが私たちの恵みなのです。そこには大金持ち、或いは律法学者たちが有り余る中から献げたような想いとは、まるで質の異なる感謝が溢れていたのではないでしょうか。

つまり彼女は、今自分が生かされていて、その背後には多くの人々との出会いがあって、夫との別れもあり、結果として今は貧しさの中にはいるかもしれないけれど、すべての内におられる神さまに感謝をしていたのです。イエスさまはそんなやもめの神さまへの思いをしっかりと見ておられ、心に留められていたのではないでしょうか。その溢れるばかりの思いを、イエスさまは神さまへの感謝、或いは彼女の信仰として受けたのではないかと思うのです。彼女が献げたレプトン銅貨二枚とは、彼女の全財産とありますが、訳しかえれば彼女の生涯、生活の全てであったのです。

今日の聖書個所は献げものがテーマでしたが、決して献金の事柄として考えてほしいわけではありません。神の恵みにどう感謝しているかを考えたいのです。今日は受難節の始まりの礼拝です。私たちのために十字架に架けられることさえ惜しまないほどの愛を献げられたイエス・キリストを覚えることです。イエスさまの受難が私たちの感謝に繋がります。私たちはこの愛にどれほど真実に応答しているでしょうか。私たちは神さまへの感謝をどのように表しているでしょうか。イエスさまは言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。(ヨハネ16:33)
主はいつの時も私たちと共におられます。祈りつつ、感謝して、歩みだして参りましょう。

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